018 生心ある女

昔、風雅をもてあそぶ女がいた。ある男がその女にちょっかいを出してきた。この女は歌詠みだったので、試しに、しおれかけた菊の花を折って、歌を付けて男に贈った。


 枝がたわむほどに白雪が降り積もって、赤い色を隠していようにも見えますね。


男は女の意図もわからず歌を返した。


 赤く色づいた上に雪が積もったような白菊というのは、この菊を折った人の袖の色重ねのことでしょうか。


【定家本】

むかし、なまごころあるありけり。をとこちかうありけり。女、哥よむ人なりければ、こころみんとて、きくのはなのうつろえ(へ)るをゝりて、おとこのもとえ(へ)やる。

 くれなゐに にほふはいづら しらゆきの えだもとをゝに ふるかともみゆ

おとこ、しらずよみにける。

 くれなゐに にほふがうへの しらぎくは おりける人の 袖かともみゆ


【朱雀院塗籠本】

むかし。なま心ある女ありけり。男とかういひけり。女歌よむ人なりければ。こゝろみんとてむめを折てやる。

 紅に ゝほふはいつら 白雪の 枝もたはゝに ふるやとも見ゆ

おとこしらず。よみによみけり。

 紅に ゝほふかうへの しら雪は 折ける人の 袖かとそ見る


【真名本】

昔、生心なまごころある女ありけり。おとことかく云ひけり。女、歌詠む人なりければ、心みむとて、菊の花のうつろへるを折りて、男のもとへやる。

くれなゐに 匂ふは何所いづら 白雪しらゆきの えだもたわわに るかとも見ゆ

夫、知らずに読みけり。

 紅に 匂ふが上の 白菊は 折りける人の 袖かとぞ見ゆ


【解説】

女は老婆で、白い化粧が女の赤くしおれた肌を隠しているのだという解釈があるようだが、そんなことはどこにも書いてない。他の段と同じように、これは、男が女を口説こうとしている話に違いない。

別に深読みするほどの話ではなさそうだが、しかし、たわいのない、意味不明な話でもなさそうな気もするのである。


『定家』「なま心あるありけり。男ちかうありけり。」意味が通らない。

『朱雀』「こゝろみんとてむめを折てやる。」梅なのか?

『真名』「紅に匂ふ白菊」?

「移ろひ菊」とは花弁の端が紫色に変色した白菊であるという。

また、表が紫で裏が白の重ねも「移ろひ菊」というらしい。

『真名』に沿って解釈すると、移ろいかけた白菊は、赤い菊に白雪がたわわに積もったように見えますね、と女が言って、男は、それはあなたの袖のことですか、と返しているのかもしれない。

いずれにしても大したやりとりとは思えないのだが。なんなのだろうこれは。それが「生心」だと言いたいのか。

『定家』『朱雀』ともに、意味もわからず写本しているので、ますます意味不明になっているように思える。


『伊勢物語』、特に『真名本』には、当て字とか駄洒落などの言葉遊びに満ちているのがわかる。非常にふざけていて、真面目さを小馬鹿にしているような態度が見える。いわゆる縁語とか掛詞とかそんな風流なものではない。そう、親父ギャグとでも言ったほうがふさわしい。


最初、この段を読んだ時は、「生心」というものを批判しているように見えた。しかし、どうもそうではないのではないか。

「生心」には「遊び心」とか「茶目っ気」とでも言えるような肯定的な意味があったのではないか。

「好色」とか「なまめく」とか「生宮仕へ」などもみな同じで、これらはみな、世の中に対する、ふてくされたような、なげやりな、覚めた態度を言うのではないか。

この「生心」というものは、『伊勢物語』の中核をなす価値観、すなわち作者の嗜好、作者の性格そのものなのではないか。

定家もまた言葉遊びが好きな人ではある。人を唖然とさせるような、軽業師的なレトリックを好む人だが、同時に極めて生真面目な人で、平安朝の風雅というものを大切にする人だ。決して「生心」ある人ではない。逆に、この『伊勢物語』の作者である(と私が思っている)紀有常という人は、「生心」な「生宮仕へ」な、「生めいた」、不真面目な人だったと思う。在原業平もまた「生宮仕へ」、つまり江戸時代で言えば旗本退屈男的、大正時代で言えば高等遊民的な人、デカダンスともインテリゲンチャとも貴族趣味とも言える人であったろうが、しかし、業平は定家にかなり近い人だったように思える。そして宣長も定家に近い。

『万葉集』も『竹取物語』も『伊勢物語』も、一種自由な、ハチャメチャな、ドタバタギャグコントのような、新しくも退廃的な、そして何よりも男性的な文芸だった。

ところが平安時代に移行して、『源氏物語』ができて、日本文学は極めて女性的になった。源平合戦や承久の乱を経て、公家は王朝文芸という虚構の世界に逃げ込み引き籠もってしまった。定家は『伊勢物語』を編纂して『定家本』を作り、自分好みに仕立て直した。だから『定家本』には、どこかよく意味のわからないところがある。生の男女関係とか生活感というものを欠落させてしまっているからだ。もちろんそうした生々しさというものは『源氏物語』にも『和泉式部日記』にもあるのだが、そうしたリアリズムというものを定家や宣長は嫌った。記号化された、オタク化された王朝文芸を好んだ。

そう、「記号化された世界」つまり「社会通念」の外にある、すべての規範、すべての既成概念、すべてのたてまえやしきたりや作法、日常性や常識を取っ払った、あるがままの世界、それが「なま」なのかもしれない。男と女の関係で言えば、打算や世間体を度外視した本音の、自分の心の奥底から沸き起こる、あらがうことのできない恋愛感情。


定家は明らかに「生」が嫌いだ。でも有常はたぶん大好きだったと思う。旅行が好きで、取材して、写生して、紀行文を書くのが好きだったはずだ。リアルな実体験を蒐集して記録するのが好きだったはずだ。『万葉集』を編纂した大伴家持もそうだったのに違いない。


「生心」は定家の価値観とは相容れない。私たちはつい日本の古典文芸を定家の視点でみてよしあしを決めてしまう。しかし今私たちは、定家をいったんわきによけて『伊勢物語』を鑑賞してみるべきではなかろうか。定家は偉大だが万能ではない。そして虚心に眺めてみると、いろんなことがみえてくる。

宣長は『真名伊勢物語』に残る「異臭」を敏感に感じた。定家のように、それらを「雑味」として排除したくなった。

でも、荷田春満や賀茂真淵は、男性的な人であり、万葉時代が好きな人でもあるから、『真名伊勢物語』のくだけた雰囲気を愛好したのだと思う。

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