第5話「おでかけって難易度高い」
婦女子とのウィンドウショッピングなんて僕の人生のなかで、もっともかけ離れた仕儀だと思っていた。
まず、女性と知り合う機会がない。これはひきこもりだったので致し方ない。運命だ。
そして、万が一に知り合えたとしても。いっしょにいて場を繋げられない。
男女交際においてだんまりは許されないのに、僕はお地蔵さんと化すだろう。
そして女性は男性のリードを期待するので次第に険悪なムードになってゆき、無事死亡。
ここに非モテの不文律が完成するのだ。
おしまい。
なのに、なぜだろうか。僕は知らない間に街へと連れ出されていた。
人員は、僕、アリシア、ビルギット、ノエルの四名だ。
無論、貴族である伯爵夫人とその嫡男が護衛もつけずに歩き回れるわけもない。
都の目抜き通りを連なって歩く僕たちの後方には、手練れの騎士が影となってつき従っている。
目のつくところに出てこないのは、ビルギットが「雰囲気が壊れるから」という無茶な命令を下し、あえて人目につかぬようひっそりとした警備を余儀なくされているからだ。
「ねえねえ、ナイトくん。アリシアちゃん。まずは、どっから見て回ろっか!」
ビルギットがくるくる踊るようにして僕の腕を引っ張っている。
「はい。私はお義母さまのお望みの場所に」
数歩離れた場所からアリシアが答えた。
「うーん。そうね。アリシアちゃんは王都のことよく知らないだろうか、今日は私が案内役ね。ナイトくんもそれでいいかなっ」
「い、いいと思うよ」
不意に話かけられドキッとする。
「ビルギットさま。このあたりは足元がお悪うございます。お気をつけてくださいませ」
うしろにノエルがそっと注意を促した。
都の繁華街は昼間からかなり多くの人間が行きかっていた。
つまり交通量が多いということはそれだけ道の劣化が激しいということだ。
人ごみで酔うかなと思っていたら、案外思ったよりも拒否反応は出なかった。
いや、僕なんかよりもアリシアの態度のほうがあきらかに挙動不審である。
「あ、あの。ナイトさま。今日は、なにかお祭りかでも催されているのでしょうか」
彼女は、人間よりも動物のほうが多い山里からやってきた娘である。
それなりに人が多いといえる繁華な街並みを急ぎ足で行きかう人々に目を丸くしながら、いつもの冷静さを見失っている感があった。
「そ、それはないと思うな」
「アリシアちゃん。王都ではこれくらいの人並み普通なのよ。いえ、いつもより少なめかしらね」
ビルギットが人差し指をタクトのように振りながら、ちちちと舌を鳴らしている。
「これで少な目ですか」
僕からいわせてもらえば、ややまばらに思える街ゆく人々は、アリシア基準ではなにか目的を持って行動をしているに違いない数に見えるらしい。
「そ、そうですか。……うん。私、がんばりますっ」
王都独特の気配にいつまでも飲まれている僕の嫁ではない。
アリシアは、ぐっと両拳を腰のあたりに引き寄せると、力強く決意を新たにしている。
頑張るアリシアちゃんもとてもかわいいのだ。
「そんなに肩肘張らなくてもいいのよー。ショッピングは楽しまないと、ね」
「頑張りますから」
嫁姑ある程度の齟齬はあるものの関係は比較的良好そうだ。
「じゃあ、気合入れてがんばるぞー!」
一番元気なのは、やはりビルギットだった。どんだけ抑圧されているんだと思う。
とにかく彼女はタフだった。気まぐれに雑貨屋やら、装飾品を扱う店やら、貴族御用達の店やら、屋台やらを次から次へと移動してゆく。
「で、こうなるのね。やっぱ」
気づけば、僕とアリシアはぽつねんと取り残されていた。
迷子である。
僕らは、見も知らない街角で手を繋いだまま立ち尽くしていた。
「ナイト。お義母さまたち、どこにいってしまったのかしら」
知らん。こっちが知りたいくらいだ。
しかし、以外のこと思った以上に心は平静だった。あたりまえか。
考えても見れば、ちっちゃな子でもあるまいし、ちょっと道に迷ったくらいで不安になったり泣き喚いたりする年でもない。
「……どう、しましょう」
――と、思ったらものッ凄く追いつめられてる感バリバリの少女がここにいる?
アリシアは無意識のうちに、僕の手を放すものかとばかりに、ぎゅうっと握りしめていた。
通りは相も変わらず人々が忙しそうに足早に歩き去ってゆくのが見えた。
ま、これがひとりぼっちならば、周囲の情景と己の存在の希薄さで虚無感を必要以上に煽られ死にたくなっていたことだろうが、今の僕は絶世の美少女と恋人繋ぎの状態である。
矢でも鉄砲でもテポドンでも撃ってこいという気分だ。安心したらお腹が減った。
ぐーきゅるるっ、とアニメのような腹の虫が鳴った。
アリシアが驚いた顔で口元に手を当て僕を見る。恥ずかしさのあまりうつむいてしまう。
「……くすっ」
見れば、先ほどまで不安顔だったアリシアが小さく微笑んでいた。泣きそうだった顔は、幾分やわらかにゆるんでいる。
「ナイトは、案外豪胆なのね。そういうところは、頼もしい気がするわ」
「ほっ、ほっといてよ。なんか、歩き回ったらお腹が減ったんだよ」
「先ほど、お義母さまから屋台の串焼きを購っていただいていたじゃない」
「この身体、動くと燃費が悪いんだ」
「そうですね。はじめて会ったときから思っていましたが、ナイトはやはりおっきいです」
アリシアはくつろいだ表情で僕の前に立つと繋いでいない右手を伸ばして、ふたりの背の高さの差を計ろうとしていた。無防備な彼女が近づくと、なんとも甘いような女の子に香りがして頭がくらっとする。
「やっぱり、おっきい」
そのセリフ、最高です。
「じゃ、じゃあさ、なにか、そのあたりのお店で食べない?」
誘った。誘ってやったぞ!
ハッキリいわせてもらうと、僕は生まれてはじめて女性を飲食に誘ったのだ。
この一歩は小さくともナイトにおける歴史のなかでは大いなる一歩である。
アリシアは青い瞳をまん丸にしてジッと僕を真っ直ぐ見た。
ぴんと、張りつめた緊張感で胃袋が反転しそうになる。
へ、返事は? い、イケるだろう、さすがにこのタイミングならば。
「お義母さまたちが私たちを探しているわ」
困ったようにアリシアが、眉を下げた。
無念なり。
たぶん、僕の顔は地獄に突き落とされた亡者のごときものだったのだろう。
アリシアは目を細めると、指先で胸をつんつんとつついた。
「そんな顔しないで。もう、私だって殿方にお食事に誘われるのはじめてだったから。その、実家の母さまは、とりあえず行く気があっても……一度はお断りしなさいって……。ねえ、そんな顔しないで。冗談よ。お食事にしましょう。ないしょで、ね」
コケティッシュにウインクをぱちり。
心臓が止まるかと思いましたよ。
自分から誘っておいてなのですが、とりあえずどこがうまいとかわかるわけがない。
「ナイト。私、外食ってしたことないのだけど、こういう場合、なにを食べたらいいのでしょうね」
喧騒へと次第に慣れたのかアリシアは僕の外套をちょんとつまみながら、興味深そうにきょろきょろあちこちの店を見回している。
こういうときは「うん、ここのお店のパスタが絶品なんだ」とか「ここのフレンチでイカしたワインを乾杯しようじゃないかマドモアゼル」とかそれこそモテモテジゴロのように甘い言葉をささやいて、素敵よ抱いて! となればけっこうなことだが、僕にその才はない。
「こ、ここにしようか。ここがよさげな雰囲気だ」
まあ、パッと見て、そこそこ人が入っていて小奇麗なレストランを見つけ出すと、先頭を切って入っていく。
余談だが、僕は見知らぬ店に入るとき、躊躇して一時間くらい立ちん坊になってしまったことがあるが、アリシアの前でそんなみっともない真似はできないので蛮勇を奮う。
「いらっしゃいませ」
低い上品なバリトンでボーイが僕たちを瞬間的に品定めした。
とりあえずお出かけということで、僕らいわせればコスプレとしか思えないような、西洋ヨーロッパ的衣類と外套を着込んでいるが、そこはさすが大貴族だ。上質な布を使っているので、素人目にも特権階級出身だとわかったのか、馬鹿丁寧に奥まった席まで案内された。
「お客さま。こちらは当店でもっともよい席でございます。失礼ですが、ルフェ家ゆかりの方でございますか?」
席に着くと同時に、ボーイが金色の髪をオールバックにした四十そこそこの男性を伴って戻ってきた。その貫禄からおそらく支配人だろうとあたりをつけた。
よく考えれば、服にも外套にもルフェ家の紋章である白獅子の紋章が縫い取られている。
「ぼ、ぼぼぼ、僕は、ナイト・M・ルフェ、という……もの……です」
ううっ。やっぱり初対面の人と話をするのは緊張するぁ。
と眉間にシワを寄せていると、威厳が漂っていた中年男性は顔色を蒼白にするとその場で片膝を突いて目を見開いた。
「な、ななな、ナイトさまっ……? ルフェ家ご嫡男のっ! 王宮魔道士メルキオール閣下のおん孫にあらせられるッ! た、たたた、大変失礼しましたっ! なにとぞ、お許しをっ。この者、まだ日が浅いものでッ」
「え、えと。あなたが店長さん、なのかな?」
僕のどもりがうつったように相手がいいよどむのを見ると、本当に悪いが緊張がほぐれてゆく。
めちゃクールですと気取っていた黒服のボーイも腰を抜かした山羊のように、おろおろと数歩後退り、助けを乞うような目をしている。
「し、支配人のギヨームでございますっ。本日はどういったご用件でッ」
いや、飯屋にきて飯を食う以外どういった用件があるというのだろうか。
アリシアはまるで寸劇のように大げさ店の男たちの態度に呆気にとられ、目をしばたかせていた。
「いや、あのね。僕たちは、昼食を……」
「かしこまりましたっ。銀の狼亭、身命を賭しまして閣下の期待に添える作品をお眼にかけてみせますっ」
ギヨームは戦場さながらの怒声を放つと、すぐさま調理場に駆け込んでいった。
いや、埃が立つだろ。それは食い物屋の礼儀としてどうなの、と思う。
「なにか、凄く元気なお店なのね。王都のお食事屋さんは、みんなこうなのかしら?」
「た、たぶん、ここだけだと思うよ……」
どちらにしろ席自体は、奥まって道の雑音が入ってこない静かな場所だった。
全面ガラス張りで、通りを行く人々の流れがやたらとゆったりに思える。
たくさん人と接したのか、ちょっと疲れたな。
僕はグラスにつがれた水を一息に空けて、すきっとした甘さにびっくりした。
なんだ、これ? うまっ! 水は少なくとも超一流だ。
「このお水。故郷のものと、よく似ているわ。おいしい」
アリシアも甘露に満足したのか、ほっこりと瞳にあたたかい色を灯らせ頬をゆるめる。
うん。なんかふたりきっりだし、とってもいい感じだ。
「あの、その。アリシアは、疲れたかな……?」
「そうね。私、こうして人がたくさんいるところってほとんど歩いたことなかったから」
そ、そうだよね。急にこんなゴミゴミした場所にくれば気疲れするよね。
もうちょっと、配慮してあげればよかったかな。
「ほら、その顔」
「え?」
「また、うじうじしたこと考えているでしょう。ダメよ」
「そ、そうだね。僕は、ダメなやつだよ」
「そうではないでしょう。ナイト、私はあなたに感謝しているのよ。ありがとう」
「うぇ? え、えーと」
「疲れてしまったのは本当だけど、私、こうやって珍しいもの見るの、けっこう好きよ。王都は誰も忙しそうにしているけど、それって活気があるってことだから、みんなが一生懸命ってことなのよね。毎日街を歩くのは、その……あれだけど。たまには、悪くないわ」
「そ、そうか。よかった」
「私、この街、好きになれそう。ね、だから、ありがとうなの」
「ん。な、なら、僕もありがとうだよ」
「はい、ありがとうナイト」
「ありがとう、アリシア」
互いに顔を見合わせて、どちらともなく笑いがこぼれた。
運ばれてきた料理は上々だった。すべてシェフに任せたので、いちいち頭を悩ませることなくコース料理を堪能できた。
アリシアが食事中それほどお喋りをせず、黙々と料理に向かってくれることはこちらとしてもラッキーだった。
時折視線が合うが、美味い料理は人の気持ちを上向きにさせるものか、特に言葉をかわさなくてもアリシアの気持ちがリラックスしていくのがわかった。
量は多すぎもせず少なすぎもせずといったところか。
屋敷は専門の料理人が調理しているが、どこか画一的な感じがしたが、この店〈銀の狼亭〉は味に特徴があって、これはこれで楽しめた。僕はたぶん貴族的な食事を長く続けたせいで口が奢っているのだろう。
いつもアリシアと食事をとるときは隣り合っているのでわからなかったが、今日みたいに対面に座っていると、実は彼女の表情が豊かだということがよくわかった。
運ばれてくる料理に対して、平静を取り繕っているのだが、目の輝きが違った。
適度な焼き加減で焼かれた、肉や魚や、瑞々しい野菜を楚々として口に運ぶたび、ブルーの瞳がきらきらと色味を増して光るのだ。
食事を楽しめる人間は人生が豊かであり感受性が強いのだろう。そして、間違いなく人生も楽しめるはずだ。
僕は考えてみれば、十年もの間、穴倉でひとり黙々と食事をしていた。美味いだのまずいだのは、比べる相手がいるから生じるわけであって、ブロイラーの鶏のように均一的にラインで運ばれる栄養素を胃の腑に収めても、それはただエネルギーを摂取しているに過ぎない。僕は機械的な人間だった。仕方がない。本来人間は群れで生活する生き物なのだから。
「ん。おいし」
最後に出てきたデザートのチョコクリームをぺろりと舐めるアリシアの唇の動きは官能的ですらあった。
僕は視線を悟られないよう、阿呆みたいに長い前髪で目元を隠すと頬を熱くさせた。
とりあえず、時間を忘れて食事に没頭してしまった。
アリシアは、この店で軽いものを食べる程度だと思っていたのだろうか、考えていた以上に時間が経過してしまったことに気づき、店を出てから気が咎めたのだろうか、ややしょんぼりしていた様子だった。かわいいいなぁ、そういうことこも。
正直、僕はふわふわした気持ちで極上の時間を楽しんでいたので、ビルギットのことはただの一度も思い出さなかった。
「ねえ、ナイト。思っていた以上に時間を費やしてしまったわ。お義母さまたち、さぞや心配しているでしょうね」
「う、うん。とりあえず、どうにかして道を聞かないと」
腹が満たされたおかげで気持ちにゆとりが生まれた。
さりげなく左腕を腰のところに当てて、アリシアに「腕を絡ませてもいいんだぜ」と僕なりにアピールしたが気づいてはもらえなかったようだな。ぐすん。
とりあえず悲しんでいても意味がないので、僕は珍しく行動を起こす。
日本であればスマホで地図検索すれば問題はないのだろうが、当然電気すらないこの世界にはそんなオーバーテクノロジーは存在しないのでもっぱら人力に頼るしかない。
さっきの店で聞けばよかったのだが、自信満々にアリシアを引っ張る形で歩き出し、すでに相当な距離を遠ざかってしまったので、引き返すのはちと格好悪いのだ。
で、あれば道行く人に聞ける程度の平均的コミュ能力があればいいのだろうが、どうも街ゆく人たちは怒ったような顔で歩いているので、ちと気が引ける。
「こ、ここかな」
とりあえずは、こういった場合は。
そうだ、うん。公的機関だ。
僕は通りをぽくぽく歩いて、もっとも目についた大きな建物に目標を定めた。
アリシアは特になにもいわず、うしろをついてくる。
男には従順で逆らわない主義なのだろうか。
いや、この封建的世界観がそうさせるのであろう。
もっとも、母のビルギットは父のイングゥエイを相当にやり込めているのを日常的に見ているから、判断は早々に下せないが。
建物は、やや古かったが大きく丈夫そうな赤いレンガで組まれている。今日歩いてきた街のなかでもっとも立派に見えた。
入り口には皮鎧で武装した番兵が落ち窪んだ眼でこちらの一挙手一投足をジッと凝視している。
が、身なりで問題ないと判断されたのか、特に制止されることなくなかには入って行けた。
「ナイト、ここはどこかしら?」
「う、うん。僕もよくわかんないんだけど、ここ立派そうだから。道を聞こうと思って」
この街で一番立派な造りをしているからには、市役所かなにかの類に違いないと。
大扉を開けてなかに入ると、思った以上に広々とした空間が横たわっていた。
玄関から入ってすぐの右手に受付らしき場所があるのは特に問題ない。
最初に目についたのは、テーブルだの椅子だのにまとわりつくようにしてうろうろしている、大勢の男たちだった。
入った瞬間に壮年の男たちが放つ汗の混じったような臭いが漂ってくる。
同時に、彼らが身に着けている、甲冑や剣がかすかに触れ合って鳴る金属音がやけに耳についた。
いかにも荒事を好みそうな剣呑な目をした野獣たちは、場違いな格好をした僕らを見ると目の色を変えた。
これほどあからさまな視線なら馬鹿でも気づく。彼らは、僕ではなく背後に立つアリシアを興味深そうに眺めているのだ。
出よう。ここは僕が考えていた公的機関なんかじゃない。建物の見かけと中身のあんまりな違いにカウンターを喰らったみたく、途端に膝がよろけ出した。
「行こう。ここじゃないみたいだ」
「おおっと! とーせんぼ、とぉせんぼおっ!」
「うひひ。ツレねぇじゃなねぇか。お坊ちゃん嬢ちゃん」
「入ってすぐさま回れ右なんてつめてぇとは思わねーのか?」
「悪いことはいわねぇ。ゆっくりしていきなよ。やい。もてなすぜェ……おう」
「そうそう。悪いことはいわねぇ。客人をもてなす作法はみな心得てやがんだよぅ」
途端にバラバラっと走り出してきた男たちに四方を囲まれた。
万事休すだ! 間違いない。こいつらは、超絶にかわいいアリシアを狙っている。
背中の外套を握っているアリシアの力がギュッと強まった。怖いんだ。そうさ、こんな物騒な顔つきの野卑な男たちに囲まれれば怖いに決まってる。
だいたい、ちょっと見ただけでも人の五、六人は殺してそうな顔をしている男たちが目を血走らせて鼻息を荒くしているのだ。
「へへへ。デケェ兄ちゃんだ。この身体じゃ、よく食うだろう。オッ?」
なめした皮鎧を素肌に着込んだ大男が僕の肩に手をかけた。野球グローブのようにぶ厚くて、指の一本一本が肉厚だ。
大男は右目にアイパッチをしており、野盗の風格としてはこの上もなく問題ない。できあいのアニメや漫画の導入部ではただの一撃でのされそうな風貌だが、実際そばで見てみると肌で感じ取った威圧感は野生の獣を前にしたように強烈だ。
動物園で巨大な虎や熊を鉄格子越しに眺めるとはまったく趣が違っている。生物としての格が違う。ちょっと漏らしそうになりながら、背後にいるアリシアに目を向けた。
――さぞや怖がっているだろうな、と思いきや、アリシアはむしろ平然としていた。
なんでッ。なんで平気なのアリシアたん、僕、おしっこちびっちゃいそうなのにっ。
「こーら、あんたたちっ!」
「あいたっ」
「どわっ」
「ずおっ」
僕が血路を開くのも辞さない覚悟で身をキュッと固くしていると、明るい女の声とともに、男たちの頭をひっぱたく軽い音が聞こえた。
「訪問者の方を怖がらせちゃダメだっていつもいってるでしょうっ。いったい、なんべんおなじことをいわせれば気がすむのかな、あんたたちはっ」
明るい茶の髪をした活発そうな若い女性が台帳を片手に吠えていた。やばいこれ絶対男たちに「んほおおっ」されるだろうよ!
思わず両眼を見開くが男たちはデカい図体を丸めると、女のような声を漏らし咄嗟に頭をぶっとい腕でカバーし出した。なんぞこれ。
「酷いよメリベルさんっ」
「ちょっ、そんな。俺たちはただ、この子たちをもてなそうとっ」
「悪気なんてまったくないのに、なんでぶつんだよっ」
「おれたち悪いことしてないのにぃいいいっ」
「あのね! あんたたちは、ただでさえ悪人ヅラなのっ。いつも、訪問者がきたらあたしにすぐ報告するようにっていっているのに、なーんでそんな簡単な用事もこなせないのかなっ。頼むから、それくらいできるようになってよ! 多くは望んでないからっ。三歳児並みの判断能力でいいからっ」
「しょ、しょんなああああっ。ボキたちはただ、地域住民との融和政策を図ろうと――」
髭面の男が唇を尖らせてメリベルと呼ばれた小柄な女性を涙ながらに見やった。
「じゃかましいっ! 誰が発言していいっていった! あたしがいいっていうまで喋るの禁止ッ!」
「あいだぁ!」
メリベルは台帳をフルスイングすると大男の顔面を的確に捉えて壁際まで吹っ飛ばした。
だあんっ
と。轟音を立ててテーブルをひっくり返して仰向けに倒れると白目を剥いた。
「ふんっ。玉なし野郎がッ。ギルドマスターのあたしに意見するなんざ百年早いってのっ」
メリベルは僕が引きつった顔で立ちすくんでいるのに気づくと、台帳をさっと背中に隠して口元に手を当て、ほほほと笑い声を上げた。確かに見たぞ。あなたが手にした台帳が真っ赤な血で濡れているのを。
「えっと。王都直轄冒険者ギルドへようこそ。あたしは受付件ギルドマスターも兼任しております、メリベル・ブランドンです。本日はどのようなご用件でしょうか?」
「みみみ、みみみ……」
だ、ダメだ。この人若くてけっこうかわいい。
混乱から立ち直った僕にしてみれば、若くてかわいらしい女性はもっとも鬼門なのだ。
これが、シワシワの性というものを超越してそうな爺さん婆さんや、まだ自我が形成されていない幼児なとかならともかく、コミュ不全の僕には難易度の高い交渉相手だぜ。
「はい。お兄さん、一旦落ち着こう」
メリベルはパッと両手を開くと口をOの字にしてそんなことをいった。
「あ――う」
「大きく息を吸ってー、そんで吐くー。はーい、じゃ繰り返してー」
いわれるがままに、吸ったり吐いたりを繰り返していると、徐々に心臓の動悸が収まってゆく、ような気がする。
全身の発汗がゆるやかになっていき、どうにかこうにか話ができそうな雰囲気だ。
「そんなに焦らなくていいですから。まず、口を開く前に、頭のなかを整理してくださいね。誰でも、焦った状態では、上手く人に物事を伝えられませんから」
どうしようもなく高ぶっていた気持ちが落ち着いてゆく。
メリベルの瞳は赤いルビーのように濃いきらめきを帯びて真っ直ぐ覗き込んでくる。
僕は人と目を合わせるのがたまらなく苦手なのだが、不思議と胸のなかはざわつかない。
「道を、お尋ねしたいのですが」
どもることなく、ハッキリ伝えられたことに自分自身で驚いていた。
「そう。ただ道を聞きに来ただけだっていうのに、うちの者が失礼しました」
ギルドマスターと名乗るメリベル女史は、ルフェ家の存在する貴族街までの道を懇切丁寧な地図まで添えて親切に教えてくれた。
「冒険者ギルド自体、創設されたばかりで世間さまに認知もされておらず。おまけに、雇い入れた冒険者たちは礼儀なんて生まれてはじめて聞くような連中ばかりなので。こうやってことあるごとに教育を行っているのですが、そう簡単に身につくはずもなく。お恥ずかしい限りでございまして」
彼女がいうには、官費を投じて作られた冒険者ギルドは未だ実験的な域を出ず、これから徐々に広まっていくだろうといわれている国家プロジェクトのひとつらしい。
なるほど。だから建物は公共施設と見紛うほどに立派だったわけね……。
冒険者ギルドとは、地方の害獣討伐、叛徒の鎮圧、大陸に未だ多く残った遺跡や地下迷宮の調査に力を発揮するべくため作られたものとのことだ。
「冒険者自体は昔からいたのですが、よくて墓荒らしや遺跡の盗掘が関の山。今後は、国家が主導して価値のある史跡や太古の遺物を収拾・保存する価値ある団体に育て上げていきたいと、思っているのです」
門外漢の僕ではあるがメリベルの話を聞いているうちに、ゲームのなかでしか聞かない謎の職業でしかなかったそれが、次第に輪郭を帯びてハッキリとした形になっていく。
ま、どっちにしろただ立ち寄っただけで僕の人生には関係ないんだけどね。
「と、そんな具合で公共の福祉に準ずるあたしたちの声を、できますればご家族の方々にもお伝えいただければ幸いでございます、ルフェ家の若さま」
メリベルはそこまでいうと、やけにチャーミングなウインクを決めてパンフレットのようなものを手渡してきた。抜け目がないというか。目敏いね。
どうにかこうにか屋敷に着いたのは日暮れ前だった。
「ナイトちゃんっ。どこ行ってたのっ、ママ心配したんだからーっ!」
「ふんぐっ」
帰宅するなりビルギットの熱烈なハグで地上に押し倒された。
門前の中庭には、ずらりと並んだ騎馬と武装したルフェ家の郎党たちが今すぐにも飛び出そうと待ちかまえていた。
しかし、一応は護衛の騎士たちがいたはずなのに、あっさり見失われるとは僕ってそんなに存在感ないのかね。
あとでノエルに事情を聞くと、どうやら買い物の途中でビルギットにいい寄ったならず者たちと護衛は格闘となって、かなり大きな負傷をしたせいらしい。
都会ってやっぱ怖いな。
「あ、あ、あの。離れてくださいませんか……」
「やだっ」
夕食の最中、ビルギットは僕にくっついてかたときも離れようとはしなかった。
ずっといっしょにいたノエルによれば、僕とアリシアが迷子になったあと、彼女はかなり恐慌状態に陥ったらしい。
たぶん、十年前の水難事故が頭をよぎったのだろう。
ある程度、離れて見守っていたスタンスとは打って変わって、駄々を捏ねる子供のような癇癪の起こし方だった。
とてもではないが、名誉ある貴族家夫人の態度ではない。
今もこうやって食卓の席で僕の膝に座りながら首に両手を回している。これには、冷静を旨としているアリシアちゃんもひたすら困惑気味だ。
僕が百九十を超える大男だからなんとかなっている形ではあるが、父のイングゥエイもさすがに困り顔で仕切りに「なんとかしてくれ」のサインを送っている。
「ビルギット。さすがにそれではナイトくんも落ち着いて食事をとれないだろう?」
「そんなことないもんねー。ナイトちゃんはいつでもママといっしょだもんねぇ。はい、あーん。お口あけまちょうねぇー」
ビルギットは僕に抱きかかえられた格好で夕食のスープを手ずから僕の口に運ぼうと、ふざけた赤ちゃん言葉で語りかけながら差し出してくる。
はじめは、彼女なりの冗談なんだろう。そうであって欲しいと願い続けていたのだが、どうもマジらしい。
そのあとも。
「ナイトちゃん、ママとお着換えしましょうねー」
とか。
「ナイトちゃん、ママがお風呂に入れたげますからねー」
とか。
「ナイトちゃん、ママといっちょにねんねちまちょうねー」
などの、壊れっぷりを見せつけてくれた。
僕はなんどかアリシアに助けを求め、これはさすがに……と思ったのか何度か助け舟を出しくれたのだが、その返答は散々だった。
「なによっ。アリシアちゃんっ。わたしからナイトちゃんを取り上げる気なのっ!」
と敵意を剥き出しにしてがるるっとばかりに牙を見せる始末だ。
こりゃどうにもならんと思っていたうちはまだよかった。
案の定、就寝直前、ビルギットが新婚夫婦の寝間に枕を持って飛び込んできたことを合図に、両親の凄まじい夫婦喧嘩は勃発した。
「ちょっと、これ。まずくない?」
アリシアがベッドの上でぺたんと女の子座りをしながら訊ねてくる。
寝巻からちらりと見える健康的な膝頭が魅力的だ。
確かに、ふたりの大喧嘩は扉を閉めているにもかかわらず、なかまで聞こえてくるほど凄かった。つか、人の寝室の前でやらんで欲しいよ。
その戦いは天地を揺るがす……ほどではないにしろ、これほど凶悪的な音を響かせるビルギットの声量は半端ないものだ。
「と、止めたほうがいいのかな……?」
アリシアは、はあっとため息を吐くと無言で顔の前に両手でバッテンを作った。
ですよね。できるわけないというのですね。そうです。
あれほど仲よさそうに見えた夫婦でも、ちょっとしたことで親の仇のように罵り合う――いや、一方的にビルギットがイングウェイを糾弾しているようにしか思えないが、そのへんは、うん。気にしないでおこう。
「ナイトちゃんッ!」
「はいいっ」
だあんっ。とデカい音を立て扉が大きく開かれた。アリシアは小ウサギのように跳ねあがって僕の背中に飛びついて来る。ふわりを石鹸のいい香りがした。
「もう、こんな酷いパパにはついていけないわっ。悲しいけどママといっしょに親子ふたりで仲よく生きてきましょうっ!」
涙で眼の縁と鼻の頭を真っ赤にしたビルギットが足元に転がっているイングウェイだったものを指差し、そう宣言した。
僕は助けを求めて腕を伸ばしてきたイングウェイに深く同情した。
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