第8話「身綺麗にしとかないと」

 船は偉大だ。水路は人の脚を煩わせることなく、速やかに距離を短縮させ旅する人間の心を軽やかにする。


 僕はちっぽけな波止場に飛び降りると、尊敬の念を込められた人々の目に見つめられながら、赤茶けた土が舞う埃っぽい路を悠然とした態度で踏みしめながら歩いた。


「坊ちゃま。天気、あまりよろしくありませんね」


 ノエルはコートを引き寄せたまま荒れ狂う突風から身を守るようにして、そっと身体を寄せて来た。


 子供とはいえ、彼女の気持ちを知った今、僕は平穏を保つことができずあいまいにうなずきながら、空に広がる灰色の雲を眺めて、少しだけテンションを落とした。


 目的としたコロズム村までは、どんなに遅く歩いても明日には到着するだろう。


 水賊を撃退したのち、一応は領地の代官に届け出を出さなくてはならないのが通例だったが、僕がお忍びでこの地に来たことを告げると、意を汲んでくれた船長や乗客たちがそろって途中で降りることを黙認してくれた。


 そういった世俗の事情聴取の手間に煩わされることがなく無駄な時間を使わずにすんだのは助かった。


 面倒なことになったら、迷わず僕の名前を出していいといっておいたので、代官経由で実家に連絡が行くのも遅くはないだろう。


 そう考えると、僕がアリシアの恋人であるクライドに会ってなにごとかを見定めるまでそれほど時間は残されていないということだ。


 ――正直、ここまで来ておいてあれだが、未だにどうすればいいのか、自分のなかでも結論が出ていない。


 かたわらを歩くノエルは聡い。今回の僕の単独行が、ただ単に妻の実家をこっそり視察するということなんかじゃないってことくらいとっくに見抜いているだろうが、なんの疑問も口に出さず、一歩下がって従う部分は男女同権の世界から来た僕からすれば凄まじく封建的な前世期の遺物を見るような気にさせるのだ。


 顔を前に向けると広大な田畑がどこまでも続いている。


 野良をしている百姓に聞くと、このあたりはリーベといって目指すコロズムの途中にある、付近でもっとも小さな村だということだった。


 頭上で凄まじく風が唸り声を上げ、赤茶けた砂塵が勢いよく外套へと体当たりして来た。


 僕は長きのひきこもり生活のおかげで、髪は野放図に伸ばしっぱなしだった。なので、腰までの伸びた長い髪がやたらと風で煽られ非常に歩きにくく感じる。


 このあたりは観光地というわけでもないので宿屋があるわけでもない。


 従って、雨風をしのぐにはどこかそのあたりの農家に頼み込まねばどうにもならないのがネックであった。


 もっともここいらあたりはすべてルフェ家の領地である。ノエルがルフェ家の家人である印章を提示すると、お百姓さんはふたつ返事で空いた小屋を快く提供してくれた。


「坊ちゃま。やっぱり、わたしたち使用人同士の駆け落ち者だと思われてるみたいです」


 ノエルは頬を染めるときゃっと声を上げ身体をくねらせた。


 とりあえず、家紋入りの上等な服を着て来なくてよかったと心底思う。


 僕たちは一晩小屋でぐっすり眠って船旅の疲れを癒すと、朝食もそこそこに暗いうちから早立ちをした。


 ノエルはともかく、転生してからこれほどの距離を移動したのははじめてだ。


 どっかで倒れるのではないかと心配だったのだが、この身体は元々身体能力が高いらしく、特に目立った疲労もなく昼前にはコロズム村に着くことができた。


 まず最初に向かったのはアリシアの実家だった。


「ふわー。若奥さまのご実家ともなると、おっきなものですねぇ……」


 ノエルがあんぐりと口を開けたまま、どでんと広がる屋敷を見て感嘆の声を漏らした。


 アリシアは会話の端々でことあるごとに自分の実家を卑下していたが、想像を上回るほどの立派な屋敷が村の小高い丘に腰を据えていた。


 ――これは下手をすると王都の僕の屋敷よりはるかに立派な造作だ。


 彼女は、弟たちが王都の騎士学校にルフェ家の援助で通えるといっていたが、それはどうやら金銭的な問題ではなく、家格としての困難さをいっていたのであろう。


 どう考えても、金に困って娘を妾奉公に出すような家ではありえない。


 浮遊と気配を消す魔術を併用して、こっそり屋敷の庭を歩き回ったところ、使用人も多数見えたし、彼らのお仕着せや血色顔の表情からいって金銭に困っている気配は微塵も窺えなかった。


 コロズムは途中で通過したリーベと違って、小さいながらも商人宿は幾つかあったし、パブらしきものもそのそばにあった。


 僕らはとりあえずアリシアの実家から離れると荷物を宿において、目立たない格好に着替えてそおっと村内の様子を探ってみた。


 アリシアの断片的な話を繋ぎ合わせると、クライドという冒険者はこの村にも存在する冒険者ギルドで仕事を受けながら細々とした賃仕事で身過ぎ世過ぎを行っているらしい。


 能動的に活動を開始したものの、思い立ってすぐにコミュ不全が治るわけでもない。


 それに、まだ少女とはいえ王都の水で洗練されたノエルが訊ねたほうが、はるかに情報の集まりはスムーズに行われるのはわかりきっていたからね。


「クライドの野郎なら、この時間酒場で飲んだくれてるだろうな」


 捜索は難航するかと思われたが、以外にも冒険者ギルドで聞いた、受付の中年男がすぐに教えてくれたのは拍子抜けだった。


「けどな――。最近、あいつら荒れてるから近づくのはお勧めできないな。かといって、酒や博打、女買いの金には困ってねェようだし。こんな田舎じゃロクな依頼もないだろうが不思議なもんだ。忠告しとくがかかわらんほうが利口ってもんだぜ」


「どう、しましょうか?」


 ノエルが困ったような顔で見上げてくる。


 うん。ここまできて、なにをどう話すかも決まっていないのだが。


「とりあえず、行ってみよう。ほかに選択肢はないんだ」


 冒険者ギルドから酒場に向かう途中、緊張で胃が反転しそうなほどだった。


 だいたい、会ってどうするというんだ?


 もう二度とアリシアとは関係ないとルフェ家の権威をチラつかせて引導を渡し、無理やり念書でも書かせるつもりか? 


 よしんばそれが上手くいったって、意外に頑固なアリシアが簡単に納得するはずもないし、下手をしてやけぼっくいに火がついたらどうするんだ。


 心の問題は、金や権威でどうにかなる問題じゃない。


 そもそも、ナイトよ。おまえは女の扱い方なんかこれっぽっちも知らない。


 そもそも人とのかかわりかたも距離感もまるでわからない人間未満じゃないのかよ――。


 思いは千々に乱れた。


 疲れはこれっぽちも感じていないのに、肩にはなぜかどっしりと重たい石が乗っかっているようだ。


 身体中の関節には鉛が無理やりつめ込まれたみたいに、ギシギシと軋む音が聞こえてくるていたらくだ。幻聴、幻聴――。


 そんな僕の不安な気持ちを吸い取ったみたいに、どこでにでもあるような寂れた酒場の扉は、どこか薄汚れてやたらとシミだの汚れだのか目についた。


 ちらりと視点を隣に動かすとノエルが心配そうな目つきでこちらを見ていた。


 彼女のことだ。僕が少しでも不安げな言葉を口にすれば、すぐに宿に戻ることを提言するだろう。


 そうもならないようにと、目をつむったまま飛び込んだ先では、狙ったように僕の気持ちを粉砕するような暴力的な音が鳴り響いていた。


 店内は荒れ狂った男たちの殺気で満ちあふれていた。


 十人ほどの体格のよい荒くれ者同士がテーブルを挟んで向き合っている。


 酒瓶の並んだカウンターでは、酒場の主らしい男が顔を青ざめさせながら、形のいい口髭を震わせている。


「今日という今日は勘弁ならねぇぞ……! そもそもおれたちゃ、テメェみてぇなよそもんがここいらでデカい顔して歩くだけでも我慢ならなかったてのに、横から人の仕事にくちばしを突っ込んでただすむと思ってるわけじゃねえよな」


 集団のなかで群を抜いて体格のすぐれた巨躯の男がしゃがれた声で叫んだ。


 全員が全員皮鎧や、剣、盾を身に着けている。


 どう見ても、土地の農民ではなかった。となれば、話の口ぶりからギルドに所属する冒険者のいさかいであることは想像に難くない。


「別に仕事を横取りしたわけじゃない。そっちがあまりにも悠長なやり方をしてるんで、見かねて手伝っただけだ。恨むなら愚鈍な自分たちを恨むんだな」


 一方の集団から進み出た男が抑制のきいた通る声で応じている。


 僕の視力は鳥並みだ。従って青年の姿は歩いて度離れていてもよくわかった。


 身長は百八十くらいだろうか。全身が引き締まっており、装備といえば軽い胸当てくらいだが、手入れのされているそれはよく似合っていた。


 赤い髪を短く刈り込んでおり、切れ長の瞳がよく合っている。年は二十前後だろうか、どこか幼さの残った甘めのマスクだった。日によく焼けていて健康そうである。


 いうなれば、女がコロッといきそうなイケメンだった。


「野良犬風情が利いたような口を。こいつは、脅しじゃねえ。泣いて命乞いをするのなら、今のうちだぞ」


「ひとつ聞いていいか?」


「ああっ!」


「なぜ、この俺が格下相手に泣き喚いてすがりつかなければならぬと思った?」


 男たちの殺気が膨れ上がったのを感じた。


 冷たい音が鳴って、刃が鞘からすらりと抜かれてゆく。

 ――殺られるッ。


 咄嗟に確信したが現実はそれをさらに上回った。


 赤髪の青年は上体を前に倒したかと思うと、目の前のテーブルを蹴り飛ばしていた。


 巨躯の男がたまらず動きを一瞬だけ止めたのち、青年は疾風のように男たちの間を駆け抜けると、いつの間に引き抜いた剣を頭上に差し上げていた。


 一拍遅れてから、絶叫が鳴り響いた。


 鮮やかな斬撃が、視界に収まらぬスピードで男たちの身体をことごとく傷つけていた。


 繰り人形が頭上の糸を引き千切られたように、バタバタと床の上に沈んでいく。


 斬り離された腕や脚が大根のように血だまりに転がって朱に汚れた。


 今やあれほど息巻いていた巨躯の男は、まるで女のように喚きながら身を折ってうつ伏せになり激しく苦悶している。


 その男の顔へと青年は踵を乗せて静かな口調で問うていた。


「おやおや。さっきまでの威勢はどこにいったんだ? 俺を懲らしめるつもりじゃなかったのかな?」


「た――助け――!」


「口先だけの上に我を通す根性もない。臆病者は嫌いだよ。輪をかけて嫌いなのは、あっさりと降参する野郎だ。そういう信念もクソもないやつを見ると、酷く、いたぶってやりたくなる」


 青年は笑みを浮かべたまま踵で男の顔をギリギリと踏んづける。


 男はすでに両腕を斬り離され、できることといえば激しく失禁しつつあわれな虫のようにもがくことだけだった。


「カスが」


 青年は微笑みを浮かべたまま、その長い脚を後方へ引き絞ると、サッカーボールを蹴るみたく男の顔面を思うさま蹴り抜いた。


 ぐおん、と肉を叩く鈍い音が鳴って男の顔面のパーツがことごとくぶっ壊された。


「きたねぇ。せっかくのブーツがゴミ汁で汚されちまった。おい、河岸を変えるぞ」


「へ、へいっ。さすがクライドの兄貴ッ!」


 青年の後方で控えていた舎弟たちが媚びたような声を上げた。


 ――この男がクライド。


 僕は凍りついたまま、笑みを崩さず歩み寄ってくる青年を凝視していた。


 あのアリシアが惚れるような男だ。


 どちらかといえば、線の細い文学青年のような男をイメージしていたのに反して、現実は豹のような蛮性を撒き散らす獣のような男だったことにド胆を抜かれてしまっていた。


「おっと、兄さん失礼。この店は汚してしまったので、できれば隣に行くことをお勧めしますよ。あいにくと女性はいませんが――ああ、ご婦人連れでしたか、これは失礼」


 クライドはノエルを目に留めると意外に紳士な態度で一礼して、扉を押し開くと優雅に出て行った。






 あらゆる気力を奪われた僕はおとなしく安宿に戻ると、目の前にノエルを引き据えて、適当に購入したサンドイッチとチョコレートをもそもそもとかじった。


「あの、坊ちゃま。お茶、もらってきますね」


「う、うん」


 ノエルはパタパタと階下の帳場に湯をもらいに行った。


 個室は失火を恐れて火を沸かす設備が皆無なのだ。


 しかし、想像していた以上にクライドという男は難物だった。


 あのあと、めげずに酒場の主に情報収集を試みたところ、クライドは知る人ぞ知る「狂犬」らしかった。


 なんでも、元は流れの傭兵で一説によるととある亡国の貴種であるというくらい、礼儀や作法は整っているらしく、それなりの場においては貴人たちの評判も上々で冒険者ギルドも優遇しているとのことだ。


 また、先ほど見たように腕はとびきりたって、特に自己顕示欲が強く、ちょっと実入りのいい依頼があれば横から食いついてかっさらうこともしばしあるが、不思議と問題にならず、ここ数ヶ月でこのあたりでは「顔」になってしまったらしい。


 だが、ちょっと考えてみればいろいろと不自然なことが浮かばなくもない。


 コロズムはそれなりに大きい村だが、しょせんは辺境。


 遊び歩く施設は限られているし、ギルドに依頼されるものの取った取られただって高が知れているはずだ。


 酒場の店主がいうにはクライドは四人の舎弟を引き連れ、飲み歩いたり安い淫売を買ったり、博打を打ったりしているらしいが、とてもギルドの安い稼ぎではおっつかないということだ。


 ――アリシアに未練があってこの土地にしがみついているのだろうか?


 が、それはないだろう。


 そもそも彼女が領主の孫である僕に嫁いだことは知れ渡っているし、少々腕が立つといっても彼が自分の面子にかけてルフェ家に弓を引くという行為は現実的ではない。


 下手をすれば、万余を超えるルフェ家の私兵にロムレスじゅうを追い回されるはめになるのだから。


 メルキオールはこのくらいのことを調査しておかなかったのだろうか?


 いや、アリシアの言を思い出せば、彼女はルフェ家の婚約者選定のあとでクライドと知り合ったといっていた気がする。


「坊ちゃま。お茶が入りましたよ。少し、お気をお鎮めくださいませ」


「う、うん。ありがとう」


 戻ったノエルが淹れてくれた茶を啜りながら、脚を組んで熟考する。


 なんだか調べれば調べるほど知らなくていい闇がドンドンと鎌首をもたげこちらに迫ってくるような気がしないでもない。


 壁時計を見ると、いつしか遅い時間帯に変わっていた。


 ノエルは相当に疲れたのだろうか、こっくりこっくりと船を漕いでいた。


「ノエル……?」


「はっ、はひっ。おきてまっしゅ!」


「おっと」


 僕は椅子から転げ落ちそうになるノエルをそっと抱きかかえた。


「あっ」


 ふんわりとした感触と、彼女の言葉を思い出しちょっとだけドギマギするが、もうそのような時期は過ぎたと思わなければ、これ以上彼女と旅を続けることはできない。


「そろそろ寝ようか」


「あっ、はい……」


 僕が告げると彼女は恥ずかしそうにもじもじし出した。


 なんだろうか。


 そういえば部屋数の関係で、僕らは一部屋に押し込められた。


 僕の身体は標準よりはるかに大きいがノエルはどう見ても子供なのでこのベッドの大きさでもなんとか寝れると思うのだけれど。


「あ、の。坊ちゃま」


「な、なんだよ」


「わたし……はじめてですので……や、やさしくしてくだ……さい」


 ノエルはキュッと目をつむると両拳を胸の前で握りしめている。


 はいはい、あれね。君はあーれね。


 僕とベッドインするから、そういうことになると思って……えええっ!


 しかし、今の時間で部屋を探すというのも普通に考えて無理な話。


 僕は毎晩のアリシアとの同衾で慣れていたが、相手が変わればやはり気も変わるのだ。


 ノエルに同衾はするが紳士的に振る舞うと誓うと、彼女は表情を暗くしてあからさまにがっかりした顔をした。


 これって浮気になるのだろうか。僕は、ぴったりとくっついてくるノエルの熱い体温を感じながら、悶々としているうちにいつしか寝入ってしまった。






「うおっ。よかった、まだあったー」


 僕は起きざまベッドから飛び出すと、自分のモノがきちんと定位置についているか確認して額の汗をぬぐった。


 なぜか、夢のなかで嫉妬に駆られたアリシアに噛み千切られる夢を見たんだ。


 縁起でもないよね。


 同衾していたノエルは横になったまま枕を抱きしめくうくうと寝息を立てている。


 寝顔はとてもかわいい。


 僕が毛布から飛び出たせいか、冷気のため無意識に震え窮屈そうに身を縮めている。


 かわいそうなので彼女の身体を押し込んで、僕は外に出た。


 早朝の農村は白い靄がかかって静寂に沈んでいた。


 日は出かかっているのだろうが、空には厚い雲が垂れ込めておりなにも見えない。


 深く深呼吸すると、清浄な空気が肺のなかを踊って気分が上向きになる。


 軽く鬱状態だった心も幾分晴れた。


 特に目的もなく朝の散歩を行っていたのだが、知らず行く先はアリシアの実家に向いていた。


 ああ、なんていうことだろうか。


 先ほどまでは、前世で日本人だったことも、アリシアの過去の恋を無理やり清算させるためにコロズムに来ていたことも忘れて、心はここでない遠くどこかの輝かしい世界に遊んでいたのに、なんでこうもあっさり現実に引き戻されるというのだろうか。


 いつもならこの時間はまだ屋敷のあの阿呆みたいなふっかふかしたベッドでアリシアの天使のような寝顔を見ながら、にたにたと崩れ切った顔で呆けていられたのに、ここにいる僕はこうしてアリシアがいない実家の周りをストーカーのように歩き回っている。


「立派な通報案件だな」


 気づけば立派な壁に囲まれた屋敷の前に到着していた。


 定期巡回でもないが、正面切って「嫁の実家を視察に来ました」ともいいにくい。


 そんなシャイな僕は、気配を隠形の魔術で消して、誰もいない庭を散策した。


 心に思い浮かぶのは昨日クライドが見せた残忍なもうひとつの顔だ。


 幾ら魔術が少々得意だといってもあいてはどう見たって殺しのプロ。


 まともにやり合ったら切り刻まれるのは目に見えている。


 そう考えていると、ぶるっと来た。


 ……まあ、誰も見ていないし問題ないよね。


 僕は不作法だと思いつつも、邸内の庭に植わった樹木の影で昏い愉悦に頬をゆるませながら、朝一発目の放水の準備に取りかかった。


 じょんじょろじょんじょろやっていると、遠くで誰かがいい争っているのが聞こえた。


 魔術で聴覚と視覚を強化し声のしたほうに視点を動かした。


 どうやら、若い女と男が手にした袋の受け渡しを行っているようだった。


 男は無言のまま反対方向へ歩いていくのでホッとしたのだが、若い女は逆方向――すなわち僕が立ちションしているこちらへと移動している。


 ちょっ、なんで、こういうときばっか――こうなのっ?


 珍しくも僕は過去の現代日本であったついていなかったときのことをまざまざと思い出していた。


 そう、あれは珍しくゲーセンでクレーンゲームに興じていたときのことだった。


 妙にガラの悪いチャラついた目つきの悪い連中が団体さんで姿を見せたときに感じる、背中の毛がゾワッと総毛立つ嫌な感覚に似ている。


 来るなよ来るなよ来るなよ、と思っているとDQN軍団は獲物を見つけた野獣のように瞳をギラギラ脂っぽく輝かせて近づき、僕から財布の中身をすべて掠め取っていった十四の夏の悪夢。


 ――今がそれ。


 止まって、止まってよ、僕の送水管。


 そんな気持ちとは裏腹に、少女はさくさくと小砂利の音をさせてドンドンそばに寄ってくる。


 と、よく考えると僕は姿を魔術で消しているので、見つかるはずないから大丈夫か。


 ホッと安堵の息を漏らし、近づく少女の姿を目にした途端、心臓を鷲掴みにされた。


「え――あ、え? なんで?」


 少女はアリシアを少し幼くさせた感じで、よく似ていたのだった。


 それだけで、僕の魔術は瞬間的に途切れ、自然まだ放水していた下腹部のアレは、ばっちりくっきり余すところなく見られてしまったのだ。


 断じて違う、といっておく。僕は変態ではない。


 だけど、緊張プラス思い人であるアリシアそっくりの娘さんの登場に、なぜか孝行息子はこれ以上なく元気を取り戻し、ほとんど反り返るほどぱおーんとなったのである。


「きゃ、きゃ――」


 瞬間的に保身能力が凄まじい勢いで発揮された。

 彼女が悲鳴を上げるよりも早く。

 他人の家で娘さんに妙なものを見せつける。


 事故とはいえ、充分開戦の口実になるほど国家的謀略だ。


 僕ができるのはズボンをずりあげるよりも早く、目の前の少女の口をふさいでこの場から遠ざかることだった。


 早く、誰よりも早くこの空間を脱出する――!


 かつてない速度で浮遊魔術の詠唱は紡がれ、僕は名も知らぬ少女――普通に考えてアリシアの妹か親族だろう――を拉致し、近場の人の来なそうな林に連れ込んでいた。





 

 どんなすぐれた人間でも緊張は続かない。たとえば、弦の張り切った弓がいずれダメになってしまうように、人は緊張をしいられ続けると知らず弛緩をとってしまうものだ。


 今の僕がそれだといえよう。


 慣れない旅路に気を張っていた。それこそこれでもかというほど。


 それを、一晩ぬくぬくしたベッドで過ごしたせいで、緊張がゆるんでしまったのだ。


 だから、僕はそんなに悪くない――と思いたい。


「ゆ、許してくださいっ。お、お金があれでまだ足りないのなら、父にいって都合しますからっ。だから、やだやだやだ、それだけはやだぁっ!」


 少女は声を殺して泣きながら身をよじって少しでも僕から遠ざかろうとしていた。


 ちょっと待った。


 僕、この状況でまだパンツ履いてなかった。てか、丸出しくんだし。


「はじめては、夫になる人だけって……決めてるんですうっ。だからっ……えぐっ……こんなっ……こんなことで……無理やりなんてっ! ……やだあっ、母さまっ!」


 少女は顔をくしゃくしゃにしながら両手で自分の身を守るようにして丸まってゆく。


 てか、このままじゃもの凄い誤解とトラウマがこの娘に刻まれてしまうのではなかろうか。


「ちょ、ちょっと。ままま、待って。僕はそんな気は――どわっ」


 焦っていつも以上にどもり、おまけに木の根に脚を取られて前倒しに転んでしまう。


「やだああっ!」


 それが狙ったかのように彼女の上にのしかかってしまったもので。


 少女はキンキンした声をそれこそ百里四方にまで聞こえそうな音量で叫び、ついつい反射的に僕は口をふさいでしまう愚挙に出てしまった。


「もっ、もごっもごおっ……!」


「ち、ちがっ。僕は……君をレイプ……っ!」


「ひ、ひうっ……!」


 あかんこれじゃ、今から強姦するよと宣言しているようなものだ。


 早く、全人類と地球の平和のためにもこの誤解を解かないとっ。


 お、おや? 

 急にこの子、身体から力を抜いたぞ。


「せめて……痛くしないで……あたし、あなたがはじめてなんです」


 いや、ここで俎板の鯉はやめようよっ。


 僕は、このあと誤解を解くため懇々と説いた。


 ようやくすべてを理解した彼女が平静を取り戻したとき、僕は喉がカラカラになっていた。






「失礼いたしました。あなたさまがルフェ家の方とはついぞ思いもしなかったもので」


 少女は予想通りアリシアのひとつ下の妹で名をユリアといった。なんか世紀末救世主伝説がはじまりそうな名前だが僕も僕でけっこうなものなので特にいうことはない。


 ユリアは姉と同じく美しい黒髪を手ぐしで整えながら、頬を赤く染めて恥ずかし気にうつむいている。


 なんというか、アリシアと比べればやはり幼いが、こういったあとだからなのか彼女の仕草がやたらとセクシーに見えた。


 ついでにいっておくと、彼女に対してルフェ家の名誉のためナイトであることは隠しておいて家人であると取り繕っておいた。


 まあ、すぐにばれる嘘なんだが、少しでも恥は遠ざけておきたいのだ。


 理由は、近日、夫婦そろってアリシアの実家に顔を出す前準備のための視察とかなんとかいっておいた。


 ユリアは姉以上に世間知らずなのか、僕の嘘にすっかり騙されると警戒心を解いた。


 ちょっとガードゆるゆるだよね。だからといってなにかできるわけじゃないけど。


「い、いいや。ぼ、僕が、か、かかか、勝手にお屋敷でそ、そそうをしようと、し、ししし、したのが、わ、悪かったわけで」


「あの、ご使者さま。ひとつよろしいでしょうか」


「な、ななな、なんです、か」


「人とお話をするときは、ハッキリと大きな声で喋りましょうっ。それと、相手の目を見て。これって、礼儀のなかでも最低限のものですよ。口はばったいようですが、姉とナイトさまが結ばれた今となっては、あなたもこのような折衝の場に出ることがいろいろあるでしょうから、直しておいたほうがよろしいかとっ」


「う、ううう。善処します」


 ユリアは姉よりも輪をかけてはっきりした性格みたいである。


 僕が、仮ではあるがルフェ家の使者と名乗っているにもかかわらず正面切って欠点を指摘し改めるよう忠告するのは、なかなかできることではない。


「ちょ、ちょっと聞いていいかな」


「目。目を見てくださいませ」


「う、うん。ユリア。君は――その、僕を最初、ほかの誰かと勘違いしてたよ、ね。よ、よければ、ないしょで、教えてくれないかな。こ、こここ、こう見えても、僕はけっこうルフェ家で力がある。こっそりでも、力になれるかも」


 うん。嘘はいっていないな。


「そのお言葉、信じてよろしいですか?」


 ちなみに偽名は前世の本名を使った。


 しかし、こっちのほうがしっくりこないのはなんでだろうか。


「き、君は、こういうことになってもおかしくないと予見していた。だから、あのとき“足りないのであれば父にいって都合する”といったんだ。あのとき、男に渡していたものは、お金だろう? もしかして、君は――いいや君の実家のコロワ家は、誰かに強請られているんじゃないか?」


 はずれじゃない。これが、あたりだ。

 ジッとユリアの瞳を直視する。


 腹が決まってしまえば震えや汗はぴたりと止まってしまった。


「ご使者さま。あたしを、姉を助けてくださいっ」


 僕は涙ながらに腕へとすがりつくユリアを冷静に見返し、自分の読みを確信していた。








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