第7話「思い出よ、汝は美しい」
身体の芯が凍りつきそうなほど引き締まった静寂が屋敷に横たわっていた。
――とき至れり。
僕は注意深くベッドから上半身を持ち上げると、すやすや寝息を立てているアリシアを起こさぬよう、注意深くそろーりそろーりと毛布からすべり出ようとして床に落っこちた。
どかんとかなりデカい音が立った。思わずアリシアが目を覚まさないかと心臓が止まりそうになったが、数秒ほど経ってようやく息を細く長く吐き出した。
気づかれてはならない。ニート御曹司の隠密行だ。
まず第一段階として、誰にも気づかれず屋敷を抜け出さなくてはならないのだ。
別に、アリシアとの夫婦生活が嫌になったわけではなく、むしろあたたかな毛布と新妻の匂いに包まれながらいつまでもぬくぬくぽやぽやしていたいのだが、それでは本懐を果たすことなど到底夢のまた夢となってしまう。それではいけない。
手早く身支度を整えると、巾着の中身を確認した。
普段から銭を持ち歩く習慣がない。
ちょっと散歩するときでも、必ずおつきの者がついて回るし、ちょっと屋台で買い食いしたいときなんかも、貴公子は自分でお代を支払ったりしないのだ。
しまった。銅貨と銀貨がわずかしかない。屋敷を抜け出して遠出をするのに、僕は経験がまるでない。
この世界の貨幣価値が細かいところまでわかっていない部分もあり、正直不安要素ばかりがむくむくと頭をもたげてくるが、男一匹こうと決めたのならやり通さなくては幾らなんでもまずかろう。
意を決して部屋を出る前アリシアの寝顔を見つめた。
初夜とはまるで違ってくつろいだ寝顔だった。
ともすれば勘違いしそうになるほど、しっくりくる。そして強く感じた。
まるで現実とは思えない。こんな天使みたいな子を、遠くからひっそり見つめるのではなく、昔からずっといっしょのような家族みたいに思えるなんて。
単独行の結果によってはこの先どうなってしまうのかまったくわからない。
それでも、まだこの瞬間はかりそめでも夫婦でいられることがしあわせだった。
キザっぽくキスでもしてから行こうかと思ったが、どうにも僕には似合いそうもない。
行ってくるよ、アリシア。
心のなかでそれだけ告げて、部屋を出た。
屋敷は広く、多数の人間が起居しているが別段、普通の家とそれほど変わらない。
騎士たちは、門前の詰め所で四六時中見張りをしているが、壁を浮遊魔術で超えて行けばまず、僕が抜け出したと気づかれる恐れはない。そう思っていた矢先だった。
「坊ちゃま、おでかけでございますか?」
「ひうっ」
「ま。おかしなお声ですこと」
び、びっくりしたぁあ。
闇のなからぬっと姿を現わしたのは、ノエルだった。
ざっと見て、僕が抜け出るのを警戒して起きていた、という感じではない。彼女もまた、かわいらしい年相応の夜着に着かえ、頭には白いナイトキャップをかぶっている。
「別にトイレに起きたんじゃありませんよ。坊ちゃまなら、この時間をお狙いなされるとお持っていたのでヤマをかけていたのですが、どんぴしゃりですね」
「父上や、母上に知らせるつもりか」
「まっさか! そんなことのためなら、わざわざ眠い目をこすってがんばってりしませんよ。変な時間に起きるのがメイドにとっては一番つらいんですよう」
「じゃあ、なんのために」
「えーと、えとえと。これです」
ノエルはそっと僕の手のひらを開くと持っていた革袋を握らせる。冷たくずしりとした感触。開かなくても、なかには金がたっぷりと詰められていることがわかり困惑する。
「坊ちゃまは普段持ち歩く必要がございませんから。夜遊びには必須アイテムですよ」
ノエルはぺろっと舌を出すと小首をくいと傾けた。
「どこに行くか、聞かないのか?」
「んー。聞きません。聞いたら、きっと話してしまう可能性を作ってしまいますから」
「あとで、両親に咎められないか?」
「それでも致し方ありません。ノエルは、坊ちゃまのお味方ですからね」
ふわりと微笑んでいるが、もはや猜疑心の虜となりつつある僕はどうにも納得できない。
「理由が、わからない。僕をかばったってメリットないだろうし……だいたい危険なことをするかもしれないんだぞ。もしものことがあったら、どうするつもりなんだ」
「あ、そうですねー。ちょっと待っててください」
ノエルはぽんと手を叩くと、使用人の部屋に戻っていく。僕は置いてきぼりのまま、ぽつんと立っていると、しばらくして着替えたノエルがコートに袖を通しながら戻ってきた。
「じゃじゃんっ。準備完了です。じゃ、参りましょうか」
「……おまえ、僕がどこに行くか知らないだろう」
「はい、知りません」
ノエルは相変わらずにこにこしている。こうなったら少し脅してやろうか。
「ふ、ふふふ。もし、もし仮にだ。ぼ、ぼぼぼ、僕が適当なことをいって、おまえを。へへへ、変な場所に連れ込んで、え、えええ、えっちなことをしようとしたらどうするっ!」
「きゃう! わたしナイトさまのお手つきになっちゃうんですか? もはやそれはメリットしかないのですが。もーう。坊ちゃま、わたしが欲しいならここでもよろしいのに」
ダメだ。こいつと話していると頭が混乱してくる。
「と、とにかく一旦ここを出よう。ぼやぼやしてると気づかれる」
「そですね。じゃあ、はりきって参りましょうか」
こいつは絶対なにか勘違いしていると僕は思った。
前回ビルギットが行った家出と同じく早朝の乗合馬車を使う。
王都ロムレスガーデンは城郭都市のため、日が出なければ基本城門は開かないのでジッと待つしかないのだが、そんな悠長なことをしていたらことが露見する可能性がある。
従って浮遊魔術を使って高さ三十メートルはある城壁をノエルを抱えたまま飛び越えた。
「わ、わわっ。坊ちゃま! わたし、空飛んでますッ。お空を飛んでいますよっ」
「し、しー。静かに。城兵に気づかれちゃうだろ……」
ノエルが十二の小娘でよかった。
この風の魔術は制御が非常に難しく、ちょっとしたことでバランスを崩すと地上まで真っ逆さまに落ち、潰れたトマトみたくなること請け合いだ。
壁の上では、平時とはいえ城の兵隊が定期的に巡回を行っている。
しかし、長らく平和が続いたせいかおざなりになっている部分があるのは世の常だ。
僕たちは、華麗にふわりふわふわ城壁を突破すると、城外にある駅馬車の停留所まで歩き出した。城のなかで待っていると、見つかってしまうから一駅分くらいはどうしたって歩かざるを得ないのだ。
銀造りの懐中時計を見ると、まだ朝の五時前だ。
僕らはいつも起きるのが遅く、七時くらいまではアリシアも寝入っているから、発覚するのはそのあとだろう。
直轄領の外に出てからは徒歩で進むしかないが、そこは頑張ろうと決めていたのでショックはなかった。
馬車の最初に止まる停留所につくとベンチに並んで座った。
平原の向こう側には真っ白な朝日が輝きながら姿を見せている。
「坊ちゃま。よろしければあたたかいお茶などいかがでしょうか」
「ん、あ、ありがと」
ノエルは如才なく駅停の詰め所からあたたかいお湯を分けてもらい簡易的な紅茶を作って差し出してくる。
春はそこまで来ているというが、まだこの時間は充分に寒かった。
湯気の出るカップにそそがれた茶を啜りこむとじんわりと胃の腑から熱が伝わってくる。
「う、うまいな」
「どういたしましてですよー。それにしても、坊ちゃま。わたしたち、こうしていると駆け落ちしてるカップルみたいでどきどきしちゃいますねー」
ノエルがリンゴみたいに赤くなった自分の頬に手を当てながらいやんいやんと首を振っている。
思わず激しく咽た。
「きゃっ。坊ちゃま! どうしたのですかっ」
ごふごふと咽ながらノエルを睨みつけるが彼女は平気の平左だ。
「お、おまえが、変なこというからだろおっ」
「だってだって、ただの冗談なのにぃ。いいじゃないですか。こんな経験たぶん、これが最初で最後ですから――」
よく考えると、物知らずなお坊ちゃんをメイドがたぶらかしたというふうに思えなくもない。
「な、なあ。おまえは、こんなことにつき合って大丈夫なのか?」
「え、えー。えへへ」
ノエルは笑ってごまかそうとしていたが、その目はすべてを覚悟している深い色を湛えていた。
なんてことだ! 僕はよく考えもせず、こんな若い娘に頼ってしまったのか。
「もしかして、首になっちゃうのか?」
「え、クビ。えへへ。もしかしたら、そういうこともあるかもですねぇ」
――ふざけるな。
腹のなかがカッカと熱くなった。これはただのワガママだがそんなのは許せないと、心底怒りを感じたのだ。
「おまえは首になんかさせないぞ。ノエルは、僕が、僕が絶対守ってやる」
「坊ちゃま――」
こいつは小生意気で、いっつも僕をからかってばかりいたけど。
本当は気が利いてとってもやさしい女の子なんだ。
ノエルが孤児だったってことは、イングゥエイから聞いている。
屋敷を追い出されれば、ロクな親族もいないこいつはその日から路頭に迷ってしまうだろう。そんなこと、絶対に許せなかった。
「坊ちゃま。ノエルは、ノエルはうれしいですよ――。でも、間違っても、ほかの方の前ではそんなことおっしゃらないでくださいませ。その言葉だけで、ノエルは今までのすべてが報われる気がいたします」
ノエルは目に涙を薄っすら溜めながら、肩に置いた僕の手にそっと触れてきた。
途端に、顔全体熱くなった。
なにやってんだ、僕は――。
「どうしてそこまで尽くそうとするんだ。あの場で黙って回れ右すれば、おまえもこんな面倒ごとにつき合わなくてもすんだんじゃないのかよ」
「いいえ、違いますよ。坊ちゃまは、わたしの救いなのでしたから……」
なんだよそれは。
本気で意味がわからなかった。
僕は十年間ひきこもっていたわけだし、こいつは食事を運んだり、こまごました用事をいいつけられたりしてただけだ。
こんなふうに、ノエルが僕を慕う理由はこれっぽっちもないはずなのに。
「坊ちゃまは、私のお話を聞いてくださいました」
「聞いたというか、聞かされたの間違いじゃないのか?」
「覚えていらっしゃいますか。わたしが、このお屋敷に来たばかりだったときのことを」
ああ、そういえば。あの頃は、まだ僕も今よりずっと頑なで、扉の向こう側から話しかけてくる両親に対してロクに返事もしてなかったな。
「教会から推薦されてお屋敷勤めをはじめたとき、わたし、少しは自信があったんです。こう見えてもけっこう物覚えっていいのですよ? でも、やっぱりはじめてのことばかりで、失敗ばかりしちゃって、あの日は食堂で旦那さまの大切にしていたお皿を割ってしまって、もうどうしていいかわからず、泣き続けてお屋敷のなかをうろうろしていたのです」
ああ、そういえば。そんなこともあったような気がする。
あのときは、たまたま研究の途中で小休止を入れてくつろいでいる途中に、廊下から女泣く声が聞こえて反射的に声をかけてしまったんだよなぁ。
「あ、ああ。あれはびっくりしたな。僕の部屋の前でしくしく啜り泣く声が聞こえたんだからな」
「お化けかっ! って、凄い声がして。わたしはびっくりして……。あのときは、坊ちゃまがお部屋にいるなんて存じ上げていなかったものですから。メイドのお姉さま方からは、くれぐれも近づくなっていわれいていたんですよ」
「人を化け物扱いするなよ」
「でも、坊ちゃまは聞いてくだすったんですよ。なにかあったのか? と」
だんだん思い出してきた。ついつい、泣き声があまりにかわいそうで。珍しく仏心が出てしまったんだよなぁ。
「坊ちゃまは、お返事はほとんどなされなかったのですが、黙ってわたしの話をずっと聞いてくれました。それが、ひとりぼっちの孤児である娘をどれだけ勇気づけてくれたことか。そして、話を聞き終えると皿を持って来いとおっしゃられましたよね。わたし、もう、なんの疑問も持たずについふらふらと、お皿を持参してしまいました。あのときは、小窓のなかに皿を差し込んだのち、いつまでたっても返していただけないので、わたし、もうどうしていいかわからなくなって、泣き喚いて。そうしたら、お屋敷じゅう大騒ぎになって……。旦那さまや奥さまがお見えになられたときは、もうこれでなにもかも終わりだと思いました。けど、そのあとが、また凄かったんですよう。覚えていらっしゃいます?」
「ああ、覚えているさ」
「部屋のなかから、ばきんっ! と凄い音がして、扉の小窓からは粉々になったカケラだけが返されました。わたし、あのとき卒倒しかけましたよ。でも、坊ちゃまはこうおっしゃられましたね――この皿は、今僕が叩き割った。もうそのメイドを責めるな、と」
カッと頬が熱くなる。もう何年前のことだろうか。我ながら恥ずかしくて臭いセリフだ。
「――旦那さまも、奥さまも。そしてその場にいたメイドすべてがそのことは覚えております。わたしは、あの日からいつでも坊ちゃまのためなら命でもなんでも、すべてを捧げつくすつもりでお仕えしてきました。解雇なぞどうだっていいことですが、坊ちゃまのおそばにいられなくなることは、ノエルはつろうございますよ」
「ノエル……」
「わたしは、坊ちゃまのことお慕いしております。だから、どんなことだってできるのでございます」
それがノエルの一世一代の告白であったことは、幾らコミュ障の僕でも理解できた。
真っ赤になった瞳とノエルの荒い息遣いが迫ってくる。
彼女はギュッと目をつむると意を決したかのように胸のなかに飛び込んできた。
甘いような少女の匂いがして頭のなかがだるくなってくる。
「少しだけ、馬車が来るまでは、こうさせてください……」
僕は黙ったままノエルを抱いて、彼女のふわふわした髪の毛をそっと撫でた。
――これって浮気にあてはまるんだろうか。
女ってのは、本当難しい。
いまさらながら種明かしをすると、僕はアリシアの恋人であるクライドがいるはずのコロズム村に向かっていた。
会ってどうなる? という思いも強いが、あのアリシアの心を射止めた男がどのようなイケメンであるか、確かめてみたかったのだ。
正直、アリシアは、今後どれだけ長生きしようと二度とお目にかかれない女神のような女性だと僕は思っている。
けれど、本当にふたりがまだ心の底から愛し合っているというのであるならば、僕は黙って引くのが男じゃないのか、と思いはじめていたのだ。
あれほどお堅いアリシアがころっと参るような男性だ。
外見はもとより、中身もこんなうじうじとしたコミュ不全野郎ではなく誰からも尊敬の念を集めるであろう人格者に違いない……はず。
ほんのわずかであるが、微粒子レベルで口先だけの屑野郎ならば胸を張って屋敷に帰り「あんな男のことは僕が忘れさせてやるぜっ」といえるのだろうが、その可能性は低いような気がする。
僕はマゾなのだろうか。まったく最初からかなわない相手を目にして、肥大した自尊心を粉々に砕かれ、んぎいいいっと泣き叫びながらこてんぱんにされたい部分が眠っているとか。そんなの自分でも嫌すぎる。
さすがに、ノエルに対してこれから向かう場所がアリシアの実家だとは告げることはできたものの、主目的が未だ精神的に切れていない元彼、いや、まだ彼氏なのか? を見定めるなんて打ち明けることはできなかった。
なにせ、ノエルは勘違いにせよ盲目的に僕を尊崇していることが判明してしまったのだ。
くすぐったくもあり、アリシアを裏切っているような気がして胸のうちがずくんと痛む。
ともあれ僕たちの旅ははじまった。
とりあえず、ルフェ家の探索から逃れるたびに、ある程度駅馬車を乗り継いだあとは徒歩に頼らざるを得なかった。
王都からルフェ家の領内にあるコロズム村はだいたい五百キロくらいある。
これをすべて徒歩となると、もう吐き気がしてくるほどの距離だが、国営の乗り継ぎ馬車を使うと、駅停で網を張られる可能性があるので、適当な地点で川船に乗り換えた。
船ならば、漁師が兼業で行っているものが多く、さすがに公爵家といえども、すべてを抑えることは不可能だろう。
僕はノエルを連れて、なるべく小さめの船に乗り込むと、ゆらゆらゆられて水の旅を楽しむことと決めた。これなら、二日くらいで着くので気持ち的にも余裕がある。
「わー。わたしお船に乗るのってはじめてですー」
ノエルは小さな子供みたく――いや、まだ十二歳なのだから充分子供か――船縁に手をかけて黄色い声を上げ、きゃっきゃっと川旅を楽しんでいる。
本当ならばアリシアを連れてきて上げたかったのだが、なんというか船旅はときどき水賊が出て危険らしいのだ。
アリシアがケツを痛めながら馬車に揺られてやってきたのは、そういったリスクを少しでも減らすためだったのだろう。
さいわいにも揺れは少なく、ノエルと目の前に広がる景色を楽しんでいるうちに、その日は過ぎた。
事件が起こったのは次の日の夕方だった。
その日、幾度目かの休みを取り終えて、船長が船を出航させてまもなく、後方からギュンギュンとスピードを上げて迫る、小さな手漕ぎボートの群れが幾つも見えた。
「しまった、水賊のやつらだっ!」
痩せこけた五十年配の船長が叫ぶと、乗客たちは途端に悲鳴を上げはじめた。
豪華客船、というほどでもないが、それなりに身なりのいい紳士淑女が三十人ほど乗っている。
賊に襲われた末路は悲惨なものと決まり切っている。
財物はすべて奪われ、男は殺されて女は凌辱されたのち奴隷として売り払われる。
「や、野郎どもっ。得物を取れッ!」
船長がヒステリックに叫ぶが、船員たちは誰もが顔を青くしてブルッている。
彼らは、兼業で船を動かしているが、普段は魚を相手にしているだけの極めて善良な漁師がほとんどだ。
乗客のなかには、四、五人ほど剣を携えた下級貴族らしき男の姿がチラホラ見えたが、向かってくるボートの数は三十を超えている。この戦力差は酷すぎた。これでは戦う前から勝負は決まったようなものだ。
「坊ちゃま。これを――賊たちがわたしに手をかける前に、坊ちゃまの手で、せめて」
ノエルは早々に自分の運命を悟ったのか、涙を浮かべながら手にした懐剣を渡してきた。
「辱めを受けるなど、わたしは耐えられそうにありません」
頭のなかがスッと冷えていく。
もう、僕はすでに一線を越えている。大事なものを守るのに、ためらいはなかった。
恐怖感がないわけではない。けれど、同じ人の形を持ったなにかを壊すには、こちらもどこかが壊れていなければ不可能だ。
水賊は雄叫びを上げながら、剣や斧を振りかざし、この船やそれに乗船する無辜の民を蹂躙しようと迫っているのだ。
この身体――ナイト・M・ルフェに流れる、先祖代々の血が戦えと命じている。
僕は、ひきこもりでニートで、コミュ不全で、臆病者だけど――。
大切ななにかが傷つけられるのを黙って見ているほど、卑怯な男ではないはずだ。
「ノエル。ここで待ってて。僕が、必ず守って見せるから」
「坊ちゃま……?」
慌てふためく乗客をよそに、ひとり船尾に向かった。
「おい、あんた。泳げるなら、とっとと川に飛び込んだほうが」
日に焼けた肌の船員が狼狽しながらいった。
「その必要はない。今から、あいつらを――殲滅する」
ゴキンと鈍い音を立てて、身体のなかの歯車が噛み合った。
外套を跳ね上げ、右手を突き出し迫りくる水賊の群れを指先でマーキングする。
時間をかける必要はない。
かかればかかるほど、みなの不安が増大する。
頭のなかがスパークしたように白く発光した。
輝きを赤に変えて、集めた魔力からすべてを焼き尽くす火球を出現させる。
フレイムキャノン――。
文字通り、炎の大砲を打ち出す火属性の精霊魔術だ。
指先から放たれた火炎の塊は、轟々と激しく風を裂いて唸り、次から次へと水賊のボートに命中した。
野戦砲に撃たれたように、ボートは次から次へと爆発し、乗っている人間ごと粉々に砕け散った。
あちこちで、悲鳴や絶叫、意味を伴わない声がひっきりなしに響いている。
水賊はロクな飛び道具も持ってはいないのか、一方的に打ち崩されるだけだった。
巨大な飛沫が高々と上がり、逃げようとした賊たちは炎に包まれながら川へと落水してゆく。微塵の情もかける必要はない。徹底的に潰すのみだ。
それでも骨のあるやつが残っているのか、幾つかのボートはこちらに向かって近づいて来る。
大した度胸だ。だが、届くことはない。
手のひらをぐっと握り込むと、右舷に回り込もうとしていたボートに向かってパッと押し広げた。
フレイムシャワー。
文字通り炎の雨をくれてやった。
真っ赤な火柱が虚空から突如として出現し、切れ目なく水賊たちに降りかかった。
火箭をモロに受けた男たちは火達磨になってどぼんどぼんと川のなかに飛び込んでいく。
肉の焦げていく臭気が吹きつける風に乗って鼻先を横殴りにする。
「逃がすかッ!」
水面に浮かびかかった賊たちにダメ押しと火球を叩きつけると、乗っている船の帆よりも高く水煙が立ち昇った。
船縁へと爆散した男たちの手足がどかとかと音を立てて叩きつけられる。
炭と血糊が混じった黒が船体を彩った。
ひとりだけ生き残った男と目が合った。
男は顔を引き攣らせながら唇を捻じ曲げたが無言のまま上半身を炎で焼き払った。
それが最後の抵抗だったのか。
最後尾の戦列にいた、二隻だけかかろうじて死を免れ、惨めに逃げてゆく姿を目にし、戦闘がようやく終わったことを悟った。
「つ、疲れた……」
なんというか、やり切った感があるな。
これほど実地で魔術を連続行使すると、予想以上の疲労が漂う。
「坊ちゃまっ!」
「うわっと!」
「凄いです、凄いですっ、凄いですっ! あんなにたっくさんいた賊たちをたったおひとりで――。さすが、ルフェ家の嫡男にして次代の王宮魔道士になられるお方ですっ!」
ノエルは感極まったのか、涙と鼻水で顔じゅうをAV女優並みに液体でべったべたにして飛びついてきた。やばい、性癖変わりそうで自分が怖い。
「ルフェ家だって……?」
「だとすると、王都で名高いあの王宮魔道士の家柄の――」
「それなら合点が……」
あまりの劇的な逆転劇に、歓声を上げていた人々が静まり返った。
「あの、失礼ですが。貴殿はかの有名なメルキオール閣下のおん孫にあたるナイトさまではありませぬか?」
品のいいチャコールグレイのハットをかぶった白髭の貴族が訊ねてきた。
まあ、嘘をいってごまかせそうもないな。
「は、はい」
震える声でそれだけ告げると、乗客たちは今度こそ溜まりに溜まった歓喜を爆発させた。
「すげええっ」
「やっぱりそうだったのですね!」
「さすが大道士のお孫さまっ!」
「名家の家柄だけはありますなあっ!」
僕は、床に座り込んだまま取り囲んできた乗客たちにもみくちゃにされた。
「ど、どうってこと……ないです」
「なんという謙虚さ――誇るところが少しもない。真の貴族とはあなたのことをいうのですなッ」
正直にいうと。
ここまで開けっ広げに誰かに感謝されたことは、前世も。そして生まれ変わってからも、ただの一度もなかった。
ノエルはノエルであちこちの乗客に「わたしが仕えている主なのですよ」と触れ回っている。よほど僕のことが自慢なのか、我がことのように頬を紅潮させているのを見ると、徐々に実感が全身へと満ちていった。
僕は、ずっと自分のことをこの世界にとってなんの役にも立たない異物で――屑だと思い込んでいた。
現に、十年もひきこもっていたし、魔術書を研究していたのは暇だったからに過ぎない。
それが――ほんの少しでも人の役に立つことがあっただなんて。
「助かりました。感謝いたします、ナイト卿」
恰幅のいい三十代半ばほどの男性が輪のなかから飛び出て、僕の手をがっしりと握り込んだ。ぶ厚く、タコのある労働者の手だ。
「私は王都で絹を扱っている商人です。あなたさまのおかげで家族ともども命拾いをしました。ほら、おまえたちもそんなところで突っ立っていないで礼を述べるのだ」
男の妻と、三人の息子たちは並んで深く感謝の言葉を述べる。
少年たちの目は、ノエルみたいにきらきらと輝いて、まるで生まれてはじめてヒーローを目にしたような尊敬の念が籠っていた。
「ナイトさま、すごいですっ!」
「かっこよかったですっ」
「ぼく、今日のこと一生忘れませんっ」
「あなたたち、ナイト卿に失礼でしょう。どうも、すみません。田舎者で」
二十代後半くらいのほっそりとし美形の夫人は、ぽっこりと突き出たお腹をかばいながら儚げに微笑んでいる。
「実はこれに四人目の子ができまして。今日はこいつのさとへ帰るところだったのですよ。もし、なにかご用命がございましたら、王都にある私どもの店グリーンバーグ商会をお訪ねくださいませ。男、グラハム。命に代えてもこの恩は返しますぞ!」
「あなたったら。ナイト卿がお困りですわよ……」
夫人は苦笑しつつもやさしげな手つきで張り出したお腹の上にそっと手を触れた。
それを見て、ようやく自分が為したことの意味を深く胸のうちに置くことができ、頬がゆるんでいった。
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