第2話「男はみんな賭博師だ」

「ナイトちゃん、ナイトちゃん。お夕飯のおかずはなににするー?」


「坊ちゃま、坊ちゃま、メインディッシュはお魚ですかー? それともお肉ー?」


 ママンとメイドがめちゃうるさい。


 僕が長きお勤めを果たして帰還したかのように、生物学上の母であるビルギット(35)とメイドのノエル(12)がベタベタしてきた。安定の粘着力。


 椅子に座っている僕の身体を遠慮会釈もなしに蹂躙するのはやめていただきたい。


 場所は屋敷の食堂だ。


 大貴族というだけあって、それこそ息を呑むかのように金のかかった造りの什器が映画のセットのように、きちんきちんと配置されている。


 とてもじゃないが我が家という実感はまるでなかった。


 うむ。まるでBBCのドラマみたいだ。出演者も全員西洋人テイストだしね。


「はは。ママもノエルもあまりナイトくんをかまわないであげて。彼も出てきたばかりでいろいろと疲れているだろうし」


 常識的な発言をして上座に座っているのがイングウェイだ。


 今、僕たちはアホみたいに長いテーブルについて、ディナーが運ばれるのを待っていた。


 壁際には、ずらーっとメイドが四十人くらい澄ました顔で並んでいる。


 室内は、LED電球なんか存在しない。独特の匂いのある蝋燭がジジジと音を立てて奇妙に揺らめいている。


 長きの穴倉生活で暗さには慣れていたので、僕の目には明るいくらいだった。


 それにしても……。


 気になってたのは、左右で壁の花になっているメイドちゃんたちなんだよね。


 誰もが、顔とスタイルで採用したとしか思えないほど美人ぞろいだった。


 これだけ若い女がそろうと、やはり特有のむんむんした匂いが籠っており、なんというか落ち着かないよ。


 ノエルみたいななんちゃってとは違って、彼女たちは静かに立ったまま表情ひとつ変えない。そのへんはもの凄く厳しいしつけを受けているのだろう。


 と、思ったら目が合ったショートカットの娘が悪戯っぽくウインクしてきた。あきらかに僕を意識したもので、恥ずかしくなって視線を逸らしてしまう。


 にしても、ここは、いったいいつからミスユニバースの世界大会会場になったのだろうか。


 とはいえ、彼女たちが霞むような存在が隣にちょこんと座っている。


 僕は意図的にその存在を無視していたのだが、ついつい気になって視線を向けてしまう。彼女は、目が合ったのことを恥じらいながら静かに微笑んだ。


 僕の嫁(仮)であるらしいアリシアちゃんだ。


 規格外の美少女である。なんというか、存在が違い過ぎて口を利く気にもなれないね。体内の卑屈回路が全開だ!


 というか、僕は彼女とはひとことも口を利いていないのだが。


 それはさておき、目が合っただけでこんなにドキドキするなんて、手でも握った日にはどうなってしまうのだろう。心停止ですかな。うう、意識したら鼓動が早くなった。着実に死に近づいていますね。


 頬が死ぬほど熱く、額から変な汗がダラダラ流れてくる。


 そばにいた、僕付きメイドのノエルが目敏く気づくと、純白のハンカチを取り出しサッと拭いてくれた。くそ。ときどき有能だから反応に困るじゃないか。


「にこー」


 ノエルも美少女の範疇に入るが、これくらいなら許容範囲だな。うん。


「今、なにか考えませんでしたかね。坊ちゃま」


 考えてないから。なにも考えてないから、今は話しかけないでくれ。食事に集中させてくれ。


「まあまあそのくらいにしておいてあげて。今は、久々の家族そろっての食事を楽しもうじゃないか」


 イングウェイパパが、スターリンそっくりの顔なのに、やたらと中道的な意見をいってくれた。


 さすが家長であると、ちょっとだけ尊敬してしまった。


 さて、僕の両隣には右に母のビルギット、左に嫁(仮)のアリシアが座っている。


 コミュニケーション不全の僕にはマジ拷問。


「ねえねえ、ナイトちゃん。おいしい? しっかり食べてる? もぐもぐしてあげよっか?」


 十年ぶりの我が子との食事にテンパってしまったのか、ビルギットはやたらと僕を子供扱いする。膝にのせてあげよっかといわれたときには白目になったね。


 だいたい、すでに成人している男子に対してもぐもぐ、つまりは赤ん坊に離乳食をあげるように、自ら咀嚼したものを与えるというのは確実に間違っているといえよう。


「んー。なになに? 抱っこしてほしいの?」


 もうね。アホかと。


 対して、突如として嫁枠として僕の人生というステージに引き上げられた黒髪が美しいアリシアちゃんは控えめに食事をとっており、流れるような作法が堂に入っていた。


 さて、黙って皿の上を見つめていても減ることはない。


 目で食うのはこれくらいにして、とっとと片づけるか。


 ナイフとフォークを機械的に動かしていく。味なんて、緊張しすぎてよくわからないのだ。


「お、お、お?」


 僕としても、誰かとともに食をとるという行為は十年ぶりだ。テーブルマナーなんて忘れ切っているかと思いきや、ナイトくんの身体記憶しているのか、考えていたよりもはるかにスムーズに指先は動いた。


 が、過剰なストレスのあまり痙攣が起こったのだろう。切り分けた肉片がサイコロのようにころころと踊って真っ白なテーブルクロスにシミをつけてしまう。


「あらあら。おっこちちゃいまちたねーナイトちゃん。ママが食べ食べさせたげましょうかちらー」


「い、いいよ。別に」


 てか、なんで幼児にいい聞かせる口調になってるんだよ。僕は、ササッと自分の分の肉を切り分けてあーんしてくるビルギットから顔を背けた。


 ほら! 我慢して澄まし顔してたメイドのみなさんがくすくす笑いしてるじゃないか。


 恥ずかしくて恥ずかしくて、やっぱり部屋から出るんじゃなかったって気分になった。


「あの、ナイトさま」


 顔をぷいと左に向けたんで必然的にアリシアのほうを向くこととなる。


 なんというか、距離が凄く近い。


 こうやってまじまじと見ると、顔ちっちゃいしまつ毛長ぇし、ホントお人形さんみたいな子だなぁ……。


 吸い込まれるような濃いブルーの瞳をジッと見つめていると、彼女は手にした白くて小さなハンカチをそっと伸ばし、僕の唇をゆっくりと拭った。


 ふきふき。

 ふきふきだ。


 アリシアちゃんの細くて長い指先が唇についていたソースを拭ってくれた。


 あまりのショックに魂を抜かれ茫然としてしまった。彼女は、あまりの僕の反応のなさに恐縮して聞こえるか聞こえない程度の声でささやいた。


「あの、お口元が汚れていましたので。差し出がましいことをしてしまったでしょうか?」


 ズキーン、と来たね。


「い、い、いや。あ、あ、あ、ありがとぅ」


 頭がクラクラしてどもってしまう。


 神よ、感謝します! いや、感謝するのは祖父であるメルキオールに対してだな!


 この子が僕の嫁だって? なんて、ハッピーな一日なんだ。世界ってまだまだ捨てたもんじゃなかったね。転生してよかったって、今日がはじめて思えたよ。


「もおーっ、ナイトちゃん。久々にママが甘やかしてあげようと思ったのに、アリシアちゃんにばっかデレデレしてるぅ! ママだってナイトくんといちゃこらしたいのにぃ」


 ははは。黙れババァ。見た目が二十代でも経産婦に用はない。


 アリシア最高! アリシアちゃんナンバーワン! 


 今日から生き直してみよっかなと思っちゃったりなんかしちゃったりして。


「あはは。でも、これだけアリシアと仲よくできるんなら、ナイトくんも、もうお部屋に閉じ籠ったりしようとなんて思わないよね」


 ワイングラスを片手で弄んでいたイングゥエイがなんの気になしに呟いた。


 ビルギットが端正な顔を夜叉のように歪めて「余計なことをいうな」とばかりに殺気を撒き散らす。


 イングゥエイも口がすべったとばかりに顔を引き攣らせ、泣きそうな顔で視線をキョロキョロと動かし、滝のような汗をドッと噴き出させている。


 舌禍ってやつだ。沈黙は金なり。すなわち僕はいつだってジャスティス。


 ビルギットは、傍目にもわかるほどエルフ耳をしなしなにさせしょんぼりすると、機嫌を窺うようにして上目遣いで僕を見上げて来た。


「ナイトちゃん、パパのいうことは、あのっ、そのっ。重く取んなくていいからねっ。ナイトちゃんが辛いなら、そのっ。無理に部屋を出て来なくてもいいから。だから、あのっ。そのおっ。ナイトちゃぁああんっ!」


 しまいには泣き落としである。


 この夫婦、どうやら百パー育成に失敗した我が子を神経質に扱い過ぎている。


 正直なところ、あれほど恐れていた世界も無理やりに引っ張り出されてみたら、それほどのものでもなかった。


 ぶっちゃけていうと、アリシアちゃんのこともあるし、僕は久々に外界で暮らしてみようとはじめて前向きに思えるようになったのは自分でも不思議だった。


「父上、母上。ぼぼぼ、僕は、もうひきこもったりするつもりは、ななな、ないよ」


 イングゥエイが両眼を見開いて手にしたワイングラスを落下させて割った。


 おまえ、驚きすぎだろ。てか、その顔怖いわ。


「ナイトちゃん……」


 ビルギットも口元を両手で覆って眼の縁に涙を浮かび上がらせていた。決壊寸前だ。


「すすす、少し、ががが、頑張ってみるつもりだ」


 これだけのことをいうのに、どれだけの勇気が必要だったか。気づけば、僕は膝の上で両拳をぐっと握り込んでいた。


 その手の上に、小さく冷たい手がそっと添えられる。驚いて顔を上げると、アリシアが目を細めて労わるような視線を投げかけていた。


「ナイトちゃんっ!」


「どわっ!」


 感極まったビルギットが蜂蜜色の髪をなびかせて抱きついてきた。倒れそうになった僕を、背後にいたノエルが椅子ごとすかさず支える。


「ナイトくんっ、ナイトくーんっ!」


 と思ったら、涙を滂沱と流しながらイングゥエイがテーブルの食事を薙ぎ倒しながら四つん這いに這って、まっしぐらにこちらへと突き進んでくる。あんたはやり過ぎだっ!


 イングウェイがテーブルの上からフライングボディプレスを敢行したとき、僕の頭のなかにはアントニオ猪木のテーマソングである「炎のファイター」が鳴り響いた。


 椅子ごとひっくり返ったとき、ノエルを引っぺがして素早くバックステップしたアリシアの動きが尋常でなかったことが、鋭く脳裏に焼きついた。



「じゃあ、そういうことで、ナイトくんとアリシアは今日から同室で過ごしてもらうから」


 僕はイングウェイが発狂したかと思った。


「ちょっと、どうしたのナイトくん? あはは、そんなによろこばないでよ。君たちは、もう夫婦なんだから、これからは仲よくしないとね。あと、君の工房は散らかってたから、新婚夫婦に相応しい新しい部屋を用意しておいたよ! そのうち、君たちの屋敷も新しく作る予定だけど。その、さ。すぐ移ってしまうと、ママも悲しむから、しばらくは実家で暮らしなさい。ね」


 そういうことをいっているのではない。

 もう一度いう。

 おまえ正気か?


 僕は当然のことながらアリシアは空いてる客間に泊まると思っていたんだよ。


 まだ、ふたりとも顔を合わせてから、半日も経ってないし談話室じゃおまえら夫婦が機関銃みたく、ずっとべらべら喋り倒してたじゃないか。


 そもそも僕はこの子と向かい合ってひとこもと言葉をかわしてないんだぞ!


 いきなりベッドインだなんて早すぎるだろーがっ。


 イングゥエイの巨体の隣にちんまりとした身体を寄せている製造元のビルギットを見た。


 助けてくれよ、こういうときの母親だろ!


 まだ早いよ。ふたりっきりになんかされたら心臓が止まってしまう。


 見た目には年齢不詳の金髪エルフママは、僕のすがりつくような視線を受けると、きりりと顔を引き締め、一歩前に出た。


「ナイトちゃんっ。男になるのよ。ママ、応援してるわね!」


 ちげーよ、ボケッ。


「あの、お義父とうさま。お義母かあさま。まだ、寝るには早いと思います。もう少し、ナイトさまやみなさまと語らう時間を設けてはいただけませんか?」


 ほらっ。やっぱりアリシアちゃんだってとまどってるじゃないか。


 ここは、なんとか頑張って、時間を稼いで善後策を講じないと。


「ちょ、ちょちょちょ、ちょっと、ままま、待ってよ」


「え? なに? 早くふたりっきりにしてくれ? もう、エッチだなぁナイトくんは」


 オッサン絞め殺すぞ、こら。僕がンなこというわけないだろ。


「あなた、ちょっと待って。ナイトちゃんが喋りたがっているわ。これは、二時間ぶりの奇跡よ……!」


「おっと、そうだな。ここはナイトくんの親として慎重に見守らねば!」


 イングゥエイとビルギットは互いに頬をぴとっとくっつけて、目玉をまん丸にして僕の様子を固唾を飲んで窺っている。僕は保護野生動物かよ。


「そ、その。僕ら、まだ会ったばかりだから、もうちょっと話し合って、おおお、お互いのことを、わわわ、わかりあってからのほうがいいんじゃないかなって」


 婉曲だったけど、伝わったかな?


「おおっ。そうだなそうだな。自分から女の子にアプローチをかけるなんて、偉いなぁ。ナイトくんは。さすがぼくとママの息子だねっ!」


「ナイトちゃん。私たちが見ていないところでちゃんと成長していたのね……。ママ、うれしいわ。さ、ノエル。ティーの用意をしなさいっ。宴の二次会に突入よ!」


「承知しました、奥さま」


 ビルギットは、控えていたノエルに命ずると、あれよあれよという間に茶会の手筈を整えてしまう。


 移った先はこじんまりとした応接間のような場所だった。


 つーか、この屋敷どんだけ部屋数があるんだ? 把握しきれないよ。


 巨大なソファにペアで腰かけ、ガラステーブルを挟んで向かい合った。


 むろん、僕とアリシア、そして両親の組だ。


「アリシアちゃんのおうちはどんなところなのかなー」


「はい、お義母かあさま。名門ルフェ家と比べるようなことがおこがましいほど、小さな地方貴族です。本当に、お恥ずかしいのですが、これといってなにもなくて……。でも、家の近くには綺麗な森と湖があって。今度、おふたりともぜひ遊びに来ていただけるとうれしいです」


「へえっ。実をいうとね、ぼく、こう見えても魚釣りとか趣味なんだよ。なんとか休みが取れたら、遊びに行ってみたいなぁ。で、アリシア。君の家族構成は? 正直、今回の縁談は父上の独断だったんで、ぼくはまったくノータッチだったんだよね。あ、あいさつに行かないと」


「お義父とうさま。わざわざ王都で名高い竜王騎士団の団長さまに自ら足を運ばせるような真似はできません。明日にでも書簡を送って、父母や一族に出発するよう伝えますので。それと、私、兄弟が九人もおりまして。これから、いろいろご迷惑をおかけするでしょうが、なにとぞ。本当、田舎者で不調法ですが、至らぬ点がありましたらご指導ご鞭撻のほどを……」


 うん。ていうか、ていのいい身上調査だね。

 まあ、パパンとママンの喋ること喋ること。


 おかげで、ついぞアリシアちゃんとはストロベリートークどころか、ひとっことも会話できなかったんだけどね。


 わざとやってるでしょ!






「いやぁ、なんだかぼくたちばっかりベラベラ喋り過ぎちゃったみたいで。でも、アリシア。これも大事な息子を思うあまりのことなんだ。かなり強引だったけど、ナイトくんもひきこも――もとい、研究をほどほどにして外の世界の空気を吸おうっていう気になってくれたみたいだし。こんなに、かわいい子がナイトくんのお嫁さんで、ぼくにも娘ができるなんて望外のよろこびだよ。夜は長いから、今度こそ本当にふたりの邪魔はしないから。さ、ママ。ぼくも今夜は久々に熱くなりそうな気分だよ」


「きゃっ、パパったら」


 死ね。


 僕はいちゃつきながら廊下の向こう側に消えてゆく阿呆夫婦の背中をジッと見つめた。


 浮気とかばれて熟年離婚すればいいのに。


「え――、あ。えと」


 結局のところ、部屋を分けてといえないうちに、閨へと押し込まれた格好になった。


 気のせいだろうか、アリシアの顔色があまりよくない。


 そりゃそうだろう。新郎とろくに口を利かないうちにベッドインだもんな。


 日本でも、それこそ昭和の初期くらいは、相手の顔も知らないうちに結婚することはざらだったんで、文化的熟成がはるかにこなれていないファンタジー的封建世界ならあたりまえなのかもしれない。


 よし。僕も男だ。いくらひきこもりで対人恐怖症だといっても、初夜から女の子、しかも僕よりずっと年下主導権を握らせるなんてことはできないな。


 ここは、かつてはるか昔、ネットで得た知識を総動員してなんとか切り抜けるしかない。


 人生で、二度とないチャンスがやってきたんだ。


 ナイトよ、幸運の女神の毛先を掴むのは今なんだ。


「い、行こう」


 僕は勇気を出してアリシアの手を握った。


 ふわふわして剥きたてのゆで玉子みたいにつるつるしてる。


 動揺するな、動揺するな。生物としてはみな通っている道なんだ。特別なことじゃない、そして難しいこともでもない。やればできる、できればやれる。


 そう念じながら、扉を開けて入室すると、なんともロマンチックな情景が広がっていた。


 品のある家財道具は、一目見ただけで値の張る物だとわかった。


 うわぁ、天蓋付きのキングサイズベッドだなんて、はじめて見た。


 どこぞのハーレムだよ。僕はスルタンじゃないからね。


 さて、これからどうやってスムーズにベッドインまで持っていこうかと、脳内で智嚢を振り絞っていたら、ビッと音を立てて繋いでいた手を振り払われた。


 あれ?


「貝のようにだんまりを決め込んでいたらと思えば、ふたりきりになった途端これですか」


 アリシアは汚いものを触ったかのようにハンカチで手を拭うと静かな口調でいった。


 先ほどまでのにこにこしていた春の陽だまりのような笑顔は消え去っていた。彼女は、湖底のように深い蒼の瞳で僕を見ると、ピンと背筋を伸ばして視線を扉に向けた。


「閉めてください。話を聞かれたくありません」


「あ、ああ。う、うん」


 芯の通った力強い声だ。まるで女王陛下に命ぜられるよう、僕はよろよろと覚束ない足取りで扉にとりつき、外界と遮断するとカンヌキをかけようとして叱責された。


「誰が鍵をかけてくれといいましたかっ」

「え、あ。うん、ごごご、ごめんなさい」


 なんだよこれ? 僕がなにをしたっていうんだよっ。


 は、まさか。これからやることを万が一にでも邪魔されたくなくて、アリシアちゃん照れているのでは……。


 そう思うと、目を三角にしているのも、つやつやした頬を紅潮させている姿も、とてもいとおしく感じられて、知らず目尻が垂れ下がる。


「締まりのない顔をして。勘違いしないでいただきたいのは、私としては、そういった行為をすることは、今も、そしてこれ以降も金輪際ありません」


 いった。

 完全にいい切ったよ。


 顔面から冷水をぶっかけられた形で、僕の身体はケツの穴から頭のてっぺんまで、きいんと音を立てて冷え切った。


「え、ででで、でも。僕たち、夫婦になったんだよね。ふひひ」


「気持ち悪い……! その笑い方やめてください。虫唾が走りますッ」


 アリシアは心底気持ち悪いといった仕草で、自分の身体を両腕で掻き抱いた。


 確かに僕は他人との距離感や周りの空気を読めないことで定評があるが、ここまで露骨に嫌悪感を露わにされれば、さすがに気づかないってこともない。


 彼女はこの婚姻に納得していない。

 さらに、ハッキリいうと、僕を嫌っているのだ。


 ま、まあ、自分でいうのもなんだが、年頃の婦女子に。


 しかも、こんな超絶美人に会った途端惚れられてしまう要素なんてどこにもないよなぁ。


 ――けど、それを覆しての大貴族の地位なんじゃないのですかね?


 彼女は、さすがに両親の前では地を表せなかったのか、ふたりきりになった途端、僕を与しやすしと見たのか公然と反旗を翻したのだ。


 上等だよ。僕だって男だ。据え膳食わぬは男の恥って名言もあるもんね。


 胸のなかに貯蔵され、今の今まで凍りついていた雄々しいなにかが、ゆっくりと目覚めはじめているのを感じている……。


 ここは一発、男らしくしつけてやろうかッ。おまえは、もうまな板の上の鯉なんだからな!


「こここ、この――」

「なんですか」


「あの、気持ち悪いとかいうのやめていただけませんか。自分、けっこう人より傷つきやすいナイーブな性格なもので。そのあたり、配慮していただけると、本当に助かりません」


 謝罪の言葉が自分だとは思えないくらい、すらすら出た。僕、饒舌過ぎィ!


「ちゃんと自分の口で喋れるじゃないですか。こちらの言語が理解できないほど知能の劣った人物ではないかと、一瞬、冷や冷やしてしまいましたよ」


 アリシアは牽制の意味もあるのか、豪華そうな椅子に綺麗な所作でスッと座ると、悪女を気取っているかのように、長い脚をわざと組み替えて見せた。


 白い生足と、膝下までのニーハイソックスが目の前でちらちらする。


 その上、魅惑のシークレットゾーンが若干見えたり見えなかったりと、僕の落ち切ったテンションは一気に上限まで、ぎゅーんと昇りつめた。ニーハイ、最高。


「あ、あのな。僕だってきちんと話そうと思えば話せるんだ。だいたい、この結婚が気に入らないなら、お祖父さまに直接断ればよかったのだろう。あの人は、話がわからない人じゃないぞ。見かけよりずっとやさしいし」


「……そういうことを平然というのね。これだから、大貴族という生き物は」


 はれ。自分的には至極真っ当なことをいったつもりだったのだが。


 アリシアちゃんはどうも僕の発言が気に入らないようで、長い黒髪のくるるんとちょっとウェーブした先端を指先で神経質にいじいじしはじめた。かわいい。


「王宮魔道士で、今でも権勢並ぶ者のないメルキオールさまから見れば、あなたは目のなかに入れても痛くない孫でしょうけど、私は、所詮上っ面と人より少しだけ魔術適正が高かっただけの、小貴族――ううん、実質、家は農民に毛の生えたような騎士とは呼べない程度の家柄の小娘よ。断るなんて、おくびにも出せるはずないじゃない。事実、実家では両親とも、今回の婚姻は諸手を上げて歓迎されたわ。本当のところ、家格が違い過ぎて、私は妾奉公だと思っていたのだけど……。下の弟たちも、ルフェ家の援助で王都の騎士学校に通えるって、涙ながらに感謝されて。小さい妹たちも、私も若さまのお妾になるって、意味もなく泣きついてくるくらいだったのよ?」


「け、けど、貴族の婚姻なんて、どうせ親が決めることだろう……」


「家柄が違い過ぎるのよ。生まれたときから、大貴族だったあなたには理解できないでしょうけど、会食だって、本当冷汗ものだったのよ? 私、家ではいつも、祖父母や両親、それに九人の兄弟と騒がしかったけど、手と手が触れ合う距離で食べていたのに。こんな、急にお貴族さまに嫁げといわれても、わからないのよ」


「そ、そそそ、その割りには僕には物怖じせず、喋ってるじゃんか」


「私、もう腹が据わっちゃったみたい。それに、あなた、ぜんぜん想像していた若さまって感じじゃないし。イングウェイさまとビルギットさまは雰囲気合ったけど」


 さいですか。


「で、ででで、でも。いまさらそれをいったってしょうがないじゃないか。どうにもならないよ」


 てことで、ここはひとつ運命を受け入れてベッドインしようず。


 なんていうか、印象ぜんぜん変わっちゃったなぁ。かわいいことには間違いないんだけど、僕としてはとっても庶民的な感じがして、こういうアリシアちゃんでも問題ないです。


「嫌なのっ」


 はい、嫌なの出ました。


 あー、もう、見た目じゃわかんなかったけど、彼女も相当テンパってたんだね。


 僕、あれよ? こう見えても、結構な権力者の嫡男よ。


 権力を振りかざすつもりなんて、さらさらない。


 そもそも誰に頼んだらいいかわからないし、岡田真澄っぽいイングゥエイとまともに折衝ができるか自体怪しいけど、アリシア、もうまったく状況が読めなくなってるね。


「私、故郷に恋人がいるの」


 がつーん、と凄いのが一発きたね。


「……クライド。彼と無理やり離れ離れにされ、てあの日から、一度も言葉をかわしていないの。……彼、元々は同じ村の人間ではなかったのだけれど、山菜取りで山に入ったとき、魔獣から助けてくれて……あなたとは違って、家柄もお金もないけど、やさしかったの」


 なんだよ、コイツ中古品かよ! と、さすがに文句のひとつもいってやろうかと思ったけど、だらだらと銀色の雫を流すアリシアを見ると、その気が萎えてしまった。


 うん。どう考えても、僕らのほうが悪者だよね。金に飽かせて、領地から美人狩りしたようなもんだし、それが領主として当然の権利だといえばそうなんだろうけど、この状態で彼女を手籠めにできるほど僕の神経図太くないよ。


 脱・童貞が強姦同然だなんて、今後の性生活にもかかわってきそうだ。これ以上余計なトラウマは増やしたくない。


「わ、わかったよ。ぼ、僕から、父上に直接話して、この縁談はなかったことにするよ」


「それはダメ!」

「なんでだよっ」


「だ、だって。あなた、私と会ってから、あきらかにずっとにやにやしてたし、正直に理由を説明するなんてもってのほかだし、短期間で心変わりしたっていっても、どちらにして問題がありすぎるわ」


 じゃあ、僕にどうすればいいっていうんだよ。


「お願い、ナイト。あなただけが頼りなの。私を、助けて……!」


 アリシアは椅子から立ち上がると僕の腕に取りすがって、大きな黒真珠にも似た瞳を涙で震えさせている。


 この状況で突き放すことなんてできない。僕は深く嘆息した。

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