本文

001 陸奥の信夫捩摺り【古】

昔、元服して冠をかぶるようになったばかりの男が、奈良の春日の里に所有する猟場に狩りに出かけた。その里に、とても魅惑的な姉妹が住んでいた。男はその姿を垣間見た。意外にも、こんな古びた都に似つかわしくない容貌だったために、男は心を惑わされてしまった。男は着ている狩衣の裾を切って、歌を書き付けて贈った。その男は信夫摺りの狩衣を着ていた。


 春日野の若紫色の、信夫捩摺りの衣の模様のように、心が限りなく乱れています。


男は姉妹に追いついて、そう伝えた。女たちは面白いことだと思ったのだろうか、


 誰のせいで、陸奥の信夫捩摺り染めのように、心乱れはじめてしまったのですか。私たちのせいではないでしょう。


と気の利いた歌を詠んで返した。昔の人はこのようにとっさの機転で風流なことをしたものだ。


【定家本】

むかしおとこ、うゐかうぶりして、ならの京、かすがのさとにしるよしゝて、かりにいにけり。そのさとに、いとなまめいたる女はらからすみけり。このをとこかいまみてけり。おもほえず、ふるさとに、いとはしたなくてありければ、こゝちまどひにけり。おとこのきたりけるかりぎぬのすそをきりて、うたをかきてやる。そのおとこ、しのぶずりのかりぎぬをなんきたりける。

 かすがのゝ わかむらさきの すりごろも しのぶのみだれ かぎりしられず

となん、をいつきていひやりける。つ(い)て、おもしろきことゝもやおもひけん

 みちのくの しのぶもぢずり たれゆえに みだれそめにし われならなくに

といふ哥の心ばへなり。むかし人はかくいちはやきみやびをなんしける。


【朱雀院塗籠本】

むかしおとこありけり。うゐかぶりして。ならの京かすがの里にしるよしして。かりにいきけり。其さとに。いともなまめきたる女ばら(女はらから)すみけり。かのおとこかいま見てけり。おもほえずふるさとに。いともはしたなくありければ。心ちまどひにけり。男きたりけるかりぎぬのすそをきりて。うたをかきてやる。そのおとこしのぶずりのかりぎぬをなんきたりける。

 かすかのゝ 若紫の 摺ころも しのふのみたれ かきりしられす

となん。をいつぎてやれりける。となんいひつぎてやれりけるおもしろきことゝや。

 陸奧に忍ふもちすりたれゆへに亂れそめけん我ならなくに

といふうたのこゝろばへなり。むかし人は。かくいちはやきみやびをなんしける。


【真名本】

昔、男、褁頭うひかうぶりして、平城京ならのきゃう、春日のさとに、知るよしして、かりにけり。其の里に、いとなまめいたる女朋比をんなはらから住みけり。この壮士おとこ垣間かいま見てけり。おもほえず、古郷ふるさとに、いとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。壮士のたりける狩衣かりぎぬの裾をりて、歌を書きてる。其の壮士、信夫摺しのぶずりの狩衣をなむ著たりける。

 春日野の わかむらさきごろも 信夫の乱れ 限り知られず

となむ云へりける。いで面白きこととや思ひけむ、

 道奥みちのくの 信夫鈘摺もぢず誰故たれゆゑに 乱れめにし われならなくに

と云ふ歌の心歯得こころばへなり。往古むかし人は、かく壱早いちはや閑麗みやびをなむしける。


【解説】

いきなり「褁頭」という珍妙な漢字が出てくるのが『真名伊勢物語』の怪しげなところだが、実は全然怪しくない。「褁」は「袋」と同義であって、『万葉集』にいくつも用例がある。「包む」とか「つと(土産)」「ふくろ」と言う意味だ。

「包む」の「つつ」と「つと」は同語源。

「褁頭」は山伏などが頭を包む袈裟のようなもの、つまりターバンのようなものをいうらしいが、ここでは冠のことを言っているらしい。


「うひかうぶりして」は『真名』では「褁頭為」、「しるよしして」は「知由為」。以下「為」は「して」と訓むらしい。「知由為」もここでは普通に「領有した土地があって」と解してよかろうと思う。


「なまめく」に『真名伊勢物語』は「媚」(第1段)「姸」(第39段)「唭」(第43段)などの漢字を当てている。

第18段の「生心なまごころ」、第87段の「生宮仕へ」の「生」も同じ意味に思える。

では第114段の「生翁」はどうだろう?普通に「初老」と訳せば良さそうだが、「生心のある翁」、年を取ったが世俗に未練がある爺さん、ともとれそうだ。

だが同じ「なま」でも一方は「媚」を当て他方へは「生」を当てているのだから意味も違っていて当然だ。


『岩波古語辞典』によれば、漢文訓読系の文章では「婀娜」「艶」「窈窕」「嬋娟」に「なまめく」「なまめいたり」という訓みを当てているそうである。「婀娜」は「あだ」、しとやかで優美なこと。「窈窕」はしとやかで美しい、「嬋娟」はつややかで美しい。いずれも女性特有の美しさを形容する語のようだ。

一方で『源氏物語』で「なまめく」は、「そっけない」「その気がないふりをする」「巧んだことを悟られないようにする」「ひかえめ」「なんとなくはっきりしない」というような意味に使われているように思われる。

「生」は未熟、洗練されていない、手が加わっていない、調理されていない、天然自然のまま、という辺りが原義であろう。そこから『源氏物語』のような用例が派生するのは自然に思われる。

一方、漢文訓読特有の言葉遣い、例えば「すべからく」「いづくんぞ」「けだし」などは奈良時代の言葉で、後の世の口語や和文では廃れてしまったものが多い。『源氏』より漢文訓読の用例のほうが古いことをどう説明するか。

思うに女言葉では古くからの原義がそのまま紫式部の時代まで残り、一方男言葉では少なくとも奈良時代には、現代語でいう「なまめかしい」という意味で使われることがあったのではないか。

ともあれ私としては『真名』を第一に解釈したい。その『真名』では「なまめく」に「媚」「姸」「唭」の字を当てているのだから、その意味あいは「女っぽい」「好色な」とならねばならないと思うのである。また同時に、『真名伊勢物語』は、漢文訓読話法が生まれた時代に書かれたか、或いは漢文訓読に恐ろしく通じた人の超絶技巧によって後世偽造したか、どちらかであると考えざるを得ない。


「生」は『伊勢物語』の重要なキーワードの一つだ。『伊勢物語』における使われ方は、好色である、色好みだ、艶っぽいという意味に、かなり偏っているとみて間違いないと思う。『源氏物語』はともかく『伊勢物語』では、奥ゆかしいとか優美とか上品とか、あるいはさりげないとかみずみずしいという意味ではありえない。


「色好み」も『伊勢物語』の最も重要なキーワードの一つだが、「生」と「色」、この二つが『伊勢物語』では密接に関係している、と考えられる。


はしたなくてありければ」なぜ『真名』は、「はしたなし」に「強」という当て字をしたのか。いや逆に「強」をなぜ「はしたなし」と読んだのか。『真名本』にはこうした謎が至るところにある。「はしたなし」の原義は「欠点がはなはだしい」という非難めいたニュアンスがある。


「いとなまめいて」「はしたなくて」ある女、だいたい想像が付くだろうか。

一方で、「田舎の野生児」「強く逞しい女」と解釈することもできるが、また一方では、男好きであまり行儀の良くない女、ということだろう。もしかすると商売女、つまり娼婦であったかもしれない、とも思える。


「おもほえず、ふるさとに、いともはしたなくありければ、心ちまどひにけり」は

「ふるさとに、いともはしたなくありければ」「おもほえず、心ちまどひにけり」と解釈したい。

「おもほえず、ふるさとに、いともはしたなくありけ」る女、でもさほど解釈に違いは無いのだが。


「もぢずり」は「文字摺り」ではなくて「捩摺り」でなくてはならない。文字は「もじ」で、古語では音が違う。もぢる、つまり、布をねじってつけた模様のように心が乱れている、と解する。『真名』原文に出る「鈘」だがこれは三本足の釜のことである。布を染めるときに使う器のことだろうか?


「陸奥の」の歌は「かはらの左大臣」こと源融の歌として『古今集』にも載る。


 陸奥の しのぶもぢずり たれゆゑに 乱れむと思ふ われならなくに


「乱れそめにし」と「乱れむと思ふ」が異なっているが、『小倉百人一首』には「乱れそめにし」で採られている。


『伊勢物語』によれば、「春日野の」が男の歌であり、「陸奥の」が姉妹の返歌でなくてはならない。


都からうぶな男が来た。本来は「たれゆゑに乱れそめにし」誰のせいで心乱れ始めたのでしょうか、「われならなくに」私たちのためではないでしょう、あなたが心を乱されるにふさわしい女は私たちのほかにいくらでもいるでしょう、姉妹はそうはぐらかそうとしている。女の側の切り返しなのである。この姉妹はおそらく男よりも年上であろう。わざわざ古い都までやってきて、たまたま見かけた、しどけない生活をしている年上の女にぼーっとなっている若い男をからかっている歌なのである。原文を素直に読めばそうとしか読めない。


「みだれそめにし」が連体形で終わっているのは、おそらくこれが疑問文(というより反語)であるからだ。ところが四句切れの和歌というのはあまりみかけないし(万葉調、五七調ではあり得たがだんだん廃れた)、「乱れそめにし我ならなくに」乱れ始めた私ではないのだけれど、と後ろの体言「我」に続けて解釈できなくもない。さらに『古今集』で「乱れむと思ふ我ならなくに」という、女を口説こうとするより強い男口調の歌が採られた。


「誰のせいで乱れ始めた私なのでしょうか(他ならぬあなたのせいで私は乱れ始めました)」文章的にはかなり変だ。近代文学ならともかく、奈良時代にこんなひねくれた言い回しの歌は存在しなかったと思う。しかも、これは、男が女に詠んだ歌だとすればそのように解釈するしかないのかもしれないが、そもそもこの歌は女が男に返した歌なのである。歌を詠まれて女もまた男に乱れ始めたのか?まさか、本文を素直に読めばそのような解釈はあり得ない。


『伊勢物語』は、さまざまな詠み人知らずの和歌がさまざまな物語と融合し、寄せ集められたものだ。主要な登場人物である在原業平の一生を表しているのだと解釈されるようになった。そのためにこの「初冠」が巻頭にもってこられたのだろうが、必ずしも「初冠」に描かれた男が業平もしくは源融ではないように思われる。

歌集や物語によって歌の文句が微妙に違うのも、古歌が伝承されるうちに言葉が置き換わったり解釈が変わったり、あるいは脚色されたからである。


古都奈良は平城天皇の子孫である在原氏の地縁を暗示しているようにも思えるし、この逸話が在原氏によって伝承された話である可能性は高いと思う。

桓武天皇が平城京から都を長岡京に遷し、さらに平安京に遷都した。桓武崩御後、平城天皇が即位した。

さらに平城天皇は異母弟神野皇子に譲位して嵯峨天皇が即位した。

ところが、平城上皇と嵯峨天皇は戦争をした。「薬子の変」と呼ばれている。どうもこれはガチンコの皇位継承戦争だったらしい。

神野皇子だが、親王宣下された形跡がない(※)。また、平城天皇が嵯峨天皇に譲位して、平城天皇の皇子・高岳親王が皇太子となり、翌年、薬子の変が起きたのは非常に不審である。

平城天皇は神野皇子に譲位などしなかったのではないか。神野皇子一派が平城天皇を京都から追放した。平城天皇はやむなく平城京へ戻りここで抵抗を試みたが、敗北し、神野皇子が実力で即位して、嵯峨天皇になったのではなかろうか。

平城上皇とともに奈良に戻った皇族には、高岳親王や、在原氏の祖となった阿保親王もいただろう。

時代はだいぶくだって、初冠した男は平安京にいたが、かつて阿保親王が領していた土地に赴いたのかもしれない。


「しるよしにて」は単に知っている、知り合いのつてで、とも解釈できるが、「しる」には「支配する」「土地や人民を所有する」の意味もある。

奈良の春日野といえば、藤原氏の氏神である鹿島の神(建御雷たけみかづち)を祀った春日大社、或いはやはり藤原氏の氏寺である興福寺であろうか。従ってこの話の男は藤原氏であるかもしれない。しかし、嵯峨天皇との戦いに敗れた平城上皇の一族、その末裔の在原氏であるかもしれない。特定は難しい。


香取神社、鹿島神社は大和朝廷が関東に置いた駐屯地であって、陸奥征服の前線基地であった。その鹿島の神を藤原氏は奈良に勧進して興福寺を建てたのに違いない。興福寺と陸奥に深い関係があるのは当然と言える。すなわち、藤原一族の権力の源泉が関東経営であったのは明白だ。当然といえば当然だろう。


「陸奥の信夫」は、


 安積山あさかやま 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに


の世界を彷彿とさせる。聖武天皇の時代に、平城京遷都と並行して大々的な東征が行われた。将軍は橘諸兄たちばなのもろえであったとされる。そんな奈良時代の匂い。

また陸奥は、在原業平の義父、下野国に権守として赴任した紀有常を想起させる。陸奥には陸奥守がいるはずなのだが、陸奥は治安が悪すぎてまともに朝廷から国司が派遣され、交替していたようにも思えない。下野国は白河の関を越えれば陸奥、信夫の里、安積の里であり、比較的治安も良かったから、有常はここらあたりまで行ったように思われる。

『伊勢物語』には陸奥国塩竃(松島湾)をかつて訪れた初老の男のエピソードも出てくる(第81段)。そう、芭蕉が「松島やああ松島や松島や」と詠んだあの松島だ。有常はそんな奥地まではるばる旅したのだろうか。


有常がその任地から信夫摺りをもたらしたのだと仮定しよう。有常には息子はなかったが、娘は二人いて、在原業平、藤原敏行の室となっている。「初冠」の男は娘婿の業平であったかもしれないが、有常娘の間に出来た長男、棟梁(むねやな、或いは、むねはり)もしくは次男の滋春であったかもしれない。この業平の息子らしき男が第65段にも出てくるので見てみてほしい。

有常が下野権守となったのが867 年、棟梁が元服したのは869 年で、だいたい計算があう。業平だと年を取り過ぎていて計算が合わない。

つまり、「みちのくのしのぶもぢずり」とは有常が孫に与えた陸奥土産だった、と私は考えたいのである。


ところで、第69段に都から派遣された「狩の使」が伊勢斎宮に懸想する話が出てくるが、この第1段の男も「狩の使」であった可能性が高い。ただの遊びで狩りに出たのではなくて、勅使なのかもしれない。そして同一人物であった可能性も、なくはない。

さらに深読みしてみる。

『伊勢物語』は紀有常の日記が原型になっていると、私は考えている。

有常は国司として諸国を遍歴したから、いろんな面白い物語を知っていたし、また自らも体験し、それらを日記に記した。

在原棟梁が狩りの使いとして都を出るとき、紀有常は孫の棟梁に陸奥の狩衣を与えた。棟梁は奈良、伊勢、尾張を経巡って、有常に土産話をした。有常はその話を自分の日記の中に書き付けた。

有常の日記を彼の死後誰かが切り分けて、当時流行していた古歌を挿入して物語にし、あるいは歌謡や演劇にしたてた。

さらに後の人がそれら『有常物語』を中心に雑多な歌物語を蒐集して、『伊勢物語』が成立したというあたりが真相ではなかろうか。

『伊勢物語』にただようデカダンスの雰囲気はこれが『古今集』時代の人々によって、二世代前の有常日記を元にこしらえられたからだろう。


『玉勝間』

初のくだり、「男のきたりける」云々、「男の」の「の」もじひがこと也。『真名本』に無きぞよろしき。「男の」とては、云々しかしかして歌を書てやる事、女のしわざになる也。


※ 親王宣下は淳仁天皇から始まったとされるのだが、淳仁の父は舎人親王と呼ばれ、また舎人親王の弟に新田部親王がいる。これら二人の親王はおそらく淳仁から親王宣下されたと思われるのだが、記録にないようだ。

『大宝令』『養老令』によれば親王宣下は天皇が兄弟姉妹や息子、娘に与える称号であるらしい。淳仁天皇は廃帝となったので、本来であれば兄弟や王子、王女に親王や内親王がたくさんいたのかもしれない。

中国にも親王という用語はあるが「なんとか親王」と呼ばれた人はいないようだ。中国で「親王」という呼称に対して特別な規定があったとは思えない。内親王というのは明らかに日本固有の呼び名であり、中国では公主と言う。

どうもよくわからないのだが、天皇の父や叔父らを親王と呼んだのが親王の始まりではなかろうか。

桓武天皇の時に皇太子が親王宣下されるという制度はほぼ確立したと思われるが、神野親王という呼び名や、神野王が親王宣下されたという記述が当時の史書にまったくないのは極めて不審である。そもそも即位前に神野王と呼ばれたことさえなかったかもしれない。平城天皇も親王宣下されたり王と呼ばれたこともなかったようだ。なお、桓武の父である光仁天皇は白壁王と呼ばれた。これも推測に過ぎないが、当時は元服する前には親王や王と呼ばれることはなかったのかもしれない。

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