第2話 escape

スライとジェントリーが同じ牢屋に入れられてから、一週間が経った。

 鉄格子のはめられた窓からは、夕陽が西へと沈んでいくのが見える。これから、土曜日の夜が始まる。今夜は特別な夜だ。

「スライ、どう……?」

「なんとか、いけそうだ」

 スライはじっと聞き耳を立てていた。遠くから、男たちの賑やかな声と音楽が、微かに聞こえてくる。マフィアたちはパーティーか何かをしているらしい。ここに人が来る気配は、全くといっていいほど無かった。

「好都合だ。そろそろ、行動開始といくか」

 スライはそう云うと、ジャケットの内側から、少し太めの針金を取り出した。牢屋の中に落ちていたものを、スライが回収して隠し持っていたものだ。スライは針金を折り曲げると、牢屋の鍵を見る。

 牢屋の扉を施錠している鍵は、半分ほど錆びていた。マフィアが毎回の食事で出す塩気の強いスープを、スライはマフィアの目を盗んで毎日、鍵に浴びせ続けていた。スープの塩分で金属製の鍵は、腐食が進んでいた。

 折り曲げた針金を使い、スライは鍵に強い力を一気に加える。なるべく音を立てないように気を遣いながら、スライは何度も錆びた鍵に針金で強い力を与え続ける。

 何度かそれを繰り返し、ついに鍵が壊れた。扉を封じていた鍵は折れて床に落ち、扉を封じるものは無くなった。

「よし、開いた!」

 スライは扉を開け、辺りを確認してから牢屋の外に出る。

「ジェントリー、行こう!」

「これって、夢じゃないわよね……?」

 ジェントリーがおずおずと出てくる。今起きていることが、とても信じられないという顔をしていた。

「夢じゃないよ。さ、今がチャンスだ!」

「……うん!」

 ジェントリーはスライの後に続いて、外へと向かった。



「……やっぱりだ」

 スライが物陰で云う。マフィアたちはパーティーをしていた。何のパーティーなのかは分からないが、酒で酔っぱらっている者も多い。あのニードルというマフィアのボスも、料理と酒に夢中になっているようだ。脱出するために、これ以上ない最高のチャンスが来ていると、スライは思った。

「脱出するチャンスだ」

「じゃあ、早くこんなところから出よう」

 ジェントリーの言葉に、スライは頷く。

 二人は建物から出ると、正面の門に向かった。門に向かうまでの道には、黒い自動車が何台も停まっていた。きっと、この中のどれかで、ここに連れてこられたのだろう。スライは自動車を横目に、そう考えた。

「あともう少しね」

 門はすぐ近くにまで来ていた。あの門を抜ければ、後はマフィアの手が及ばない所まで逃げるだけだ。二人の表情に、久しぶりに笑みが生まれる。

 そのときだった。

「ちょっと待て!」

 声を掛けられ、二人は口から心臓が飛び出しそうになる。

「お前ら……どうやって……?」

 一人のマフィアが、目を真ん丸にしながら二人を見ていた。その手は、黒い拳銃を握りしめている。

「しまった!」

 スライが叫ぶ。なんということだ。あと少しという所まで来て、マフィアの下っ端に見つかってしまった。このままだと、また捕まって牢屋に逆戻りだ。

 そんなことだけは、絶対に嫌だった。たとえ自分が捕まったとしても、ジェントリーだけは絶対にマフィアの手から逃がさなくては。

「くそっ!」

 スライは無我夢中で、マフィアの下っ端に飛びかかる。

「うわぁっ!」

 スライとマフィアの下っ端は、揉み合いになる。スライはマフィアの下っ端から、拳銃を奪い取った。

「近づくなっ!」

 マフィアの下っ端に銃口を向けた瞬間、スライは引き金を引いてしまった。

 銃声が、マフィアのアジトに轟いた。パーティーの最中だったマフィアたちが、突然の銃声に驚き、辺りを見回す。

「何だ今の銃声は!?」

「おい、すぐに何が起きたのか調べろ!」

 マフィアが騒ぎ出す。たまたまとはいえ、スライは拳銃の引き金を引いてしまったことを後悔した。

「しまった! 撃っちゃった!」

「ねぇ、これからどうするの!?」

 ジェントリーが云う。

「逃げるしかない!」

 スライはジェントリーの手を取り、走り出す。強行突破で門を抜け、路地裏へと飛び出す。マフィアの怒号が聞こえたが、スライは一度も背後を振り向かない。振り向いたら、そこで終わりを迎えてしまうような気がした。

「あの二人が脱獄したぞ!」

「すぐに追うんだ! 急げぇ!」

 マフィアたちの声が、背後から聞こえてくる。いつ追いつかれるか分からない。今のうちに、できる限り遠くへ逃げなくては!

「ジェントリー、大丈夫?」

 時々、スライはジェントリーに声を掛けながら、走り続ける。

「ま、まだ大丈夫。でも、いつまで走れるか……」

「途中でどこかに隠れて、休憩を挟みながら逃げよう」

「スライ、大丈夫かしら……」

 ジェントリーの表情に、不安の色が陰る。

「今夜は土曜日の夜だ。きっと、大丈夫」

 スライはそう信じるしかなかった。



 路地裏を走り続け、二人は建物の間などに身を潜める。乱れた呼吸を整えていると、近くに革靴の足音が聞こえてきた。

「どこに逃げやがった!?」

 マフィアの声だった。二人は息を殺して、気配を消す。

「あっちを探すぞ!」

「おう!」

 足音が遠のいていき、二人はそっと胸を撫で下ろす。

「……行ったみたいだ」

 スライが建物の間から、顔を少し出して云う。

「しばらく、ここで休憩するか」

「賛成」

 二人はその場に座り込んだ。ずっと走り続けてきたせいで、体力もスタミナも限界だった。肩で大きく息をしながら、乱れた呼吸と体力を回復させる。

「そういえば、スライ」

 ジェントリーが口を開く。

「さっきマフィアから奪った銃は……?」

「まだ、持ってる」

 スライは拳銃を取り出した。粗悪で安価な拳銃だった。

「安物の拳銃だ。マフィアよりも、チンピラが喧嘩で使うような代物だ」

「役に立つのかしら……?」

「少なくとも、無いよりかはマシだと思う」

 スライはそう云って、拳銃をしまう。無いよりかはマシでも、使う機会が無いようにしたい。弾丸だって、拳銃に装填されているだけしかない。

「ジェントリー、大丈夫?」

「私は平気。スライは?」

「俺も大丈夫だ」

 すると、ジェントリーがスライの手を取る。

「スライがいると、なんだか安心できる」

「え……そ、そう……?」

 手を握られ、スライは顔を赤く染める。

 しかし、それは一瞬で終わった。

「いたぞ!」

 マフィアの声が、二人に緊張感を走らせる。

「見つかったわ!」

「ジェントリー、走るぞ!」

 二人は立ち上がると、再び走り出す。

「待てコラァ!」

「くそっ!」

 絶対に、追いつかれてたまるか。

 スライは路地裏に置かれているゴミ箱や木箱を見つけると、全て蹴飛ばしたりした。バランスを崩したゴミ箱は、倒れて中のゴミを撒き散らす。木箱は崩れて道を塞いだ。障害物を次々に作り、狭い路地裏をさらに狭くする。

 走りながら後ろを振り向くと、マフィアは少し遠ざかっていた。障害物が、うまいこと仕事をしてくれたようだ。スライはニヤリと笑う。

 しかし、安心してはいられない。マフィアは障害物で遠ざかったが、諦めたわけではなかった。障害物を乗り越え、追いかけてくるのを止めない。

「くそっ、まだ追ってくる!」

「ねぇ、これからどうするの?」

 ジェントリーが、少し不安そうな声で訊く。

「もうすぐ表通りだ。表通りなら人が多いから、マフィアも手荒なマネはできないはず。まずはそこまで逃げよう!」

 スライが云う通り、表通りまではすぐだった。

 路地裏を抜けると、人通りの多い通りに出た。二人は人ごみを分けながら、小走りで逃げ続ける。人の目があるから少しは安心だが、ゆっくりはできない。

「……」

 ジェントリーはスライと逃げながら、左右に視線を向ける。すれ違う人々の視線が、全て自分に向けられているような気がした。その中には実際に向いていたものもあれば、ジェントリーの思い込みもあった。

「……ねぇ、スライ」

 ジェントリーが、呟くように云う。

「ん、どうかした?」

「……路地裏から逃げよう」

「えっ?」

 スライは、目を丸くする。

「どうして? やっぱり表通りで逃げると遅い?」

 確かに、路地裏は人がほとんどいないから、素早く移動できる。表通りは人が多いから素早く移動するのは難しい。しかしその反面、人目が多いから何か起きた時、嫌でも人目に触れることになる。それをマフィアは嫌うはずだ。だからスライは、表通りの方が安全だと思っていた。

「……人の視線が、気になるの」

 ジェントリーの言葉に、スライは首をかしげる。いったいどういうことなのか、スライには分からなかった。

 しかし、ジェントリーの意向を無視するわけにもいかなかった。

「わかった。じゃあ、また路地裏から逃げよう」

 スライはジェントリーと共に、再び路地裏へと逃げ込んだ。人が消え、二人は人にぶつかる心配が無くなると、一気に走り出した。



 噴水がある人気のない広場まで来た。二人は噴水の側に腰掛け、肩で大きく息をする。走ってきたから、身体中が酸素を求めていた。

「しばらくここで休んでいこう。マフィアの姿も、今は見えない」

 スライの言葉に、ジェントリーは首を縦に振って答える。

 呼吸が落ち着いてくると、スライが口を開いた。

「……人の視線が気になるって、どういうこと?」

 ジェントリーは沈黙したままだった。その沈黙が、スライに不安を抱かせる。聞いてはいけないことを、聞いてしまったのかとスライは思った。冷や汗が、身体を伝う。

「……スライになら、話してもいいわ」

 ジェントリーはそう云うと、スライに向き直った。

「この耳と、尻尾のせいなの」

「耳と尻尾のせい……?」

 スライは口元に指先を当て、考える。

「そういえば……!」

 牢屋の中での会話を、スライは思い出した。耳と尻尾が目立つせいで、ずっと人目を気にして生きてきた。ジェントリーはそんなことを云っていた。

 そうか、それで人の視線が気になったのか。大通りから逃げるのは、ジェントリーにとって苦痛だったのかもしれない。

「ごめん。耳と尻尾のこと、すっかり忘れてた。目立つのは嫌だったな……」

「そうじゃないの」

 ジェントリーが否定し、スライは目を丸くする。

「……スライが、変な目で見られるのが嫌なの」

 どういうことなのか、スライにはさっぱり分からなかった。

「それって、どういうこと?」

「私が変な目で見られるのはいいの。でも、スライまで一緒に変な目で見られるのは、耐えられないの!」

「そんなこと、どうでもいいよ」

 スライは人の視線など、全く気にしていない。しかし、ジェントリーは譲らない。

「どうでもよくない! そのせいで昔、友達がノイローゼになっちゃったの!」

 ジェントリーは、薄っすらと目に涙を浮かべる。

「スライに、昔の友達と同じような思いをさせたくないの。だから……私を残して、このまま逃げてもいいよ」

 ジェントリーは浮かんでいた涙をそっと拭う。自嘲気味に放った言葉は、スライに深く刺さった。その場から、スライは微動だにしない。

「俺は、そうはならないよ」

 スライは少し困った表情で、答える。

「どうして、そう云えるの……?」

「ノイローゼなんて、なったこと無いから」

 何の根拠も無かったが、スライはそう思っていた。

「だからさ、そんなに自分を卑下しなくてもいいよ。それよりも、早くマフィアから逃げて、自由になろうよ!」

 ジェントリーは、大粒の涙が零れそうになるのを、ぐっと我慢した。

「スライ……ありがとう」

 もう少しだけ、この人を信じてみよう。ここまで自分の事を思ってくれるなんて、なんだか嬉しい。

 一時の平和が、二人の間に作られる。

 しかし、それも長くは続かなかった。

「見つけたぞ」

 聞き覚えのある声がして、二人に緊張が走る。身体中を、一気に電撃が走ったような気がした。振り向くと、そこにはニードルがいた。なんてことだ。こんなところで、見つかってしまうなんて。

「パーティーの騒ぎを隠れ蓑にして、脱走しようとは、考えたな」

「ニードル!」

 スライが叫ぶと、ニードルはニヤリと笑う。

「いかにも。さて、そろそろ牢屋に戻ってもらわないと、困るな」

「くそっ……」

 このままでは、ふりだしに逆戻りだ。

「一か八か……やるしかない!」

 スライはそう云うと、拳銃を取り出した。マフィアの下っ端から奪った安物の拳銃を、スライはニードルに向ける。拳銃を見たニードルは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに元の表情に戻った。

「ほう、この私に何をしているか、理解しているのか?」

「このまま俺達を自由にしろ。さもないと、ハチの巣にしてやる!」

 スライは云う。

「威勢がいいな」

「スライ……」

 ジェントリーが心配そうな表情を見せる。

「早く答えろ! 俺達を自由にするか、それとも――」

 そのとき、いきなりスライの持っていた拳銃が火を吹いた。銃声が辺りに鳴り響き、弾丸が銃口から発射される。撃ち出された弾丸は、ニードルに向かって飛んでいく。

「ぐはっ……」

 弾丸を食らったニードルは、その場に倒れ込んだ。

 拳銃が暴発した。

「あ……あ……」

 人を撃ってしまった。突如として起きた出来事に、スライの頭は整理が追いつかない。

 冷静になっていたのは、ジェントリーだけだった。

「スライ! 逃げるわよ!」

 ジェントリーはスライの手を取ると、その場から逃げ出した。



 表通りに出ると、スライは拳銃をしまい、自分の服の裾を掴んだ。

「やっちゃった……」

 この手で、人を撃ってしまった。スライの中は、急速に罪悪感に支配される。

 ハチの巣にするなんて、もちろんハッタリだった。拳銃にそれができるほどの弾丸も入っていない。そもそも、人を撃つことさえ、したくなかった。

「どうしよう……どうしよう……」

 やっぱり、拳銃なんて向けるべきじゃなかった。スライが後悔に苛まれる横で、ジェントリーはスライにかける言葉が見つからなかった。

「スライ……」

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