第3話「昨晩はお楽しみでしたね」
やはり僕に関しての優良物件に瑕疵がないはずがなかった。
ぐう、辛い。
とんでもない事実が発覚したのち、アリシアより先に立ち直ったのは、メンタル豆腐のはずの僕だった。
彼女は、すんすんと子供のように泣きじゃくり、その場に座り込んでしまった。
どうにか手を引っ張って立たせると、ベッドに腰かけさせた。いや、他意はないぞ。
両親が僕らに用意してくれた部屋は、外へ一歩も出ずとも生活ができる環境が整っていた。ここで長時間なにをしろと。後継者問題への悩みが窺える貴族社会の病巣だ。
併設されている台所に移動し、薪をカマドに突っ込んで魔術で火を熾した。
「魔術って、もしかしたらこういうことにしか役立たないんじゃ……」
実際、工房にひきこもっているときには、何気に活用していた。
暑い夏の日を快適に過ごすために。寒い冬の日は暖をとるために。
エアコン要らずってやつだ。魔力の調節も僕は得意だしね。
ピッカピカの薬缶を見つけたのでお湯を沸かし、茶を淹れた。
神経が高ぶったときには甘いものを飲むと効果的……な気がする。
綺麗なミニキッチンを見渡すと、そろいの茶器やら食器やらが光り輝いている。こういうのって、ホントは新婦がするもんなんじゃないのか。ありがたく思えよ、この。
苦労して茶を淹れて戻ると、アリシアはベッドに横倒しになり、くうくうと寝息を立てて丸まっていた。
折角淹れたのに、と思って寝顔を見ると、やはりいくら整っていても十五歳だ。あどけなさが強く残っている。身体はむちむちしていても、これだけ無防備だとさすがに手を出すことはできないだろう。鬼畜なら別だけど。僕が鬼畜じゃなくてよかったね、アリシア。
単純に、疲れていたんだろうな、と思う。
「当然か……」
両親から離れ、故郷――確かルフェ家の領地は、東京と大阪くらい――からの長距離をろくなサスペンションもないクッソ硬いシートでガンゴンとケツを大いに痛めて、ようやく到着したのだろう。
おまけに、恋人と引き離されて、見も知らぬ野郎に大事なものを捧げなくちゃならないなんて、いくら因果を含まされていたとしても酷すぎる。僕じゃ耐えらんないよ。
あ、その前に過剰なストレスで死んでるね、たぶん。
アリシアは会食のときと同じ、白いドレス姿でこんこんと寝入っていた。
ジッと様子を窺うため顔を近づけると、薄っすらと化粧の甘い香りが鼻先に漂った。
僕は誰に遠慮してるんだろうね。
正直にいうと、今日一日で僕はかなりこの子を気に入ってしまった。
人生経験なんて皆無に近いが、アリシアは数千の美女のなかから選定されたことに相応しいキュートさを持っている。
さっきは、勢いに押されてああもいってしまったが、縁談を破棄にするのは難しいだろう。
とはいえ、このまま彼女が過去にわだかまりを持ったまま、無理やりそういった関係になってしまえば、表面上は取り繕っていても将来的に仮面夫婦は待ったなしだ。
そんなのはさけたい。たぶん、そう考えるのは僕のなかに、まだ正常な思考能力が残っている証拠であろう。
そうじゃなく、いくらヘタレでもおっぱいとかおしりとか――この状況で少しは触ってるよ!
でも、現実の女の子は生きているんだ。個人の人格を無視して、もののように扱うのは難しい。
いや、生まれつきの貴族ならば、そんなことはまったく考慮せず、気軽に抱いてしまうのだろうが、魂が安定の庶民派である僕には、ちょっと無理っぽい。てか無理だわ。
添い寝もためらわれる。さあ、どうしようかと椅子に深く腰かけていると、やはり僕も疲れていたのか、眠気がゆっくりと降りてきた。
グレーのマントを掻き寄せると、無意識のうちに船を漕ぎ出した。
「ちょっと」
「……ん、んあ?」
どのくらいうとうとしていたのだろうか。気づけば、目の前にはアリシアが顔を寄せていた。
「んがはっ!」
「きゃっ」
寝起きで状況が掴めなく、椅子からひっくり返った。毛足が、それこそ脛まで埋まりそうな高級絨毯なのが幸いしたのか、頭をぶつけてもそれほど痛くなかった。
「失礼な人ですね。人の顔を見て、そんなふうな声を出す方がありますか」
「す、すすす、すまない。い、いきなりだったもんで」
アリシアはいつの間にか、ドレスから夜着のベビードールに着替えていたのか、薄い黒の上着から、胸の谷間がブラごとちらちらと見えた。
「や、やだ」
「ご、ごごご、ごめんっ」
僕がボリュームのある胸とくっきりできた谷間をガン見していたことに気づいたのか、慌てて飛び退ると両手でもって覆い隠した。
なんというかあまり現実感がないが、甘ったるいような匂いに刺激されて、頭のなかがカッと燃え立つように熱くなった。
どうしよう、ははは、恥ずかしいな。これは。
意識すると途端に声が出なくなった。現実とは思えない。
かつては、「恋人」とか「つき合う」って言葉さえ別次元の遠いものだとぼんやり考えていたのに、目の前に横たわっている事実は「婚姻」という重量感あふれる超ド級のイベントだ。
認識としては、学生のチャラチャラしたおつき合いと、別次元のものだ。
しかし、冷静に考えるとすべて眉唾物だな。ルフェ家は、ロムレス王家のなかでも、五本の指にかかる家格で、僕が少々学院程度をドロップアウトしてぶらぶらしていても、そう簡単に揺らぐものではない。
祖父であるメルキオールは、魔術第一主義の部分があるから、単純にクソの役にも立たない家柄とかそういうものを放棄し、競走馬育成のように質のいい牝馬を選んだとするとその根っこはわからないでもない。
現に、魔術適正値が抜群に低かった父のイングウェイは正式なルフェ家の当主ではない。
今もなお、領地を含め王宮のあらゆる権威をがっちりとらまえているのはメルキオールその人なのだから。
「どうしたんですか。いきなり黙り込んで。まさか、え、えっちなこと考えているのではないでしょうね」
「ち、ちちち、ちがっ。違くてっ。別のことだよっ!」
「それはそれで、頭にくるのですが」
アリシアが唇を尖らせてボソッといった。ちょっと距離が離れていたので、なにをいったのかわからなかったな。
「ん。なにかいった?」
「いいえっ!」
うわっ、吠えたよ。がおって。僕はびくっとして反射的に身体を痙攣させてから胸ポケットから取り出した懐中時計を見た。
眠り入ってしまってからそれほど時間は経過していない。
まだ、夜中の三時であり日が出るまでかなり時間があった。
窓の外には青白い月光が煌々と輝いている。壁際のランプに灯った火がジジジと音を立てた。室内は広いせいか、ひきこもっていた工房に比べてけっこう冷える。アリシアは薄い夜着を震わせ、ほんのりと白い息を吐いた。
なんとなくふたり向き合ったまま押し黙った。猛烈に気まずいが、たいした共通点も話題もないのだ。
やがて痺れを切らした彼女は横を向いてわざとらしく咳払いをすると、ちらちらとこちらを見やった。
「で、ななな、なにかな? わざわざ起こした理由は?」
「こちらにきなさい」
アリシアはつかつかとベッドに移動するとふかふかした毛布を手のひらでぽんぽんと叩いた。
「え、えええっ!」
「ちょっ、そういう意味じゃなくてっ。初夜に新郎が椅子で寝ているなんて万が一にも見られることがあったら、疑われてしまうでしょう。だ、だから、そういった意味で。くれぐれも、変な気を起こさないと約束してちょうだい。……それに、そこでは寒いでしょう」
「あ、ああ。君が、それでいいのなら。僕は、別に」
なんだ、そういった意味が。いきなり気が変わって仲よくしましょうってパターンでもかまわなかったんだけど、どっちにしろ上手くやってのける自信はないからね。
マントをぽーいと椅子に放り投げて、お言葉に甘えもそもそとベッドに潜り込む。
「お、お邪魔します」
「ど、どうぞ」
やりとりがなんとかぎこちない。でも新婚ぽくていいかも。問題は山積みだけど。
ふかふかの毛布からは、甘ったるいような若い女の子のなんともいえない匂いが漂ってきて夢見心地になる。
さて、こうなるとお相手はどうしているかと気になったが、アリシアは横になったまま壁際を向いていた。ちょっとさびしいな。
「くれぐれもいっておくけど、変なところに触ったりしないでちょうだいね」
「ん、んー。わ、わわわ、わかった」
「なにか、怪しいわ」
アリシアちゃんの声が引き攣ってあきらかに怯えているのがわかり、心がほっこりする。
僕は別に同性愛者でも身体の調子が悪いわけでもないので、この状態で手を出してもたぶんどこからも苦情は出ないんだよなぁ。
「お願い、私、まだ清い身体でいたいの……」
ひくっと涙声で頼まれれば「了解」としか答えようがない。
こうなってくると、彼女の恋人であるクライドって男が心底憎たらしく感じてくる。
おお、そうか。神よ、これが嫉妬という感情なのですね。心の底からファックです。
仕方がないから、せめて男らしく天井を向いて寝てやる。
左手がアリシアちゃんの背にぴたっと触れた。
ひうっと小さな悲鳴を押し殺しているのが聞こえる。
なんだか凄く道化じみたことをやっている気がする。
アホらしいのと疲れてるので、特に意識することなく、すっと深い眠りに入っていった。
「起きて、ねえ、起きてってばナイト……」
中途半端な時間に寝入ったせいか、頭がずーんと重たい。誰だよ、この声と目蓋を無理やりこじ開けると、美しい青い瞳をした少女が僕の顔を覗き込んでいた。
「だあああっ!」
「だから、人の顔を見て騒がないでちょうだい。さすがに二度目はショックよ」
「あ、ああ、ごめん。おはよう、アリシア」
「ん。おはようございます」
渋面だった彼女はそれでも丁寧にあいさつを返してくれた。
うん、こういうところを見ると彼女の家はしつけをきちんとしているのがわかる。
「とりあえず、起き抜けで申し訳ないのだけれど、ひとつ手伝って欲しいことがあるの」
「え」
アリシアは緊張した面持ちでそういうと胸のあたりにそっと手を置いた。
とりあえず拒否する理由も見当たらないので、ベッドからすべり落ちる。
「そっちの端を持って欲しいの」
「えー、あー。うん」
いわれるままに、毛布の端を持って、ふたりで協力して引っぺがす。キングサイズのベッドだったので、けっこうな重さだった。
「扉のところで、誰か入ってこないか見張っていてちょうだい」
「うん」
アリシアは小さな肩かけ鞄から小さな小瓶を取り出しつつ、あたりをそろりそろりと窺っている。
窓の外は燦々と日が照っていた。今日も晴れ。ちらりと懐中時計を取り出し時刻を確認すると、午前六時半くらいになっていた。
「で、なにをやろうっていうの?」
「ん。これを、かけようと思って」
なんとなくアリシアの歯切れが悪い。自らやることに躊躇しているようだ。
「その小瓶の中身はなんなの?」
ふと、疑問に思って訊ねた。
「豚の血」
んー。
そっか、豚さんの血かぁ。
あはは。そっかー。
……え?
一瞬、思考が完全に凍りついてしまった。
お判りいただけるであろうか。
黒い下着姿の美少女かつ僕の嫁(仮)が起き抜けに豚の血が入った小瓶を手にしたままベッドを睨み佇立している。
軽くホラーだわ。正直、ドン引きですよ。
「ちょっと待ちなさい。今、あなた、おかしな想像をしていないかしら」
「え、あ。ええと。ぼぼぼ、僕はとりあえず、ななな、なにも見てないかかか、ら」
「嘘をおつきなさいっ。もの凄くどもっているじゃない。いい、落ち着いて聞いて。私たちは、昨日、その――世間的には、しょ、しょしょ、初夜を迎えたことになっているの」
僕のどもりがうつったみたくアリシアが顔を真っ赤にして激しくどもっている。
「この部屋は、私たちが朝食に出たあと、メイドが清掃に入るでしょう? そうしたら、シーツをたぶん、その、確認すると思うから。そ、そのとき……」
アリシアの声が次第に消え入りそうに小さくなっていき、最後にはごにょごにょと強烈に濁ってなにをいっているかわからなくなった。
そうか。処女検査のことをいっているのだな。
だいたいが、貴族というものは処女性を大事にするし、そういったあとがなければ閨をともにしたと認められないのであろう。
ん――。てことは。
アリシアにはクライドという恋人がいたそうな。この世界は非常に娯楽が少なく、若いふたりが衝動に任せてあれやこれやをしていても、なんらおかしなことではない。
僕は軽い立ちくらみを起こして、膝から力が抜けていくのを感じた。ふらふらとよろめいて床に片膝を突くと、アリシアはびっくりして口元に手をやった。
「もしかして、君は」
最悪の想像が脳裏をよぎった。意識が遠のきかける。
「ち、違うわっ! 私は処女よ! あっ」
自分がいってしまったことを激しく後悔したのか、さっと下を向いた。黒髪からわずかに覗く耳まで真っ赤になっているのがわかる。
「その――クライドとは、手も握ったこともないし……。お屋敷にくる前に、ちゃんと処女検査も受けたから……。それは、本当なのよ……信じてっ!」
よく考えれば、メルキオールほどの人物がそのあたりに間違いや見逃しがあるとは思えない。となれば、アリシアとクライドという男が知り合った時期は限定されるだろう。
「ひ、ひとつ聞いていいか。君と、そのクライド氏が知り合ったのはいつ頃なんだい」
「ルフェ家の婚約者選定が終わったあとよ。妹たちと、森にキノコ狩りに入ったとき、暴漢たちが襲ってきて。そこを、クライドたちに助けられたの」
なんというか、狙いすましたようなヒーロー登場だな。こりゃ、ろくに男の経験もないアリシアのような清純な娘はころりといってしまうだろう。
さしずめ僕は、ふたりの仲を裂く悪代官役だ。それならそうと割り切ってしまえれば気持ちも楽なのだろうか、ひきこもりのコミュ不全の男にそんな能動的な精神性を持てるはずもない。まさに、流され系代表として相応しいであろうと自画自賛する。
「とにかく、しるしを残しておかないと」
アリシアはちらりと僕を見て手のなかの小瓶をアピールした。
うむ。ぐずぐずしていると、気を利かせたメイドが部屋にやってくるかも知れないしね。
かなり繊細な問題なので早々に結論が出るはずもない。
アリシアは眉にきゅきゅと力を込めると、えいやとばかりに中身を撒いた。
バッと赤い血が舞ってシーツにシミを形作る。ちょっと。
いや、かなり量が多かったのかシーツはとんでもないことになりかけていた。
これじゃ殺人事件だよ!
僕は血の臭いとか大の苦手なので、さっと跳躍して距離を取った。
「やりすぎたかしら……」
道に迷った仔犬のように困った顔を向けてくる。
自信なさげに目尻が垂れているのがポイントだ。この暴力的なかわいさに抗うことはできない。
仕方ないな。僕はサスペンス劇場ばりに血塗れになったシーツへと手を伸ばすと、ごにょごにょと水魔術を詠唱した。
手のひらから出現した透明な水はしゅるしゅるとシミに舞い落ちると血汚れを吸い取ってしまう。
んで再浮上。
清流と血の赤でマーブル上になった水球を、魔術で操作して台所のシンクに持ってゆく。どぼんと流して洗浄は終了だ。
あとは、指先を振って小さな火球をベッドの上に出現させ、濡れた部分を急速に乾かした。
うし。あとは、残った豚の血をさりげない量で落として破瓜のあとを演出させればいい。
と、考えていると、口を開けてぽかんとしているアリシアの顔が目に入った。
呆けている彼女もイイね!
「あなた、凄いのね」
褒められた。うん、凄くうれしい。魔術を使って褒められたのは両親以外でははじめてじゃないだろうか。僕はちょっと自慢気にならずにはいられなかった。
「おはよー。ナイトちゃーん。よく眠れたかしらっ。ママ、さびしかったわ!」
部屋から出た途端、待ち構えていたビルギットの熱烈な抱擁を受けた。
ばふっと巨大な胸に顔を押し潰され、呼吸が危うくなる。
ジタバタともがいていると、のんきそうなイングゥエイの声が後方から聞こえた。
「ははは、おはよう。ママ、ナイトくんが驚いてるじゃないか。ところで、ナイトくん。ぼくもハグしていいかな?」
イングゥエイは両腕をレスラー並みに、スパーンスパーンと開いたり閉じたりして、息子との抱擁に意欲を見せている。怖い。
冗談じゃない。お断りだ。そのぶ厚い胸筋で押し潰されて頓死してしまう。
「そっか。パパ、しょぼんだよ」
イングゥエイは下唇を噛むと悲しそうに眉を八の字に下げた。
ぜんぜんかわいくないからやめていただきたい。
なにはともあれ朝食だ。
昨日のごとく、アホみたいに馬鹿ッ広い食堂に集合して朝飯を食う四人。
今日も壁際にはなんの意味かわからないが、ずらりとメイドが並んでいた。
誰しも一部の隙もなく、ぴっちり化粧を決めているのでなんとなくこちらも気を抜く暇がない。
「坊ちゃま。昨晩はお楽しみでしたね」
「う、ううう、うるさい」
ノエルがにやにやしながら茶のお代わりをついでくる。隣のアリシアは上品そうに頬に手を当て、小さくうつむいているがあまり機嫌がよくないのが察知できた。
「ナイトちゃん、ナイトちゃん。ママがデザートのアイス食べさせてあげるね」
隣は隣でうるさいことのこの上ない。
ビルギットはビルギットで、まるで僕を赤ちゃん扱いで出てくる料理ごと切り分けて口に運ぼうとする。
口移しで食べさせようとしたときは、さすがに自分の目を疑った。
「だって、ママ。昨日は十年ぶりにナイトちゃんとすやすやできると思ったのにぃ。とってもさびしいわ」
「は、ははは」
見ろ。アリシアがドン引きですよ。これじゃ、僕がいい年をして母親へ恒常的に甘えている社会不適合者だと思われるじゃないか。いや、間違っていないのか。
「ねえ、アリシアちゃんアリシアちゃん」
「なんでしょうか、お
ビルギットが僕の膝上から身体を乗り出してアリシアに声をかける。不作法ですぞ。
「ナイトちゃん、昨日は上手くできたかしら」
「え」
アリシアは手にしたフォークをかちゃーんと皿に取り落とした。
ぴーんと食堂の空気が張りつめ、イングゥエイが口に運んでいた紅茶をブッと吐き出した。汚ェな。じゃなくて、だ!
「ほほほ」
ボークである。さすがのアリシアも「いい嫁」像を保持できなくなったのか、壊れたレィディオみたく、冷汗をかきながらほほほと笑うばかりである。
これが貴族なのか? 貴族の流儀なのか?
と、思ったが、よくよく考えてみると母のビルギットは父であるイングゥエイが騎士団の遠征中に山深い森のなかで狩りをしていた彼女を見染めたと聞いているから、ビルギットの山出し娘率は百二十パーである。
なんだ、空気読めないちゃんか。でも安心はできない。
これってむちゃくちゃデリケートな問題である。
幸いにも、早朝におけるアリシア発案の欺瞞工作で、僕らがベッドをともにした(真実)証拠は、しっかりくっきり残っているはずだが、それを踏まえての発言なのだろうか。
ビルギットをジッと見る。エルフは、成人するとそのあとほぼ容貌が変わらないので、四十五にはとても見えない。小娘同然の容姿をした実母は、雲ひとつない青空のような笑顔で興味津々に目を光らせている。
「ほほほじゃなくて、ね、フィニッシュはやっぱ正常位?」
「せ――え?」
アリシアは、火がついたように一瞬で顔を真っ赤にすると唇をふにゃふにゃ動かし、声にならない返事を口のなかでもごもごさせた。
おい、イングゥエイッ。お願いします、こいつをどうにかしてくださいっ!
「は、ははは。ママ。ちょっとお話があるからとりあえず行こうか」
「えー、なんでー。パパっ、やめてよー。まだ、アリシアちゃんにナイトちゃんのお話聞きたかったのにぃ」
僕の懇願を聞き届けてくれたイングゥエイがビルギットをずるずる引っ張って食堂を出て行った。
壁際に並んだメイドたちはしわぶきひとつせず、置物のようにぴくりとも動かないが、目だけは爛々と輝いて僕たちふたりを凝視していた。
これぞ針のムシロってやつですね。
アリシアはあまりに無遠慮な母の質問に耐えかね、頬を紅潮させたまま、ティスプーンでカップの中身をひたすらぐーるぐーると混ぜ混ぜしている。
むろん、コミュ不全かつ対応能力の皆無な僕にこの場を収拾する器量があるはずもない。
石。僕は石。
ひたすら念じていると、アリシアと目が合った。
「あ、あう。あ……その、ナイトしゃま……私、どう……いえば」
混乱しきっているアリシアはかわいい。
「きゃっ」
「うわっ!」
動揺が極限に達したのか、アリシアはティースプーンでカップを突きすぎてこぼしてしまった。
茶がテーブルクロスを伝ってスカートの一部にかかったのか、驚いて抱きついてくる。
僕はひきこもりだが、ルフェ家男子の特質を引き継いで百九十を超える堂々とした体躯だ。
よってアリシアをすっぽり抱きかかえてしまい、反射的に椅子から立ち上がった。
おおっ、と周囲の壁メイドたちから拍手が沸き起こる。
いわゆるお姫さま抱っこだ。
なんでこうなってるかっていうことは、神さまじゃなきゃわっかんねんだろうな!
「坊ちゃま、それに若奥さまっ。お怪我はございませんか!」
控えていたノエルがダッシュでやってきて、数人のメイドに指示を出し、てきぱきと片づけた。
その間、僕たちはアホみたいに突っ立ったまま、ノエルたちの作業を眺めていた。
片づけがひと段落して。
「で、坊ちゃま」
ノエルがふーうとわざとらしくおでこを手の甲で拭う真似をしながら問うてきた。
「なんだよ?」
「フィニッシュは正常位だったんですか?」
黙れよ。
僕は恥ずかしさのあまり、アリシアを抱きかかえたまま、食堂を駆け去った。
ばたん、と勢いよく扉を閉めて、荒い呼吸を整える。
そういえば、アリシアを肩に担いだままなのを思い出し、そっと床に立たせた。
「あれなの……? あなたのお母さまは……」
いうな。
僕だってそう思っている。すべて口に出さずとも、アリシアのいいたいことは痛いほど身に染みた。
「わ、悪気はないんだと思う。たぶん、彼女はナイトのことが心配なだけだと思う」
「ふうん。あなた、不思議な表現をするのね。自分のことなのに、まるで他人ごとみたい」
そうなのだ。
僕は、異世界か中途半端に転生した男なだけであって、正確的な意味ではこの身体の持ち主であるナイトとは別人なのだ。
だが、そのことを話したとしても誰も理解してくれないことは十年前で実証済みだ。
「ねえ、これからどうするの……?」
アリシアが困ったようにぽつんと呟く。
僕は元々主体性のない人間だし、人生この方決定権を委ねられたことはない。
それをいうなら、こうして曲がりなりにも若い女性と普通にコミュニケートできていること自体、不可思議な現象なのだ。
「コミュ障の僕に決めさせるなよ。だいたい、昨日までひきこもってたんだぞ」
「なによそれ。だいたい、あなた、ご両親とかはともかく、私とは普通に会話できてるじゃないの」
「え――あ、あれ?」
いわれてみて、ハッと気づいた。
普通に喋れているような気がする。
ベッドの上に腰かけ、自分を見ているアリシアの顔を見た。
なんというか、やはり極めつけの超絶美少女だ。本来ならば、僕が会話のできるステージに存在していい人材ではない。
美人は三日で慣れると聞いたことがあるが、まあ、未だに直視するとあまりに人類の格差とは、を考え込んでしまう不公平すぎる美しさだ。
「ナイト、ひとつお願いがあるのだけど、いい」
「な、なんだよ」
「会話をするときは、ちゃんと私の顔を見て喋ってよ。なんだか不安になるわ」
「無理だよ。だって君はかわいすぎるんだから……」
「え、ええっ!」
しまった。つい本心が口に出てしまった。きっと、超絶気持ち悪がられただろうな。
そもそも、こんな美少女は常日頃から口説かれ慣れているので、お決まりのセリフをいわれても軽く流して終わり。
いいやそれどころか「なに調子に乗ってんの、キモ!」とまで蔑んでくれるだろう。
ふひひ。サーセン。でも存在を認めてくれてありがとう。神に感謝。神道じゃないけど。
「な、なにをいっているの……。本当に貴族という生き物は思ってもいないことを口に出すのが上手なのね」
おや?
アリシアのようすが。
彼女は落ち着かない様子で自分の長い黒髪の先を弄び出した。
僕の気のせいでなければ、なにやらやたらと視線をあちこちにさまよわせて、ベッドから立ったり座ったりを繰り返している。
「なにを見ているのよ」
「べ、別に」
なんか面白いから黙っておこう。
無言のままでいると、彼女はやたらと僕の視線を意識し出して、今度はぐるぐると部屋のなかを回りはじめた。なんだか落ち着きのない熊のようで、楽しい。
「と、とにかく。これからのことを落ち着いて考えましょう」
「僕は落ち着いてる。平常運転だ。で、これからのことって、昨日いってたあれか?」
婚約破棄のことか。僕らは正確にいえば、まだ教会で祝福を受けていないので正式な夫婦ではないといえなくもない。
だが、ルフェ家ほどの大貴族ともなれば、妻側から適当な理由を持って婚約を破棄するということは実質不可能に違いないのだ。
アリシアもそれがわかっているので、自然とすまなさそうな顔になっている。
ハッキいうと、僕は今朝の段階で自分からアリシアを手放すという気持ちはこれっぽっちもなくなっていた。かわいくて巨乳で年下の幼な妻だ。
彼女は故郷に恋人らしきものがいるらしいが、ルフェ家の領地からは王都まではかなり距離があるし、ネットも電話もないこの世界であれば、連絡の取りようがない。
決めた。なんとかして、この子を僕のものにしてやろう。
なんちゅーか、アリシアとそのクライドとかいう野郎が愛し合っていても、大貴族という権力の前にはどうにもならないことを証明してやるのだ。
そんで、僕の魅力で彼女をめろめろにしてやれば問題はないはず――なのだが。
困ったことに、僕自身の魅力というものがどこにあるのか、とんと見当がつかない。
「とりあえず、そんなことは一朝一夕にどうこうできるはずもないから一旦置いておこう」
「そんな、昨日は協力してくれる素振りだったじゃないの」
馬鹿だなアリシアくん。
素振りは素振りで必ずとも真実とはいえないのだよ。
「まあまあまあ」
「ナイト、なにかずるいこと考えてる気がする」
アリシアが頬をお餅のようにぷくっと膨らませた。
こんなことくらいがけっこう楽しいので、そのためなら僕はどんな卑怯な手でも使っちゃうぜ。
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