第4話「掟破りのシンデレラ」
僕は高等遊民だ。つまるところ、働かなくても食っていけるという稀有な存在。
「つまりはなまけもの、ということね」
アリシアは腰に手を当てたまま、ふーっと長く息を吐いた。
愛妻(予定)であるはずのアリシアにはまったくわかってもらえなかった。
彼女は、草深い山奥の文化根づくことない大自然にある村々出身の美少女なので、いい年をした大人が日がな一日じゅうブラブラしてもおご飯をたんと食えることが上手く想像できなかったらしい。
「冗談でしょう、ナイト。お義父さまは朝早くお出かけになられたじゃないの」
父であるイングゥエイは、朝食が終わったのち、たいしたイベントがあるわけでもないのに、甲冑を着込んで屋敷にいた家の子郎党を引き連れ、意気揚々と青盾騎士団の屯所に出勤していった。
「ママ、ナイトくん。パパは立派に勤めを果たしてくるからね」
イングゥエイとしては、十年ぶりに家族そろっての見送りはよほど胸にジンとくるものがあったのだろう。目頭を熱くして涙を潤ませていた。無理もない。
家臣からも、
「生きていうるちに若さまに見送られるとは、夢にも思わなんだ」
「これでルフェ家も安泰だ」
などと感極まった口調で口々に感動の声が漏らされていた。
いくさというわけでもないのに、数十人の騎士が隊列を組んで歩き出すのは、王都ではさすがに珍しいらしい。
付近の住民が屋敷の塀の向こうまでひしめき合って、なにごとかとなかを窺っているのがわかった。
「パパ。今日のお夕食はビーフシチュウだから寄り道しちゃダメよ」
ビルギットママのピントがはずれた言葉もご愛敬だ。
実際、今朝のイングゥエイの姿は身内びいきを差し引いても、かなりインパクトがあって惚れ惚れするようなものだった。
特に、アリシアはイングゥエイの野郎を、実に清廉潔白で雄々しく、民衆の守り手として崇めるに足る人物だと勘違いしているが、その実は違うのだ。
だいたいが、青盾騎士団自体が、魔術のヘッタクソなイングゥエイの就職先のため、祖父である王宮魔道士のメルキオールが強権を発動して作らせたお手盛り騎士団なのだ。
人員は、五百と常駐させておくだけで、国家の癌といえるほどの金食い虫なのは、火を見るよりも明らかである。
ノエルの話によれば、やたらと市内を巡察しているのでそれなりに王都の治安には役立っているらしいが、彼らの給料はメルキオール爺さんが支払っている。
したがって、普通に考えてイングゥエイは親父に小遣いを貰って騎士ごっこをしているようにしか思えない。
これらは昨日会ったメルキオールが、雑談の合間に愚痴っていた。
あの爺さんは実のところ、かなり息子を甘やかしていると思われる。
馬鹿な子ほどかわいいっていうしね。
「で、これからどこに行こうというのかしら」
「今日も天気がいいから、たまには本の虫干しでもしようかな、と」
「あら、そこってあなたが十年も巣くっていたという穴倉のことね」
屋敷のなかの長い廊下を歩く。時折、メイドたちが僕たちの姿を見かけると澄ました声であいさつをするが、どうも見知らぬ人間とは言葉をかわすのが難しいので、自然と黙って首を小さく振るだけになってしまう。
アリシアは如才なくメイドたちに声をかけつつ、人気がなくなると、隣に回ってちょいちょいとマントを裾を引いてきた。
「ねえ、ナイト。あなたってそうやって鷹揚にしていると、凄く威厳があるように見えるわ」
わかっているくせに。
僕が超シャイだってことにな。
意識せずとも不機嫌な顔になったのか、それを見たアリシアがくすくす笑いを漏らした。
「な、なんだよ」
「だってあなた。すっごくわかりやすいんですもの。まるで、子供みたいね」
目を細めてにこにこする彼女の顔は廊下の窓から差し込む陽光に踊って、まるで天使のように僕の目には映った。
不意に呼吸が苦しくなる。
そのうち僕死ぬんじゃね?
主な死因。アリシアがかわいすぎる。
「どうしたのよ。私の顔になにかついてるかしら」
「い、いや別に。そら、もうすぐ僕の部屋だぞ」
「ねえ、ナイト」
「な、なにかな」
「あなたの部屋なら、たぶん反対方向だと思うのだけど」
アリシアは立ち止まって廊下の反対側を指差していた。
それは余所行きの作った顔ではなく、十五歳である年相応のあどけないものだ。
からかうような仕草で、アリシアは人差し指を宙に踊らせ、今にも口笛を吹きそうだった。
わかってたら先にいってよ。
僕は伊達に十年もひきこもってないから自分ちといえど不案内なんだよね。
「呆れた。あなた、自分の屋敷で迷子になるくらいなら、私の実家にある森にはとうてい連れていけそうにもないわ」
「僕は自然豊かな森とか山に入ったら、三秒で迷う自信があるぞ」
「そんなこと自信持たないの。まったく――」
なんだかものすごく自然に会話ができている気がする。おかしい。これは異常事態だ。
アリシアは僕の返しがよっぽどツボに入ったのか上機嫌で歩いていたが、突如としてなにかを思い出したかのように顔を歪めた。
「これは勘違いして欲しくないのだけれど、私はあなたと馴れ合う気もないし、そういう仲になるつもりもないの。まったく――貴族の殿方は、女の扱いに長けていらっしゃるのね」
そうね。君はそういうスタンスをとらざるを得ないのかい。
アリシアは、急に僕の後方へ移動すると「あぶないあぶない」と呟きながら距離を取りはじめた。
ひとつ間違っているのは、僕は女の扱いに長けているどころか、肉親とメイドのノエル以外でこれほど会話を続けたのはアリシアがはじめてなのだ。
僕の工房は入り口の扉が完膚なきまでに破壊されている以外、別段これといって問題はなさそうだった。
「なにか、めっためたね」
アリシアが物憂そうな顔で蝶番だけの残った扉枠を指先でなぞる。
はい。めっためたに叩き壊したのは祖父のメルキオールです。許すまじ。
だが、彼は僕にアリシアを引き合わせてくれたので功罪半ばといったところだ。
奇跡の黒髪キューティクルであらせられる(意味不明)アリシアちゃんは、昨日のどたばたでよく見ることのできなかった、僕の工房を興味深そうに見回していた。
「そんな期待してもたいしたものは置いてないよ」
「ちょっと。人聞きの悪いこといわないでちょうだい。そんなには、不作法に見てないわ」
シラッとした目をすると、アリシアは袖口をいじりながらもぞもぞし出した。
「だって、しょうがないでしょう。私、男の方の部屋に入ったのは……これがはじめてなのだから」
はい、アリシアのはじめていただきましたー。
やったぜ、僕がおまえのはじめての男だ!
「そ、そう? 普通だよ、別に。ふつー」
そんなことはおくびにも出さず、平坦な口調で返す。
なんか、こういうちょっとしたことがうれしいのだ。
「好きに見て回っていいよ。どうせ、たいしたもんないから」
「そんな、恥じらいのない真似できるわけないじゃない。家探しするみたいで」
こういう発言がさらりと出るとことは、やはりしつけの行き届いた娘さんだといえる。
そして、そんな娘さんの心をゲットしていったまだ見ぬ恋敵のクライドとかいうやつに嫉妬の炎がメラメラと燃え立っていく。ホントに、手ェ出してないだろーね。
アリシアは興味ないとかいっているわりには、やはり好奇心を抑えられないのだろうか、部屋のあちこちをコマネズミのようにちょこまかしながら、雑多なガラクタに意識を奪われていく。
「これは、なにかしら――。たぬきの、お人形」
アリシアは部屋の隅にころがっていた陶製の置物を指先でつんつんとつついている。
「ああ。それは浮遊実験に使っていたやつだよ」
「浮遊実験?」
風属性の魔術にハマりはじめたころ、手近なものを浮かばせるのに気の利いた重みのあるものがなくなって、自作した狸の置物だった。
ほら、ヒョウタン徳利を持って陰嚢をぶらぶらさせてる日本で伝統的なアレだ。
例の、囚人窓からノエルに粘土のブロックを差し入れてもらって、形をこねこねして、奥のカマドで焼いた。
色づけはする必要性はなかったんだけど、わりと凝り性なものでできる限りオリジナルに近づけたと自負している。
なかはがらんどうで、銅貨を置物の背中につけた口から詰めてあるので相当に重い。
アリシアは両手で置物を持って、ぐっと力を込めるがとんでもない質量に気づいたのかすぐにあきらめた。
「私、力には自信があるのだけど、これは人間技ではとうてい無理そうね。ね、ナイト。本当に、これって浮かせられるのかしら? 聞いたところによると、風属性の魔術は、だいたい自分の身体と同じくらいの重さしか持ち上げられないって聞いているけど」
そう。僕は百九十の慎重にしては痩せ形で八十キロ程度しかないが、この置物は二百キロを超えている。
「お疑いなら。はい――」
「え!」
指先をちょちょいと動かして、風を空間に発生させた。
小さな雲のような蒸気は部屋の床をするするとすべって、置物の設置面に溜まると、軽々と一メートルほど浮遊させて見せた。
「わ、すごい」
どんなもんだい。狸の置物は横倒しになったまま、ふわふわと工房のなかを浮遊し、やがて元の場所に直立する。
簡単に操作しているように見えるが、ものを動かすというのはパワーではなく繊細さが必要とされるのだ。僕はわりかしすぐできたが。
「ナイトは、水魔術だけではなく、風魔術も使えるのね」
アリシアはほうと息を吐きながら、ほんの少しだけ憧憬の光を帯びた視線を僕に向けた――ような気がする。だったらいいなって話。
彼女のが驚いたのは理由がある。なぜならば、普通の人間はひとつの属性の魔術しか使用できないと相場は決まっているからだ。
こんなファンタジー理論が支配する世界だから、さぞかし誰しもが日常的に魔術を使っていると思いきや、実はそんなことはない。
魔術を使えるのは、ほんのひとにぎりの適性を持つ人間だけに限られているのだ。
魔術の属性は基本的によっつ。
風精霊ヴァ―ユ、水精霊パルジャニヤ、土精霊ノーム、火精霊アグニ。
これらの精霊に働きかけ、術を行使するのが世界のスタンダードである。
この四種とプラスして無属性という例外的な特性に祝福された者だけが魔術を行使できるのだ。
「アリシアはなんの特性を持っているんだ?」
「私は水属性よ」
「そうか――」
「別に、ひとつだっていいじゃない。ふたつも使えるあなたが異形なのよ」
実のところ、僕の使える属性魔術は水と風だけじゃない。
そう、実はすべてだ。
すべての特性が僕にはある。
これは代々王宮魔道士を務めているルフェ家にしか現れない異形体質であり、祖父のメルキオールがやたらと僕に目をかけている理由でもあった。
天才といわれているメルキオールでさえ、極めているのは火属性のみである。
もっとも、僕は死ぬまでひきこもっているつもりだったし、研究していたのは純粋的に好奇心からだったので、この先物騒なことに使うことはない――と思いたい。
それよりも虫干しだ。
「わあっ……」
隣室の書庫に入ったアリシアが驚きの声を上げた。そらそうだ。暇に任せて十年間読みまくったタワーがそこにあった。
「これ、ふたりで運び出すのは無理じゃないかしら」
青い顔でいった。
「いや、全部を出す必要はない。価値の高いものだけで充分だ」
僕は時間をかけて、五十冊ほど資料価値の高い魔術書を選び出すと、ベッドのある寝室に移動させた。ここには、巨大な明り取りがあるので、わざわざ外に出る必要性がない。
アリシアは性格的な問題か、僕がばらっと適当に置いた本を、規則正しく並べ直し出す。
日があたれば充分役目を果たしているのになぁ。
「そろっていないと、気になるのよ」
僕はそういう細かい作業はやる気もしないから、脚をぐっと伸ばして天井を見上げた。
なんだか、扉が壊れる前とたいして変わらず、この部屋に平穏な時間が流れている。
青い空を流れる雲を延々と眺めていると、不意に顔の前が陰った。
「ね、ねえ。そろそろ昼食の時間よ。ほら、あなたのお気に入りのメイドが」
アリシアが慌てたように髪を手ぐしで整えながら視線を動かす。
む。いつの間にか、そんな時間に。
ときの移ろうことは光のごとし。
僕は、まとわりついてくるビルギットに耐えながらも、なんとか昼食を取り終えると、再び工房に戻った。
アリシアと協力して本を片づけると、すぐにやることはなくなってしまう。
こういった状況で僕に場を繋ぐよう要求することのほうが悪いのであるが、ふたり工房のベッドに座ったままとりとめのない話をした。
なにしろアリシアにとって屋敷のなかで親しく話せるのは僕くらいしかいないのだ。
貴重な聞き役ってやつだな! あるいは壁くらいに思われてないのかも。
アリシアはルフェ家の領地にあるコロズムという小さな村に生まれた。
貴族で村長といっても百姓に毛が生えたような規模とのこと。
彼女の父母も、取り立てて美女ではなかったが、生まれた子はすべて容姿に恵まれていた。
実際、領主であるメルキオール卿が総ざらいして集めた五千人の美女のなかには、アリシアの姉と妹も候補に挙げられていたんだ。
そんな最中、ある噂が領地に立った。
――どうも、この女狩りは領主の嫡孫であるナイト・M・ルフェの嫁探しらしい。
噂は、直接代官に聞き込んだ男によって確信に変わる。
そして付近、数百カ村の住民たちが狂喜したのはいうまでもないことだね。
五千人の候補として挙がった娘の家は、みな一族総出バックアップにかかった。
肌によい薬草が生えていると聞けば、娘の父親は鳥も通わぬ山塊に分け入って命を賭してそれを採取し、また、目が美しく澄む清水を商っている商人がいると聞けば、親族は大金を投じてそれを購入し、少しでも娘の見栄えをよくしようと努力した。
たとえ、そのために費えが家計を圧迫しようと、ルフェ家の嫁に選ばれればすべてがチャラとなる。
欲望ってのは恐ろしい限りだね。
現に、アリシアの出身であるコロズム村は、向こう二百年間、ルフェ家が続く限りあらゆる税を免除されることとなり、これを恨んだ隣村の騎士と戦争になりかけた。そう呟くアリシアの目には深い悲しみと憂慮が色濃く滲んでいた。
「私の家はですって? そうね。祖父母と両親、それに兄妹もよろこんでくれたけど、実感はなかったわ。だって、私は、本当に普通の村娘だったもの」
――よろこべ、ザハリアーシュ・デュ・コロワ。貴殿の娘、アリシアは閣下のお眼に止まり、恐れ多くもナイトさまの奥方として迎え入れられることとなった。
アリシアがいうには、決定の使者が家にやってきたときですら、それを現実として受けとめられなかったらしい。
「私、貴族のお嫁さんだなんて。よくわからなかった。それに、たいていこういう場合って、妻として迎え入れられるといっても、ほとんどが妾奉公の類でしょう。両親も、その可能性を充分承知した上でのよろこびようよ。でも、ナイトの歳が私とそれほど変わらないっていうのはあらかじめ聞いていたから、まだ少しは受け入れられたのかもしれない」
「実際に会ってみて、どうだった?」
「うん。でも、私、その前にクライドと会っていたから」
「そ、そうか」
アリシアは話がクライドのこととなると饒舌さを失ってしまう。そうなると、話すのは彼女の姉や妹、元気な弟たちの話に移った。
彼女はしっとりとした口調で、遠い昔を思い返すように家族のことを語った。
僕は、それを聞きながら、機械のように相槌を打つばかりである。
彼女のしあわせを思えば、男らしく父母に談判して里に帰すのが手なんだろうけども。
あいにくと、僕は潔くもなければ属性的には自分さえよければいい小悪党なんだよなぁ。
とりあえず己の良心を保護するために、思考のスイッチを切った。
時間が、時間が解決してくれるだろう。なんか、そんなふうな気がしないでもないんだ。
昔の人はいいました。ディス・イズ・ザ・他力本願。
さて、今日もとっぷりと日が暮れました。
淡々と夕食をとり、湯あみをして身体をキレイキレイしたあとは、寝るしか! ない!
「あー、今日も一日疲れたなぁ。ねねね、寝ないと。寝ないと、明日起きられない」
「ねぇ、ナイト。ちょっと」
「ああ、眠い眠い。おやすみアリシア。ぐう、ばたん」
僕はすごくわざとらしい独り言を連発すると、自分でも驚くべきほどの大胆不敵さでベッドのなかに潜り込んだ。
背後では、今日もセクシーなベビードールに着替えたアリシアが困惑している。
無理もない。彼女はなんとかして僕と床を分けたいみたいだったが、そんなもん真面目に聞く気はないもんね。
にしても、僕も成長したな。これだけ他人の意思を無視して己の欲望に忠実かつ真っ直ぐに向き合えるなんて!
ふわふわこい。カモン、マイワイフ。
とある書物によると、女性とは過ごした時間の長さで相手に親近感を覚えるらしい。
こうしてなし崩しに既成事実を積み上げていけば、いずれ花咲く日もくる、かも。
まったく、女を落とすってのは国をいちから作り上げるくらいの労力を必要とするくらい難儀な問題だな。
もっとも、そのため幾多の英雄が貴い血と汗を流してきたのであるが。
「もう――ばか」
彼女はいい加減観念したのか、手明かりのランプを消すと、もぞもぞと毛布のなかに潜り込んできた。
ど、どうしよう。自分で仕掛けておいてあれだが、なんかすっごくドキドキする。
「あの、ナイト。黙っていられると怖いのだけれど」
「へ。あ、ああ。なんか喋ったほうがいいかな?」
「……そんなに私とおねんねしたかったのかしら」
「ああっ。君と寝たいねっ」
アリシアが毛布のなかで、取れたての魚のように「びくんっ」と跳ねたのがわかった。
ば、馬鹿野郎。彼女は彼女なりに張りつめた気をほぐそうと冗談をいってくれたのに、よりによってここでその返しを口にしてしまうとはー!
「すまない失言だった。って、おい! そんなに端のほうに行くと落っこっちゃうって!」
「ごめんなさい。身の危険を感じたので、つい」
それをいうなら同衾している時点で、あらゆる人間に申し開きはできないと思うのだが。
「ねえ、眠れないのだけれど」
「そう、気が合うな。僕もだ」
「白々しい。あなたは、そのとても女性の扱いに慣れているのでしょう。今だって、私にひとこともものをいわせず、こうして、その……。閨をともにしているでしょう」
「ぜんぜん、そんなことはない。君は勘違いしている。そもそも僕の女性の知り合いは限定されているんだ」
主に母とメイドしかない。プラスアルファでアリシアちゃんもいるぞ。
「平気な顔しちゃって。忌々しい。そのね。たぶん、大丈夫だろうけど――」
「なんだよ」
「えっちなこと、しないでね」
耳元でささやかれた日には。
ずっぎゅーんときたね。
あのなぁあのなぁあのなぁ!
おまえ、絶対わかってやってるだろうっ。
これはもう、無理やりこの場で襲っても神すら「仕方ないにゃあ」と許すレベルの暴挙。
胸のなかで、僕の眠れる獅子が「わおんわおん」と雄叫びを上げている。
勇ましいったらありゃしないッ。
――どれほど、思い悩んでいたのだろうか。気づけば僕はじっとり湿った拳をギュッと握り込んでいた。
息が荒い。心臓が今までになく、バクバクと早鐘を打っている。
お、男になるのだ。この際、細かいことはぜんぶ置いておいて。
「あ、アリシアッ」
自分なりに勇気を出したつもりだった。
見れば、アリシアは横向きのまま健やかな寝息をくうくうと立てていた。
「は――」
腰砕けだった。
がばと跳ね起きて目にしたものは、自分を信頼しきって眠りこける無垢なひとりの少女でしかなかった。
ずるいって。こんなの反則じゃん。
「ナイトくーん。おーはようっ! パパ、九時間ぶりに会えて本当にうれしいよっ」
「あ、ああ。おはよう」
イングゥエイのクソ野郎が馴れ馴れしくも抱きついてくる。早朝訓練のあとだろうか、ぴっちりとしたシャツが汗で濡れ濡れで甚だ不快だったが、跳ね除ける気力も湧いてこない。
よってなすがままにさせた。酷使しため、ビルドアップされた大胸筋がギリギリ締めつけてくる。別に、男色に転向したのではない。己の不甲斐なさを裁いて――やめよう自虐は。
「どうしたんだい、ナイトくん。なにか悲しいことがあったのかな?」
「パパー。そんな汗まみれの身体でナイトちゃんを抱っこしないでよっ嫌々してるじゃないのっ。もおおっ」
「いづっ! ママ、その技、マジで痛いっての!」
僕がぼやぼやしていると、ビルギットがイングゥエイの脇腹に強烈な肘を入れて遠ざけてくれた。
「んーん。ナイトちゃん、いい子でちゅねー」
代わって僕の顔はビルギット自慢の豊かなばいんばいんに包まれ、なんとなく違うものに目覚めそうになる。ああ、刻が見えるよ……じゃなくて!
あ。アリシアが酷くいけないものを見たかのように顔を背けている。
ダメダメだ。こんなことじゃ、彼女と先に進むことはできない。
というか、そもそも僕はこの先どうやって生きて行けばいいのだろうか。
非常に悩むな。
「お出かけしましょうっ」
朝食の席でふさぎ込んでいる僕を気遣ったのか、ビルギットがエルフ耳をぴこぴこさせながら、宣言した。
び、びっくりした。だって、そんな予兆を感ずる暇もなかったのだぜ。こちらとしては。
今日も変わらず壁際の花になっていたメイド軍たちは、ビルギット夫人の突如とした提案に、毛ほどの反応も見せず――いや、よく見るとショートカット銀髪娘はひとり、悠々と船を漕いでいる。
働きアリのなかにも怠け者がいるがごとくといったところか。顔を覚えておこう。対人恐怖症が克服した暁には、僕のポークビッツでお仕置きすることもあるやもしれんしな。
「お
ううっ。僕とふたりきりが気詰まりだったのか、アリシアが目を若干輝かせて義母の思いつきに食いついてきた。
酷いよ。今日もイベントをこなして好感度を上げようと思ってたのに。
「もうっ。そんな顔しないの。これはナイトちゃんのためでもあるんですからねー」
僕のためって、どゆこと?
あと、ちなみに話の合間に合間に僕の頭を撫でないでください。気が散る。
「アリシアちゃんも聞いてね。ママの大切なナイトちゃんが勇気を出して部屋から出てきたことは、とっても、とーってもうれし恥ずかしいできごとでした」
そういってビルギットは目を伏せ、胸元にそっと手を置く。
その様子は一幅の名画のようにさまになっているが、いちいち語句の選択がおかしい。てか、僕は恥ずかしい存在なんだ。
「そして、今、思い立ちました。これは神の啓示なのです。今日こそ、ナイトちゃんを社会復帰させるため、お外デビューを十年ぶりに行おうと……」
いや、今考えついたっていって、神の啓示ってなによ?
いちいち神さま絡めれば格好つくとでも思ってんのかね、この女!
「お
アリシアちゃんも変に同調しなくていいからっ。
「て、いうのは建前で、三人でいっしょに仲よく
街をお散歩しましょうよ。それに、アリシアちゃんはもう、わたしの娘だからね。わたし、自分の娘と街をそぞろ歩きして、いろいろお話したりお買い物したりするの夢だったのー」
「いい、ですね」
マジか。
こういう場合、男の意見というものは封殺されるに決まっている。
ハッキリいって、外を歩くなどという行為は、怖くてたまらないのだ。
そう、ここは現代日本のルールなど通用しない魅惑のF世界。
どのような理不尽的フラグを踏み抜き、どんな詰みイベントが待ち受けているのか、想像することもできないのだ。
「ね、もしかしてナイトちゃんは嫌なのかなぁ。もし、無理そうだったらやめにするけど。ママ、ナイトちゃんのことを世界で一番愛しているから」
それは、自分の夫であるイングゥエイよりもか?
「うん。ナイトちゃん世界一。わたしの赤ちゃんだもん」
僕の顔つきで心理を推し量ったのか、かようにいってのけた。
ナイトさんはもう赤ちゃんではありませんけどねっ。
「ナイトさま」
ふと、視線を隣に傾けると、水色を基調としたドレスを着たアリシアが、媚びるような目で僕を見ていた。仔犬なら「くふーん」と甘ったれた泣き声を上げそうな風情である。
ふ。わかってるじゃないかぁ、アリシアちゃん。僕がその目に逆らえないってことに。
「むむむ、無理じゃない。ででで、出かけよう。ぼぼぼ、僕も街を見てみたい」
「ナイトちゃんっ。そうと決まったらお出かけの準備をしなくちゃっ。さ、アリシアちゃんのはママが見立ててあげるっ。じゃ、レッツゴー!」
ビルギットは舌をぺろっと出しながら片目でウインクすると、アリシアを無理やり立たせ、背中を押しながら食堂を出て行った。
「あは。よかったですねー、ナイトさま。当然、わたしもお供しますから」
ノエルが僕だけに聞こえるようささやくようにいった。
それから、彼女は親指をぐっと立てると片目でウインクして舌をぺろっと出す。
流行ってんの、それ?
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