002 西の京の女 【古】
昔、奈良の都の時代は遠ざかり、今の都にはまだ人の家がまばらだったころに、長岡京に住む女がいた。その女は普通の人よりも、容貌ではなくて心が勝れていた。一人暮らしというわけでもなく、通ってくる男もいたようである。ところがこの女にはまめまめしいあの男が口説きにきて、家に帰ってから、何を思ったのか、弥生の一日に、雨がしょぼしょぼと降っているのを見て歌を詠んで女に贈った。
起きているわけでもなく、かといって寝ているわけでもなく、ぼんやりと、そぼふる春雨を季節に似つかわしいものだなと眺めながら、私は暮らしております。(あなたはいかがお過ごしですか。)
【定家本】
むかし、おとこありけり。ならの京ははなれ、この京はひとのいゑまださだまらざりける時に、西の京に女ありけり。その女、世人にはまされりけり。その人、かたちよりはこころなんまさりたりける。ひとりのみもあらざりけらし。それをかのまめ男、うちものがたらひて、かへりきて、いかゞおもひけん、時はやよひのついたち、あめそほふるにやりける。
おきもせず ねもせでよるを あかしては 春のものとて ながめくらしつ
【朱雀院塗籠本】
昔男ありけり。みやこのはじまりける時。ならの京ははなれ。此京は人の家いまださだまらざりける時。西京に女有けり。其女世の人にはまさりたりけり。かたちよりは心なんまされりける。ひとりのみにもあらざりけらし。それをかのまめ男うち物かたらひて。かへりきていかが思ひけん。時は彌生の朔日。雨うちそぼふりけるにやりける。
おきもせす ねもせてよるを 明しては 春の物とて 詠め暮しつ
【真名本】
昔、男ありけり。
起きもせず 寝もせで夜を 明かしては 春の
【解説】
「まめ」な男とは何か?
『真名』「まめ」の漢字を推測するに「斂」か「歛」であろうと思う。
「斂」ならば「おさめる」、「歛」ならば「のぞむ、ねがう、ものごいする」。女のところにまめに通う男なのだから、「歛」がふさわしかろうかと思う。
「やよひのついたち」はグレゴリオ暦だと四月の初旬くらい。
『真名』によれば「奈良の京」は「寧楽花洛」、「西の京」は「長安」と書かれている。かつて中国で洛陽を「東京」、長安を「西京」と呼んでいたことがあり、そのため京都の左京を洛陽(東京)、右京を長安(西京)と呼ぶこともあったらしい。しかしここでは平安京を長安、平城京を花洛と呼んでいるようにもみえる。
紀有常はしゃれっけのある人だから、自分の(漢文体で書かれていた)日記に、こういう表記をしたかもしれない。
「西の京」とあるから、平安京の朱雀大路から西側、右京のことだ、朱雀大路よりも東側が先に開発が進み、西側が遅れていた、と解釈されることが多いようだが、果たしてそうだろうか。この可能性はほとんどないと、私には思える。「右京」を「西の京」と呼んだ例があるだろうか。
奈良に対して京都を西京と呼んだ、と解釈するほうがずっと自然だ。
「西の京」とは案外、平安京から見て西にあった長岡京をさすのかもしれない。平城京、長岡京、平安京と遷都してきて、『伊勢物語』には長岡京の話も少なくないのである。つまり「この京」は現在の平安京、東京は平城京、西京は長岡京。
なお、明治の東京奠都後暫くは、京都のことを西京と呼んでいた。「西京焼き」「西京漬け」など、料理の名に痕跡を留めている。
今の「
在原業平の母、桓武天皇皇女の伊都内親王は、長岡京の人だったらしい。彼女は晩年長岡京の山荘に隠遁している。
『古今集』巻13、恋3巻頭、616番に同じ歌が、「やよひのついたちよりしのびに人にものらいひてのちに、雨のそほ降りけるによみてつかはしける」という詞書きで、在原業平朝臣の歌として載る。「物ら言ひて」は「うち物語らひて」と同じだろう。
『業平集』「やよひのついたちごろ、雨ふる日、人のもとへ」と詞書きがあり、もう一つ続けて歌がある。
散りぬれば こふれどしるし なきものを けふこそさくら 折らば折りてめ
もしこの二つの歌が連続しているとしたら、男が眺めているのは長岡京に降る春雨と桜の花ということになる。
『朱雀本』「みやこのはじまりける時。」いかにも余計だ。
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