第6話「やっぱインドア派でしょ」
「実家に帰らせてもらいます」
って言葉はかなりインパクトのあるセリフだと僕は思う。
ビルギットの連続攻撃で死に体となったイングゥエイが、よろばうように脚へとすがりついたときの形相を僕はこの先も忘れることはないだろう。
深夜だというのに、一度こうと決めてからのビルギットの行動は早かった。
あっという間にテキパキと荷物をトランクひとつにまとめると、馬車を調達して僕とアリシアに発破をかける。
「ナイトちゃん、早くお荷物をまとめて正面玄関に急いでっ」
春はそこまで来ているというのに、今日は格別寒さが身に染みる風だ。
むろん、アリシアは自分の意見を述べたりはしないが、いつでも移動できるように夜着から外出着には着替え終わっていた。
無論屋敷のなかは蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。
メイドたちはおろおろと僕の部屋の前に集まると、普段のお淑やかな面をかなぐり捨てて、それはもうぴーちくぱーちく囀っている。
「ナイトくん、ちょ、ちょっといいかな……」
家令である六十年配のフィリップに肩を抱かれながらイングゥエイがよろめきながら近づいて来る。
いつもは綺麗に撫でつけられたオールバックもズタボロに、顔面は無数の引っ掻き傷が幾重にも走っており思わず目を背けたくなるほどだ。
「お、お願いだようー。いっしょにママについていっておうちに戻るよう説得してェー」
情けなさすぎる懇願だった。
まるで子供に戻ったように、えっえっと泣きじゃくると大きな身体で抱きついて来る。
家人にこのさまを見せるのはマズいと思ったのだろう、フィリップが年にしては素早い動きで扉をぐわんと閉じる。遅きに失していると思うけどね。
「ナイトさま……」
青い澄んだ瞳が濡れたように光っている。
ああ、もうっ。どうしたってこのままじゃ家庭は崩壊だし、そんな目をされたんじゃ我関せずというわけにはいかないじゃないか。
「わ、わかったよ。なんとかやってみよう……」
依頼成功率がほぼ百パーに近い凄腕のスナイパーの決めゼリフっぽくいってみる。
「おおっ、ありがとうっ。さすがぼくの自慢の息子だよっ!」
ことごとくその期待を裏切ったらごめんなさいで許してねとは、涙まじりのスターリン似の男には死んでもいえそうになかった。
「もおおっ。アッタマ来ちゃうんだからっ。パパのばかっ」
ビルギットの実家。エルフの森に向かう始発の駅馬車に乗り込んでからも、彼女の怒りはまったく収まっていなかった。
僕の隣ではいっしょについてきたアリシアがうつらうつらしながら窓の外の景色をジッと見ている。
屋敷を出たのは日付が変わる直前だったのだが、公営の駅馬車が出るのは早くても朝の六時である。
公爵屋敷にあるルフェ家のものを使えば、はるかに快適な夜旅ができたろうに、ビルギットはビルギットで「意地でも使わないもんっ」と我を張ったせいか、こんな安っぽいロクにサスペンションもないぎゅうぎゅうな馬車を使用するハメになったのだ。
「は、母上っ。ほ、ほほほ、ほかの方も乗っていますので、その、おおお、お声を今少し落としてください……」
メイドのノエルは最後までついていくと粘っていたのだが、ビルギットはどうあっても家族だけで行くといって聞かなかったのだ。
ずいぶんと寂しい里帰りである。が、そもそも貴族でなんでもなかった森エルフの彼女はそういった体裁はほとんど気にしていないようだ。
「ナイトちゃん、それにアリシアちゃんっ。ママが信じられるのは、もうあなたたちだけよっ。辛いこととかたっくさんあるけど、いっしょに頑張って乗り越えていこうねっ!」
「わ、ぷっ」
「お、お
ビルギットは両脇の僕らの首っ玉を引っ掴むとガッと引き寄せた。小柄なアリシアはともかく、百九十を超える巨体の僕まで楽々掻き抱くとは、けっこう力あるな。
当然、公的な乗合馬車には僕ら以外の客も乗っている。
とはいえ、一応一番上等なやつを選んだんで、車内には僕らを含めて六人しかいないんだけどね。
対面に座っている身なりのいい中年の夫婦と、中学生くらいの女の子は、あたたかい微笑みで僕らのやりとりを見守っている。
アリシアの頬は赤くなっているが、こういった茶番を人前に晒すのは僕も相当に恥ずかしいぞ。
「ごめんなさいね、ナイトちゃん。お外ちゃむいちゃむいですねぇ。ホントはママといっしょにねんねんしたかったのに、パパがお馬鹿なことばっかりいうから……」
ビルギットは僕を幼児扱いした挙句、赤ちゃん言葉を使って顔を覗き込んでくる。
目の前の中年夫婦は、なかなかの器量の持ち主で鷹揚にやりとりを見続けているのだが、次第に娘さんのほうの表情が引き攣っていくのがわかった。
だって、僕はこんな大男だし立派な成人だ。それを、まるでちっちゃな子を扱うようにベタベタ触りながら、自分のマフラーを首にかけたりハンドバッグのなかから飴玉を取り出して口移しに食べさせようとしているのだ。
おまけに、ビルギットは外出用の大きな羽根帽子をかぶっているので特徴的なエルフ耳が見えない。
これじゃ、若い女とそういうプレイをしているとしか思えないだろう。
なにせ、母であるビルギットは見た目僕らと幾つも違わないような顔つきなのだから。
「ん? どちたのかな。ナイトちゃん。ママのおっぱい恋しいですか?」
ンなわけないだろうがっ。もう穴があったら頭を突っ込んでジッとしていたい。そのまま化石化して余生を過ごしていきたい。
どのくらい馬車に揺れていたのだろうか。気づけば、外の景色はがらりと一変していた。
「ナイトちゃん。おっきちまちたかー。これがおちょと世界でちゅよー」
ビルギットがいうには、僕がうつらうつらしている間に、馬車は王都ロムレスガーデンの城壁を抜けたらしい。
すでに日が昇りはじめていて、やわらかな日差しが窓ガラスから差し込んでいる。
首を傾けて外を見やると広大な自然がそこには広がっていた。
異様なまでの山塊が連なり合って凹凸を形成している。
人の手が入っていない草原のあちこちには野生馬と思われる群れがのどかに草を黙々と食んでいるのが見えた。
「ほ、ほとんどアフリカだな……」
「あふりか、ですか?」
向かいに座っている娘と雑談に興じていたアリシアが不思議そうな顔で僕の言葉をオウム返しする。
問われても異世界人に地球のことを上手く説明できないので、僕は普段通り口のなかをもごもごさせていたが、特にアリシアは気にならなかったのかそれ以上突っ込まず雑談に戻っていった。
ビルギットはビルギットで相乗りした中年夫婦に機関銃のごとく、イングゥエイのことを愚痴っていた。
会話に加わったりはしないが、話を横から聞いていると彼らは南方に住む貿易商で、商売ついでに王都を観光してきた帰りだとうことだった。
「いやぁ、しかしさすがに王都の公営馬車ですな。値段も段違いなら乗り心地も安物とはまったく違います。ひとつ、奮発して上等の切符を買った甲斐があるというものですよ」
「すみませんね奥さま。この人ったら、変なところで吝嗇なもので……」
仲よく談笑している。僕は依然として沈黙を守ったままだ。沈黙は金なり。雄弁は銀なり。
平穏は永遠のものではなかった。
ゴクン
と大きな縦揺れが馬車を襲った。
今まで一定のスピードを保っていた車輪がドンドンスピードを上げてゆく。
定期的な補修がされているとはいえ、街中を走る石畳のように整っているわけではない。
「おい、これはいったいどういうことだっ」
「旦那、野盗に目ェつけられちまいました!」
紳士の声に対して馭者が尖った悲鳴で応じた。
野盗――つまりは盗賊のことだ。
アリシアと仲よく喋っていた娘がひいっと声を上げ顔色を蒼白にする。
なんてことだ。王都の外は化外の地といわれていたが、実際自分が襲われる身の上になってみるとまるで現実感というものが湧いてこなかった。
「ナイトちゃん」
ビルギットはさすがに公爵夫人である。顔だけはこわばっていたが、冷静を失うことなく僕の腕にそっと手のひらを重ねてくる。
対してアリシアはものもいえずに身を縮めると震えながら肩をぴったりとくっつけてきた。
「スピードを! これ以上スピードは出ないのかね馭者くんっ!」
「騎士団の街道巡察は昨日あったばかりでさァ! おらっちもやるだけやってみるが、こんな真昼間っから稼ぎに走る連中が相手じゃ覚悟だけはしておいてくだせぇよ。畜生稼ぎの賊たちは人質なんて取らねえもんだっ」
馭者はそれだけいうと、もう客車を振り返らず鞭を使い出した。
ぴしぴしと馬のぶ厚いケツを打つ強烈な音だけがくっきりと耳元に迫ってくる。
僕はいてもたってもいられず窓を開けると、背後から迫りくる重圧を見極めんと視線を転じてみた。
――いた。
騎馬に乗った男が七人ほど、もう、それほど遠くない位置まで近づいている。
「その馬車止まれッ!」
「止まれってんだ、ぶっ殺すぞ!」
これほど離れているというのに、割れ鐘のような声が風に乗って車内にまで飛び込んできた。
同時に、びょうと風を切って銀色の軌跡を残して矢が走ったのを見た。
男たちはてんでバラバラに弓を入りはじめた。
無論、こちらになんの攻撃力もないと見越しての一方的な蹂躙である。
元より、人を満載して重くなった馬車と騎馬では勝負にならない。
僕は野盗が放った矢が馭者の背に突き立つのをただ茫然と見つめるだけだった。
男たちは背広を朱に染めて転がり落ちる馭者を確認すると、ホウホウと雄叫びを上げて歓喜に全身を打ち振るわせている。
馭者が死んで制御できなくなった四頭の馬たちはたちまち乱れはじめた。
「こ、の――!」
貿易商の紳士はどのでっぷり太った身体からは似つかわしくない俊敏な動きで御者台に乗り移ると手綱を取ってなんとか馬をなだめるのに成功した。
「よおっし。さあ、下手な抵抗はせずに降りてこいっ!」
「余計なことをしなきゃ寿命が延びるってもんだぜ!」
男たちの荒々しい声が車内に満ちた。
「ナイト、さま」
アリシアは恐怖で顔を青ざめさせながらひっしとすがりついてくる。
「大丈夫。ナイトちゃんたちは、ママが守ってあげるからね……」
ビルギットは小さな身体で僕を真正面からギュッと抱きしめると、先陣を切ってタラップから降りはじめた。慌ててそれに続く。
男たちはビルギットを目にすると、ひゅうっと口笛を吹き鳴らした。
なぜなら、うつむかず凛とした表情で前を見据えているビルギットには公爵夫人として磨き抜かれた品格とそれを際立たせる美貌が備わっているのだ。
「おいおい、マジかよ」
「こんな上玉、そうそうお目にかかれねぇぜ」
「さすが王都だ。危険を冒しただけのことはあるってもんよ」
くそ。こいつら、一応生物学上は母親である人の身体をジロジロ見やがって。
僕がビルギットに続いて降りると、さすがに警戒したのかゆるんでいた殺気が引き締まっていくのを感じた。
なにせ、この身体は熊のように大きく、できそうな気配を漂わせているのだ。
続けてアリシアが外套に隠れるようにして姿を現わすと、男たちは再び好色そうな目つきで舐めるように上から下をジックリ視姦し出した。
「さあ、紳士淑女のみなさん。俺たちはこう見えていろいろと忙しい。素早く的確にこちらの商いに協力していただけると大変よろこばしい」
騎馬に乗った四十そこそこの髭もじゃが、パンパンと手を打ち鳴らしながら慣れたように口上を述べる。
「金品や財宝ならばすべて差し出します。その代わり、あなたたちは早くこの場を立ち去ってください」
毅然とした態度でビルギットがいった。貿易商の家族は固まって震えたまま、ひとことも口を利こうとしない。
怖い……!
見れば男たちは手にした三日月の蛮刀をこれみよがしに見せつけながら、同じ人類とは思えない目で僕らをねめつけているのだ。
「ふうん。お嬢ちゃん。ずいぶんと度胸がいいんだなぁ。そのうしろでビクビクしているのはおめぇの旦那か? 図体がデカいわりにはブルッてるじゃねぇか。薄みっともねぇ」
「わたしの息子夫婦です。おまえたち賊風情が無礼な言葉を利くことは許しません」
「はぁ? テメェの息子……。へっ、そうか。姉ちゃんエルフか。ははっ。どこのお貴族さまかは知らねぇが、気に入ったぜ。俺の女にしてやる。その代わりといっちゃあなんだが、野郎どもの命は許してやる。といっても、城に通報できねえよう、ちっとばっかし遠くに運んでからの話になるがよ」
「……わかりました。ただ、息子たちに乱暴はしないでください」
胸のなかが猛烈にむかむかする。
男は馬から降りると、歩み寄ったビルギットを抱き寄せて金色の髪を掴んだ。
吐き気がますます強まる。
「やめてっ。離しなさいっ」
ビルギットは身体をよじって男から逃げようともがくが、毛むくじゃらの太い腕がそれを許さない。
「ふーぅ。貴族の女は髪まで上物の匂いがすらぁ……! アジトまで我慢できそうにねぇなあ、おう!」
げらげらと。
男たちの哄笑が鋭く、強く響き渡った。
「ここいらはよう、城からそれほど離れちゃいないが、王の直轄地と他領の境目で、微妙な部分なんだ。俺らからしたらいわゆる狙い目ってやつだ。王都の騎士団は大貴族を、大貴族のやつらは王都の騎士団を慮って、ごたごたをできるだけさけようとする傾向がある……!
一種の政治的空白地域ってやつで警察権が宙ぶらりんなわけよ。あまり騒ぎ過ぎればまだしも、サクッと襲ってサクッと逃げればほぼ捕まることはねぇ。へへ、運が悪かったってやつだ。くくく、どうだ? たまには旦那以外の男に抱かれんのもそう悪くはねぇだろう?」
男がビルギットの胸を鷲掴みにしたとき。
頭のなかの回線が、ぶちっと音を立てて断線した。
「ナイトさま?」
アリシアの声。知らず前に飛び出すと叫んでいた。ビルギットが両目を見開いてこっちを見ている。男は好色そうな目つきをぎらりと光らせると、空いた手で蛮刀を振りかぶった。
無我夢中だ。思考するよりも早く魔術が完成した。頭のなかが赤で埋め尽くされる。
気づいたときには真っ赤な炎の槍が虚空に出現し男の喉笛を貫いていた。
――フレイムランス。
火属性の攻撃魔術だ。
まさか今まで震えていた男が襲いかかってくるとは思っていなかったのか。
ビルギットを虜にしていた男は首の半ばを焼き切られると「まさか」という表情のまま背後にそのまま勢いよく倒れた。
時間がまるで止まったように遅く感じられる。
馬上の男たちが頭目をやられたことに気づくと、顔を怒りで染め上げ馬首を巡らせる。
その動き。いかようにも遅すぎる。指先に思念を込めて術を形成する。瞬く間に、みっつの火球が生まれると、男たちが矢をつがえるより早くその顔面を撃ち抜いた。
ボッと火の粉を撒き散らし、男たちの顔が火炎に包まれる。人の肉と髪が燃えて焦げる嫌に臭いが漂った。
たてがみに炎が燃え移ったのか。馬たちは泡を吹きながら棹立ちになると男を振り落として狂ったようにいななく。
ここまで大した時間はかかっていない。体感にして十数秒。脳が恐怖を感じるよりも早く、身体が動く。
残った三人。目の前の状況が処理できていないのか、茫然としている男に目がけて風の魔術を射出した。
エアロカッター。空気の鎌だ。どんな研ぎ澄まされた刃物よりも鋭いそれは、しゃりしゃりと奇妙な音を立てながら空間を水平に走っていく。
あ、と男がしゃがれた声を上げると同時に死神の鎌は男の首をなめらかに切り取った。
スライスされた生首はポーンと跳ねると草原のどこぞに落ちて見えなくなった。
草の丈が長かったのがよかったのか悪かったのか。
とりあえず、景気の悪そうな生首なんぞは二度と目にしたくない。
残りのふたり。後列にいたのがよかったのか、すでにある程度距離を取っていた。
かまうものか。魔術師にとって、距離などそれほど意味はないのだ。
夜店の射的よりもはるかに的は大きく、当てやすい。
おまけに砲台の質は折り紙つきのよさだ。
バレーボール並みの火球をふたつほど作って小さくなっていく男たちの後頭部に続けざま当てた。道に落としたスイカのように、景気よくぼんぼんとそれらが爆ぜた。
都合七匹。即座に処理した。
「ナイト……!」
アリシアの声。
僕がもう大丈夫だよと笑顔を作ると彼女は怯えたように顔を引き攣らせて後退った。
なんでだ。
なんでだよ。
悪党を追い払ってやったじゃんか!
遠くから、馬蹄の響きが聞こえる。視界がずんと狭まって見えにくくなる。
ああ、そうか。悪いやつがまだまだいるんだね。
じゃあ怖がるのも無理はないか。ちゃんと、片づけないと。
緑の草に列をなして、騎兵の一軍が迫ってくる。
やめて、と。誰かが必死で叫んでいる。ああ、大丈夫だよ。ビルギット、アリシア。
今度は、僕がちゃんと守るから。
頭のなかが重たくなってなにも考えられない。
僕はさらに狭まって見えなくなった視界の向こうに迫る敵影を立て続けに魔術で撃った。
全身が痛い。
目を開けようとしたが腫れぼったくなった目蓋が持ち上がらないことに気づき、恐怖をゆっくりと感じはじめた。
腕を動かそうと力を込めるが関節の部分が酷く痛んだ。
どうにか苦労してダメージの少ない右目を無理やりこじ開けると、暗く汚れた天井が視界に入ってきた。
「ど、こだ。ここ……は」
問うて応えるものなどどこにもいない。神経が蘇ってくると、途端に刺すような寒さが身に染みた。
痛みが勝っているのか全身がカッカと燃えるよう火照っている。汚れた空気がまとわりついているようで、酷く気分が悪く、あげそうになってえづいた。蟇のようなしゃがれた声が鳴っている。荒れた風だと思ったが、よくよく考えると自分の呼吸音だったことに気づき、頬が自然とゆるんだ。
どうにかこうにか上体を起こすと、頑丈そうな鉄の格子が部屋の前面に張り巡らされている。やけに冷たさを感じたのは、いつもの外套もなく石で組んだ床に直で転がっているからと気づいた。
「おう、起きたか兄ちゃん。見た目通り頑丈そうでなにより」
六尺ほどの太い樫でできた棒を捧げ持っていた、灰色の服を着た目が落ち窪んだ牢番が、これまた不景気そうな声で呼びかけて来た。
「僕は、どうなったん、ですか」
「どうなったもこうなったも。俺は兄ちゃんがご領主の警備隊とやりあって放り込まれたとしか聞いていないが」
次第に意識がハッキリしてきた。無我夢中で野盗とやりあったのは覚えていたが、最後にやってきたのは悪党ではなく、裁く側だったのだ。
それを僕は混乱したまま、めったやたらに魔術を浴びせてしまった。そう。途中で気づき、両手を上げて降参したのはいいが、仲間を多数傷つけられて怒り狂った騎士たちの手でこれでもかとばかりに、ボコられたのだ。それよりも――。
「あのっ。僕といっしょにいた女性たちは、無事なんですかッ!」
「うおっ。いきなりデカい声出すなよ? こっちは年寄りなんだ。ビビらせないでくれ」
牢番はそういうと手にしたランプを床にごとりと置いて、牢内の様子をジッと見た。
どうやらこっちの様子を慎重に窺っているらしかった。
そんなに怯えるなよ。
どうせ、こっちは檻のなかだ。死ぬ気でもない限り鉄格子は早々に破れない。
「とりあえず、盗賊以外に死人が出たとは聞いちゃいねぇ。俺が知ってるのはそれだけだ」
「そう、ですか。ありがとうございます」
ホッとした。
僕のことはどうでもいい。ビルギットやアリシアに怪我がなければ差し当たって問題はないんだ。
ホッと気が抜けたのか、僕はそのままずるずると壁際まで這うと壁に背を預けた。
ずくり、と背骨を中心に鈍い痛みが走って声を上げそうになる。歯を思いきり噛み込んでどうにかこらえた。涙がじわりと滲んだ。
「兄ちゃん。一応は手当はしてあるから死ぬこたぁねぇが、辛かったら寝てろよ」
「僕は……いつ、ここから出られるんですか?」
「出る? 気の毒だがそりゃ無理だろう。どんな事情かは俺ら木っ端は知らんが、ご領主の騎士さまに手を出したんだ。よくて農場の奴隷だ。あんたは、まだ若いから真面目に勤めりゃ、足腰が動くうちに出れるだろう。希望を捨てちゃいけねぇ」
牢番が慰めるように膝を突いたまま僕をジッと見つめる。
そうか。争いのあった場所は王の直轄領を超えていたのか。
ようやくひきこもりをやめれたと思ったら、またこんな場所に押し込めか。
僕ってばつくづくインドア派だなぁと思ったら、もう泣くにも泣けないってやつ。
両親はどうしたんだろうか。
ま、いきなりキレてあんなことをするような異常性を見せれば、切りたくなる気持ちもわかるってもんだ。
最後に覚えているアリシアの顔。化け物を見るような恐怖に染まり切っていた。
あれからどれくらい時間が経ったか、わからないが、仮にも公爵家の嫡男が身元もロクに調べられずに牢へぶち込まれたままなんておかしいに決まってる。
そういえば、いつも着ていた外套がどこにも見当たらない。格闘をしたとき、どこかで落としたのだろうか。そんなことを考えていると、牢番がわざとらしくごほんごほんと咳をした。
「あー実はだな。本当は規則違反なんだが。おまえに差し入れをやりたいという者がいて、な。そんでだ、魚心あればなんだ……その」
僕は黙って襟元の宝石のついたカフスを取ると牢番に握らせた。
どうやら、勝手に剥ぐほどの度胸はなくても本人から受け取るのはオッケーらしい。
牢番は奇妙に顔を歪ませると――もしかしたら笑顔だったのかも――足早にその場から駆け去って、しばらくすると四角い箱を携えて来た。
「おら、美人の姉ちゃんから差し入れだ」
「これは?」
牢番から四角い木枠に入った弁当箱を受け取ると、なかはまだあたたかな肉や野菜の煮たのや、チーズやら魚の焼いたの、パンが詰まっていた。
「兄ちゃんの女房か? 事情はよくわからんが、おまえさんはご領主の警備隊に手を出したんだ。罪は軽かねぇ。釈放なんてありえねえだろうしなぁ。その上で、面会はまかりならんと、獄長さまにきつくいわれても、獄の前から一歩も動かない娘がいてなぁ。この寒いなか、真っ暗な外で立ったまま弁当を抱えてる娘からこっそり受け取ってきたんだ。聞いたらよう、おまえさんがいつ出てきてもあったかいお弁当が食べられるようにって、もう長い間、胸で抱きかかえたまま冷えないようにってジッとしてる姿が不憫でよう」
「その娘は、金色の髪をしたエルフでしたか」
「いいや。黒髪の青い目をした娘だ」
それを聞いて心臓を鷲掴みにされたような気分になった。
黒髪で青い目と来たらアリシア以外のなにものでもないのに。
弁当は、まだほのかにあたたかい。
顔を近づけると彼女の匂いがわずかばかりながら感じられた気がした。
僕は涙をこらえながらなんとか弁当を食べ終えた。
しばらく経ってから釈放の知らせを聞いた。
母にもアリシアにも会わせる顔というものがなかった。
怪我はお抱え医師と治癒魔術師の技であっという間に治ったが、あの牢の寒さが悪かったのか、風邪を引いた。
「ナイトちゃん。おかゆ作ってきましたよー」
けふんけふんと僕がやるたび、家人は――特に、ビルギットやアリシア、ノエルあたりが懇切丁寧に世話を焼いてくれた。
彼女たちは、あの野盗との戦いなどなかったかのようにやさしく接してくれるが、僕のなかには確かに目に見えないしこりが残ってしまった。
風邪が治ったあとも、なんとなく全身がだるくなにもする気が起きないのだ。
もちろんこの身は生粋のニートゆえ、やることなどなにもないのだが、上げ膳据え膳至れり尽くせりでは、気が咎めるというもの。
イングゥエイもどさくさでビルギットと仲直りができたのか、どことなくホッとした様子だった。
それもそのはず、ふたりは前以上にべったりと張りつき、人の目の前で交接しはじめかねない勢いだ。怖い。
男女が喧嘩をしたあと燃えるのは、よりいっそう結びつきを取り戻す自然現象らしいが、あそこまでモロだとげっそりする。
イングゥエイはたいそう僕に感謝しているのか、食い切れないほど仕事帰りにフルーツを買ってくるので、新居はフルーツパラダイス(意味不明)になってしまった。
余ったのはほとんどノエルに与えている。
どうやらメイド同士でいらないものを融通しあっているらしい。謎だ。
「ナイト、エサが剥けましたよ」
「……リンゴだろ。変ないいかたするなよう」
アリシアは枕元でしゃりしゃりとリンゴをウサギの形に変形させると、僕の口に運ぶという作業を黙々と行っている。
なんとなく。
なんとなくではあるが、アリシアの態度が変わってきたように僕は思える。
彼女はもはやひとことも実家のことや、故郷に置いてきた恋人のことは口にしなくなっていた。
それはそれでありがたいし、正直なところ安心感はある。
初日から、毎日床をいっしょにしているし、手がちょっと触れ合うだけで悶々として頭がおかしくなりそうになっているが、そこは意思の力でこらえ続けているが、限界は自ずと近いだろう。
「どうしたの? リンゴさん、食べないのですか?」
「食べさせてよ」
いってから後悔した。
この手のジョークはなんとなく、禁句となっていたのだ。あれほどまで恋人であるクライドを思っていた彼女だ。
ほんの少しのやりとりが、地雷に触れる行為かも知れないと気をつけていたのだが、いつしか僕は互いが本物の夫婦だと思い込んでいたのだろうか。
「いいですよ。甘えん坊ですね、ナイトは」
「……へ?」
「なに? もしかして、私をからかったの?」
「い、いいい、いやいやっ。そうじゃなくてっ、そ、その食べさせて、欲しいっ!」
「そ、そう。別にそんなふうにビクビクしなくてもいいのに。ホント、ナイトは蚤の心臓ね」
そういって僕をからかうのだが、アリシアの目はやさしい。
青い瞳を見つめているだけで、なんとも心穏やかな気持ちになれるのだ。僕はベッドに横になったまま、フォークで運ばれる小ウサギを大口を開いて迎え入れた。
「ふふっ」
「なんだよ」
「いえね。お義母さまがいってること、なんとなく私にもわかったような気がして」
「だから、なに」
「ナイトって、こうしていると本当におっきな赤ちゃんみたい」
アリシアは細い人差し指をぷっくりした自分の唇に添えて、ふふっと静かに笑っている。
ああ、そうだ。
彼女にはもう影はない。
影を勝手に感じて怯えているのは、むしろ僕のほうなんだ、と。
僕は――影を消し去る決意をようやく固めることができた。
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