第77段 捧げ物の山 【常多】
昔、文徳天皇と申し上げる帝がいらっしゃった。その御代の女御に、藤原
山が動いて今日の法要に会葬したのは、女御と春の別れをしようと訪れたのであろう。
と詠んだのは、今見ればそんなに良い歌ではなかった。しかしその当時はこの歌にみんな感心したのである。
【定家本】
昔、田邑の帝と申す帝おはしましけり。その時の女御、多賀幾子と申す、みまそかりけり。それ失せ給ひて、安祥寺にてみわざしけり。人々ささげ物奉りけり。奉り集めたる物、千ささげばかりあり。そこばくのささげ物を木の枝につけて、堂の前に立てたれば、山もさらに堂の前に動きいでたるやうになむ見えける。それを、右大将にいまそがりける藤原常行と申すいまそかりて、講の終るほどに、歌よむ人々を召し集めて、今日のみわざを題にて、春の心ばへある歌奉らせ給ふ。右の馬の頭なりけるおきな、目はたがひながらよみける。
山のみな 移りて今日に あふことは 春の別れを とふとなるべし
とよみたりけるを、いま見れば、よくもあらざりけり。そのかみは、これやまさりけむ、あはれがりけり。
【朱雀院塗籠本】
無し。
【真名本】
昔、
山の皆 移りて今日に
と読みたりけるを、今見ればよくもあらざりけり。
【解説】
「田邑の帝」は文徳天皇。
多賀幾子は藤原良相の娘。文徳天皇女御。藤原良相は冬嗣の子。
藤原
多賀幾子が亡くなったのは858年。文徳天皇もこの年に崩御している。業平が右馬頭になったのはその7年後の865年。業平は825年生まれだから、いずれにしても「おきな」というほどの年ではない。
「沽洗」はやはり十二律に由来する月の名の異名。中国の音階の五番目。日本の
次の第78段はこの段とほぼ同じ話である。
『玉勝間』
「けふの御わざを題にて」の「けふ」のは、その日のとあるべきことなり。
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