嫁取りマギウス
三島千廣
第1話「結婚は人生の墓場なり」
十で神童、十五で才子、ハタチ過ぎればタダの屑。
とはよくいったもので。
汗で湿り切った毛布から顔を上げると、室内は天井の明り取りから差し込む陽光で真白く染め上げられていた。
今日も天気。
だが、部屋から一歩も出る予定のない僕には関係のないことだ。
ちなみに今日だけではなく、これからも、外に出ることなど絶対にないと断言することができる。
なにせ、僕はキャリア十年をはるかに超えるひきこもりなのだから。
あくびを噛み殺しながら、ベッドから勢いよく飛び降りた。
背中に汗で張りついたシャツに不快感を覚え、即座に着替えにかかった。
僕は着替えだけは早いのだ。
用意されている清潔なタオルを水で濡らし、身体を丁寧に洗浄してゆく。
人目のない場所で生活するひきこもりは、ちょっとした油断でそれこそ野良犬よりも酷い境遇に落ち込んでしまう。
なので、細々とした気遣いが自分の身体に要求される。
たとえ、この世の誰にも会う予定がなかったとしても、己自身が不愉快になってしまう。
不潔だと病気になりやすいし、基本看病してもらうことを望むことはできない。
ストレスは溜めてはいけない。それが僕たちのジャスティスなのだから。
そうこうしているうちに、扉の小口がとんとんと軽やかに鳴った。
「坊ちゃま。本日もご機嫌麗しゅうございます。ご朝食でございますよ」
僕が囚人窓と呼んでいる狭い穴から、メイドであるノエルのなにも考えてなさそうな明るい声が響いて来る。
僕は、フンと鼻を鳴らすと、ブーツを床に叩きつけるようにして小口に向かった。
当年とって十二歳になるこの小娘は、僕がこの「工房」にひきこもるようになってから、ルフェ家に仕えるようになったこまっしゃくれた娘っ子だ。
彼女の仕事は主に、僕が小口から出す生活ゴミや衣類を受け取って速やかに処理したり、そのほか要求された雑多な物品を用意する極めて重要なものだが理解しているのかどうか。
囚人窓を覗くと湯気の立つようなあたたかいスープと焼き立ての白パンが見えた。
日頃からほとんど身体を動かさないので腹はそれほど減らないが、こうして目の前に出されると唾が湧くのも致し方ないだろう。
だって僕はまだ、二十歳になったばかりの身体健康な青年なんだ。
肉、肉はないか。
「追加で焼き立ての目玉焼きさんとベーコンさんですよー」
こちらの気持ちを読み取ったかのように、追加で皿に乗った白と黄と肉々しいものが受け取り口から登場した。
じゅわっとした脂の匂いで腹がぐうと鳴った。
朝食の乗ったトレイを受け取ると、わずかな隙間からノエルがこちらを覗き込む気配を感じ取った。
「おはよーございまーす。いるかなー?」
とぼけたことをいいやがって。
むしろ、いなかったら怖いだろうがよ。
「ナイトさまー。わたしですよう。あなたのエンジェルメイドのノエルちゃんですよー」
う。僕は超シャイなので、人と目を合わせて話すことが得意ではないのだ。
が、この小娘に至っては、隙あらばなにかと接触を図ろうと挑んでくる。
にしても主筋に対してえらい無礼なものいいだな。一応、僕は公爵家嫡子だぞ。
そのチャレンジ精神に不撓不屈の精神を感じるが、そもそも無駄なあがきというもの。
僕は、代々ロムレス王家に仕えてきた魔道の名門ルフェ家の嫡男にして、王立魔道学院を優秀な成績で退学した魔術の天才なのだ。
この自室である「工房」と外界を隔てる扉は強力な魔術で保護してあるので、少々のことではびくともしない。
よって、今日に至るまで平穏なヒキニート生活を健やかに送ることができたのだ。
ビバ、孤高。
ビバ、安寧。
僕は、基本的にひきこもりという貴い業務に携わっているので、この家で会話する人物は限定されている。
つっても両親とメイドのノエルだけなんだけどね。栄誉に浴せよ、おまえら。
「もー。坊ちゃまったら。少しはこのノエルめとお話してくださいませよ。昔と変わらず照れ屋さんなのですからぁ」
また勝手なことをいっている。
そもそも、このノエルが家にきたのは三年前で、僕がひきこもり生活をはじめて七年の目の春だから、それ以前に会ったことはないのだ。言葉は正確に使おうよ。
そういえば、去年の今ごろだったかな……。
まだ、この工房と外界を繋ぐ小口が微妙に大きかった頃の話だ。
この小娘は無理やりこちら側に来ようとして、無理やり身体を隙間に通そうとしたのだ。
アホの極みだろう。そんで、うまーく溝に嵌り、ガン泣きして助けを求めてきた。
今思い返しても、ちょっと足りないとしか思えない。
そのとき、ノエルの顔をはじめて目にしたが、けっこうかわいかった。
ま、それはおいといてだ。
こんなこと口が裂けても本人にはいえない。
だって絶対調子に乗ってウザいこといいはじめるに違いないし。
ちょっとした隙間を見ると潜りたがるのは、と似ているような気がする。
「坊ちゃま? 今日のスープのお味はいかがでしたか? お口に合えばよろしいのですが」
ノエルは僕が朝食を食い終わるまで絶対に扉から離れない。
だから、無理くりでも用意されたものを腹に詰め込まないとゆっくり二度寝もできやしないのだ。
がたがたと椅子を引いてきて腰かけ、トレイの上で湯気を立てているスープと白パン、それにベーコンエッグを一気呵成に掻っ込んだ。
うぐっ。慌てていたせいで、気管に若干詰まったのか、げほげほ激しく咽た。
目尻に涙が、おえっ。
「坊ちゃま! お喉にお詰まり遊ばしたのですか? 水を! お水をっ!」
小口から水の入ったコップが突き出され慌てて呑み込むと、ようやく一息つけた。
「もうっ。これだから、よく噛んでくださいませといつも申しておりますのに……」
それにしてもいつもながら騒がしい小娘だ。
僕は朝起きてから一語も発していないのに、ぺちゃくちゃとよく喋る。
ノエルはきっとお喋り雀かなにかなんだろうなぁ。
「残念ですが、ノエルはどこにでもいるかわいいメイドでございますよ」
なにも聞いてないし、いってない。
たまに思うのだが、こいつは僕の心を読んでいるんじゃないかな。
食い終わったトレイを小口に突っ込むと、さーっと引き抜かれる。
いつもなら、ぱたぱたと足音がして去っていくはずなのだが……。
今日に限ってちっとも遠ざかる様子がないので不審に思い、小口をつい覗き込んだ。
「じーっ」
「わっ!」
ノエルのまん丸なふたつの目玉がこっちを見つめていた。
視線がもろにかち合って、椅子から転げ落ちそうになる。
「びびび、びっくりするじゃないかぁ。や、ややや、やめてよ」
ずっと声を出していなかったので舌がもつれる。
ううっ。恥ずかしい。
僕は、酷い吃音癖があって、緊張したりすると上手く喋れなくなるのだ。
「あ! やっとお声を出してくだいましたねー。ノエルはうれしいです。今朝はひとこともお言葉をいただいておりませんでしたので」
正直にいうと。
僕こと、ナイト・M・ルフェは極度の対人恐怖症だ。
そして、極めつけに苦手なのが若い女であったりもする。
同年代の女性の前に立つと緊張して顔が真っ赤になり、頭がカッと燃え立ってなにも考えられなくなるほどシャイなのだ。
人間として致命的な弱点であるが、それでも慣れというものは存在する。
現に、扉の向こう側にいるメイドのノエルとは、はじめまったく言葉をかわすことも思いもよらなかったが、三年も経てばやはり症状は緩和されてきた。
今は、軽口だってときには叩くことがあるんだ。
でも、いつか見た、わりかしかわいらしい容姿を思い出すと、喉奥に石が詰まったように声が出なくなることがある。
これが扉越しでなかったらどうなるかは火を見るよりも明らかなんだけどね!
「わたしは心配しておりましたのですよ。坊ちゃまは名門ルフェ家の大事な大事な跡取りでございます。そういえば、今朝は旦那さまと奥方さまから重要なお話があると聞き及んでおりますが……。昨晩、なにかございましたでしょうか?」
ノエルが、「くぅん」とばかりに媚びたような声を出す。なんというか、女のこういった甘えるような口調は苦手だ。胸がドキドキして上手く喋れなくなってしまう。
「心配です、心配ですう」
またか。ノエルの心配ですが出たよ。
そういえば、昨日の夜も親父とお袋と一戦交えたのだ。
交えたといえば聞こえは猛々しいが、その実いつもどおり彼らの泣き落としに時間を費やしただけにほかならない。
僕の父であるイングウェイと母のビルギットはひきこもりをなんとかやめさせようと、定期的にいろんな手段を使って扉をこじ開けようと画策するのだが、この十年間一度も成功はしていなかった。
答えは単純明快。
僕の魔力のほうが彼らよりもすぐれているからだ。
十歳のときに、自室である魔術師の工房に引き籠ると宣言し、扉に強力な結界を張って以来、この砦はなんびとたりとも足を踏み入れることができない要塞と化したのだ。
そう。ハッキリいって、僕に外の世界は必要ない。
欲しい書物ならノエルに命じて幾らでも取り寄せられるし、この誰も訪ねて来ない工房ならなんの気兼ねもなく魔術の研究に没頭できる。
はん!
そもそも僕のような天才には、凡人と並んで学舎で低劣な授業を受ける必要なんてないんだよね。
それがわからないなんて、悲しい人たちだよ。
ホントに。
「……さ、さささ、昨晩は」
「昨晩は?」
「と、特になにもなかった。さあ、こここ、これで満足だろうっ。とっととどっか行けよ!」
もうずいぶんと長い間大声を出していなかったので上ずってしまったが、いつもの軽口がないところを見ると、生意気小娘のノエルも怯えて退散したのだろう。
ふふっ。聡明な上に畏怖に満ちた僕って最強過ぎじゃね?
軽く笑って顔を上げた途端、轟雷が落ちたような衝撃が全身を襲った。
ドーン
と。
巨大な波濤のような揺れが室内に木霊している。
鉄壁の防御結界をかけた扉が内側にはち切れんほど、大きくたわんだ。
「え、あ。あひ、ひぃ。な、なんで?」
理由はただひとしかない。誰かが、部屋に入ろうとして魔術結界を破りにかかったのだ。
最初の衝撃が凄すぎたのか、思わず床に腰を下ろしてしまったが、冷静を取り繕って立ち上がった。
この扉は僕が精魂込めて魔力を注入し続けた逸品だ。
そして、この十年間あらゆる古文書を紐解き魔術に研鑽を重ねてきた結界が、そう簡単に破壊できるはずがない。
ありえないんだよ。
両親が今度はどんな術者に依頼したのか知らないけど無駄ってもんなんだよねっ。
そう高を括っていた時期もありました。
扉は。
巨大な圧力に抗しかねて、ふたつに折れて四散した。
爆風をさける暇もなかった。
力技でぶち破られた余波が、ぐわんと全身に浴びせられた。
咄嗟に防御陣を張るものの、魔力の膨大な余波はガードごと僕を紙切れのように軽々と吹き飛ばしたのだ。
座っていた僕の身体もころころと転がりまくって反対側の壁に叩きつけられた。
「ぐあっ!」
さすがにこいつは効いた。目の前にチカチカと火花が散った。
「ナイトちゃんっ」
「ナイトくんっ」
扉が破られたと同時に、壮年の男性と、若い女性が駆け寄って僕を抱き起こした。
もさもさとした口髭を生やした男は父のイングゥエイで、若々しいエルフの女は母のビルギットだ。
もう十年近くまともに顔を合わせていなかったが、さすがに忘れるはずもなかった。
僕は、長らく忘れていた人間の肌触りにとまどいながらも、目を白黒させた。
「お義父さまっ。開けて欲しいとはいいましたがこんな乱暴ななさり方はあんまりじゃないですかっ。ナイトちゃんが怪我をしたらどうするんですかっ!」
ビルギットは俺を抱きしめながらキンキン声で叫んだ。
久方ぶりの再会なのか抱擁が熱すぎる。ついでにデカすぎる胸で呼吸もままならない。
く、苦しい。だが苦しがっている場合ではない。
「ち、父上。お手柔らかに……」
渋みのある重く太い声が引き攣っている。親父のイングゥエイだ。
この男、ゴリマッチョを具現化したような筋肉バカであり、王都の青盾騎士団の団長を務めるほどの剣の達人にしてこの世に怖いものなしの豪傑だ。
そんな男が父と呼んで恐れる人間はこの地上にただひとりしかいない。
「イングウェイ。相変わらずの甘やかしようじゃな」
この声だ。
僕はビルギットからもがいて逃げると、戸口で立っている小柄な老人を見て肝を冷やした。
もっとも恐れていた人間がそこに存在していた。
確か御年八十を超えているはずなのだが、群青色のローブを着込んだその姿は矍鑠としている。
ピンとした背筋は微塵も曲がっていない。
ルフェ家の血統のせいか年寄りのくせに恐ろしいほど偉丈夫だ。
皺くちゃな顔は長年の風雪に耐えた古木を思わせ、途方もない深みと存在感を痩身に与えていた。その冷え切った眼力の前では身動きひとつ取れそうもないほど威圧感があった。
メルキオール。
僕の祖父にして、ロムレス王国の王宮魔道士。泣く子も黙る元老院の大重鎮だ。
「ナイト、元気そうじゃな。その後、魔術の研鑽は怠っていないそうじゃが。なにより」
「お、おおお、お祖父さま。きょ、きょきょきょきょ、今日はどのようなご用件、で」
こえええぇ! 爺さん威圧感あり過ぎっ! 怖いよおぉおおっ!
もう緊張するを通り越して、心臓がバクバクいっている。
ストレスはマッハだ。僕の頭のなかにあるのは、今すぐベッドに潜り込んで夢の国に旅立ちたいという切なる思いでいっぱいだった。
祖父であるメルキオールは僕がひきこもり生活をはじめても、なにひとつ意見しようとしなかったから、てっきり黙認してくれていると思っていたのにぃい。
この大魔道士の恐ろしさは、巷間に流布されているものだけでも、途方もない武勇伝は数限りなくある。
若き日に百万の敵兵を屠ったのだ、単騎で竜を討ったのだの。
父であるイングゥエイはメルキオール爺さまに幼少期においてよほどトラウマを植えつけられたのか、たまに騎士団の練兵所で会うなどの予定が入った日には、ひきこもりの息子の部屋の前で、ぶちぶち延々と愚痴るほどの恐ろしさなのだ。
「む。用件か。そういえば、おまえも今年で二十になったとか。近頃いろいろと忙しくて、会いに来ようと思っとったのだが、なかなか暇が取れんでのう」
んじゃあ、無理して来なくていいんだよおおっ。おじいちゃあーんっ。
「で、今日は、これを連れて来たんじゃ」
は。
僕だけではなく、父母もメルキオールの背から姿を現わした少女を見て固まった。
美しい少女だった。
十代半ばくらいだろうか、黒く美しい髪を腰まで伸ばしている。瞳は深い海のような青で見ているだけで吸い込まれそうなほどなんともいえない力があった。
ぷりっとした桜色の唇に、白い厚手のローブの上からもくっきりわかるほど豊満な胸から視線をはずすことはできそうにない。
「ち、父上。その娘は、いったいどなたなんで……」
最初に混乱から立ち直ったイングゥエイがかろうじていった。
「ナイトさま、ですか?」
か、かわいい……。
少女は可憐な花のようにニッコリと微笑むと、つかつか歩み寄って跪き、まだ状況の飲み込めない僕の手を取った。
白い長手袋から伝わる温度と、ふわりと鼻先に漂う甘いような香りで頭がくらくらする。
妖精のような少女は目を細め、握った僕の手にもう片方を寄せて妖艶に唇を動かした。
「はじめまして、旦那さま。私、アリシア・デュ・コロワと申します。ふつつかものですが、今日から末永くお世話になります」
――なにをいっているのか。理解できない。
「お、お祖父さま。この娘は、なにを――」
「ナイトよ。このアリシアが今日からおまえの嫁じゃ。せいぜい、励めよ」
メルキオールが皺くちゃの顔を歪ませ、笑みを形作る。
そこまでが限界で――僕は意識を手放した。
輪廻転生、という概念がある。文字通り生まれ変わりを意味する言葉だ。
この生まれ変わりを定義すれば、主体である〈僕〉が肉体的な死を迎えたのち、新たに別の身体を持って世界に再生することといえる。
この生まれ変わりには、細かく考えると幾つもの種類に分けることができるが、あえてそれらを取っ払ってフラットに考えると、古代インドで考えられた輪廻型に当てはまる。
人間の霊魂は流転し、いつ、どこで、どのような人物として再生するか見当もつかない。
カトリックの公式教義が記されている「公教要理(カテキズム)」には「人生は一度限りのもので輪廻転生はない」とはっきり明言されているが、この場合そういうかたっ苦しいことは考えなくてもかまわない。
ありていに申せば僕の前世は日本人だ。
姓を内藤といい、ありふれたひきこもりの学生だった。
自分が死んだ日のことはよく覚えている。ネットゲーム中に「あっ」と胸が苦しくなったかと思えば、気づかぬうちにこの世をおさらばしていたのだ。
たぶん、急性心不全かなにかだったのだろう。
思えば、高校に入学し、理不尽なイジメに耐えかね、仮想世界に逃げ込んだダメ人間としては順当な末路だった。
思えば、チビでブサメンで、片親で家は貧しい。
そんな人間が県で有数の進学校に入ったのがそもそも間違いだったのだろう。
僕は、自分でいうのもなんだが勉強はもの凄くできた。学校の勉強で苦労したことは一度もない。
シャカリキになって塾通いをしている連中からすれば、授業しか聞かず、常に学年トップだった存在が疎ましかったのだろうと今になって思う。
もっとも塾に行かなかったのはそんな金がなかったからなんだけどね。
自分にも悪いところはあった。そんなふうに一生懸命になっていたクラスの連中をどこか見下していたのだと思う。
だから、いつの間にかつまはじきにされてしまったのは自業自得なんだ。
それに、対人恐怖症も悪かった。僕はあらゆる人間とロクに口も利けず孤立していくのは当然だったんだ。
ひとことも口を利かないやつとなんか、どうやって仲よくなればいいんだろう。いうなれば、僕は群れのなかで生きてはいけない、劣った個体だったんだ。
椅子からすべり落ちていく瞬間のことは今でも鮮明に覚えている。
これでやっと楽になれたんだってね。
で、気づけばベッドの上だった。
再び目を開けた僕の周りには、なんというか奇怪極まりない少年少女が集まって驚いた顔をしていた。なにせ、誰もが、どう見ても馴染みのない西洋人の顔ばかり。
ワッとなって取りすがって来るが、彼らが使う言葉はまったく聞いたことのない未知の言語だった。
ほとんどコスプレとしか思えない、それこそゲームのなかに出てくる仮装をした異形の集団を見て、僕は自分の頭が今度こそ完全にいっちまったのかと確信しはじめていた。
まず、一番はじめに行ったのは鏡を見せてもらうことだった。けど、それは驚きに拍車をかける以外にほかならなかった。
鏡のなかに映った顔は、僕が今まで出会ったことのない、なんともかわいらしい少年のものだった。
それから、三ヵ月くらいベッドでの生活が続いたが、この期間に死に物狂いでこの世界の言語を習得した。いや、やろうと思えば人間なんでもできるもんだ。
結果判明したのは、ここは現代日本ではなく、ロムレスという聞いたことのない、いわゆる剣と魔法が支配する異世界だった。
僕……ではなく、今の身体にあった少年の本名はナイト・M・ルフェ。年齢は十歳。王立魔道学院基礎学部の麒麟児、ということだった。
ナイト少年は川遊びの最中に誤って転落し、災禍にあったらしい。らしい、というのはそれこそ昼夜問わずべったり張りついている、彼の両親からの話だった。
父親のイングウェイは四十歳になったばかりの精力あふれるナイスミドル。
母親のビルギットは二十五歳の耳がとんがったエルフ族の美女だった。
論ずる必要もなく、ルフェ家自体が広大な領地と爵位を持つ大貴族だ。
ならば、このナイト少年がケタはずれて整った容姿を持っているというのも納得がいくのである。大貴族なら美女とやりまくりで、結果生まれる子は美しいに決まっている。
富も名声も美貌も、ピラミッドの頂点に集中するのは致し方ない。
僕は生まれ変わった! いわゆる輪廻転生であるが……このとき気づいたのは、通常のリインカネーションとは、ちょっと違うということだ。
生まれ変わりなら赤子からはじまるべきなのであるが、僕の霊魂は異世界の溺死したナイト少年の身体に宿った。
これを便宜的に「憑依型輪廻転生」とすると、やはり厄介な部分も目につく。人生における人間関係は完全にリセットされていない。
現に、目の前の夫婦は、この僕が愛らしい「自分たちの息子」であるナイト少年であると信じ、これっぽっちも疑わなかった。
それに、僕自身の心の問題もあった。正直、ふたりは僕が求めてやまなかった理想の両親であった。
かつて、日本で暮らしていたときは、母はシングルマザーであったし、僕がひきこもったときは、飲み屋で知り合った男性といい仲になっていたらしく、正直疎まれていた。
僕は誰にも愛されたことがなかったので、イングウェイとビルギットの無償の愛にどう応えていいかまったくわからなかった。
けれど、すべては事故の後遺症ということで許されていく。それが辛かった。
折角、このような特権階級に生まれ変わったんだ。
もう一度、頑張って人生をやり直してい見るのもいいのかも知れない。
最初はそう意気込んでいた。
退院したのち、ひと月だけ魔術を習う魔道学院に通ったが、やはり馴染めなかった。
ナイト少年は、十歳にして、もう非の打ちどころのないほどのリア充だったのだ。
もちろん、つじつまが合わない部分などは、事故により記憶が失われたと取り繕っていたが、早々に対人恐怖症という不治の病が治るはずもなく、取り巻きの友人たちは僕の不甲斐なさに呆れ、ひとり、またひとり離れていった。
いや、最後に幼馴染だったやせっぽちの少女だけは金魚のふんみたいに「がんばろうよ!」を連呼してくっついてきたが、その前に僕が耐えきれずドロップアウトしてしまったんだ。
すぐれた家柄――そう、ルフェ家は代々ロムレス王家の王宮魔道士を輩出する名門中の名門であった。その上、父母から受け継いだ際立った容姿も、中身の腐り具合の前では手も足も出なかった。
結論。人間中身が一番大事。
そしてダメだった僕は、世のために人のため、再びひきこもることを選び取ったのだ。
幸か不幸か、ナイトくんと僕の身体の親和性は抜群だったし、自分自身この世界の魔術という未知の業は、しっくりと馴染んだ。
自室――すなわち魔術師の「工房」に立てこもると、扉を覚えたての魔術でガチガチに封鎖した。
一度だけ、祖父のメルキオールと穴越しに対峙したが、彼は別段なにもいわずに帰っていった。
今思えば、彼にとって孫が穴倉に籠って魔術に没頭することはむしろ望ましい傾向だったとわかる。
事実、僕は十年間の研鑽のおかげで、この世に現存する魔術のすべてを習得してしまった。しかも、ほぼ独学でだ。辛いと思ったことは一度もない。それが、王宮魔道士の家に生まれたルフェ家の血であるとするならば、因果なものだ。
と、まあ気絶から復帰して、目の前にいるメルキオールお祖父さまとサシで話し合いをしなけりゃいけない状況になっていたので、軽く現実逃避してみた。
爺さまは無言である。僕も口数は多くない、というかまったく喋らないので話は一向に進まない。
談話室で向かい合っている。というか、そんな部屋があったことすら知らなかった。
今日は起床してから驚天動地の展開が目まぐるしく起こっているので、ちょっと感覚が麻痺してきたのかもしれない。
「ナイトよ。魔術の研鑽に励んでおるかの」
「は、はい」
……。
話が終わっちまったよ! 爺さん、僕とお喋りがしたいんじゃなかったんですかねぇ。
が、こうして向かい合ってみると、最初に感じた威圧感は若干薄らいでいるような気がしないでもない。いやいやながらトイメンのシワくちゃを直視した。
このジジィ。年のせいなのか、瞳の水晶体が濁っている。
後方から思わずガツンとやりたい衝動に駆られた。
「実はの、もうほとんど目は見えん。儂も今年で八十二じゃからの。仕方ないわ」
そうなのか。もっとも、パッと見たところ身体の動きはシャキシャキしているので、わからなかったが。僕なんより、ずっと精力的な感じはするね。
「今、目が見えなければ不自由じゃと思ったのだろうが、心配はいらぬわ。儂は魔力で、直接世界を感じ取っておる。視覚になんぞ頼らんでも、直接、目の前の情景すべてを頭のなかにイメージとして投影しておるのじゃ」
ああ、じゃあ、ちょっと安心した。魔術ってホント便利だねぇ。
「おまえはイングウェイに似ず無口じゃな。儂も、ついついかわいい孫の前では多弁になってしまうわ。男は、無駄口を叩かんほうがいい」
勝手に喋って喉をくつくつと鳴らしている。
そもそも対人スキルゼロの僕と、偏屈を凝結させた爺さんをひとつところに留め置くなんて、両親はどうかしていると思う。
「今日、儂が連れて来たおまえの嫁じゃがの。どうだ?」
どうだ、といわれても。
正直、若い女と向かい合うだけで冷汗三斗なもんで、どうにもこうにも品評できないんだよね。
「あの娘、儂がルフェ家の領地で集めた美女五千の内から選りすぐった、逸品じゃ。身体ともに健康の上、器量は、そうよのう。同年代に限ればこの王都でも、十本の指に入るほどじゃと自負している。若いころ、女に関しては極道ばかりしとった儂がいうからにゃ、間違いはないじゃろう。胸も尻も、今が食いごろじゃ。たんと喰らって、子を孕ませい」
メルキオールはにこりともせずにいってのけた。
いやいやいや。今さっき会ったばかりですよ。
口をまともに利けるかどうか、こっちは心配しているのに、子を作れって飛躍し過ぎィ!
「正直なところの。工房にひきこもろうがなにしようが、すべておまえの人生じゃ。ナイトよ、これだけは覚えておけい。我がルフェ家は魔道の名門。この本質を理解しておるか?
つまるところ、我が家の家訓は、魔術さえすぐれていれば、すべてが許される――。これに尽きる。イングゥエイの阿呆は、まったく儂のひと粒種とは思えんほど魔術の才がなかった。
その分、おまえは生まれたときから、魔力量は抜群にすぐれておった。じゃから、儂が嫁に選んだアリシアは器量だけではなく、魔術の才にずば抜けた娘を探し当てたつもりじゃ。
ハッキリいって、あれほど才のある娘もまずどこを探してもおらん。儂が、あと二十ほど若かければ、自ら種をくれてやろうと思ったかもしれんが、なにせ年が年じゃしの。
儂は、今までの人生で欲しいものはすべて手に入れて来たつもりじゃ。子供もたんと作ったが、五十八人いるなかで男子はイングゥエイだけじゃった。それだけに悔いが残る。
おまえももう二十じゃ。儂はその頃、の。すでに四人目の子を孕ませておったわ。魔術の研究もいいが、そろそろ後継者作りにも励んでもらわねば、死んでも死に切れん。儂は四十くらいまで好き勝手やらせてもらったが、まだ若いおまえに細かいことをいいたくはないが、そろそろ女に慣れてもらわなければと思っての」
メルキオールはそれだけいうと、僕の頭をぽんぽんと軽く撫で、杖を手渡してきた。
「ささやかな手土産じゃ。イングゥエイにはあまり見せるなよ。うるさいからの」
握らされたのは、はっきりってシティボーイだった僕には似つかわしくない、それこそファンタジー世界で意地悪な魔女が持ってそうなイチイの木でできた折れ曲がった杖だった
祖父であるメルキオールが立派な馬車に乗って去っていったのち。
僕は部屋の前で聞き耳を立てていたイングゥエイにぽーいと放り投げた。
だって、こんなのいらないもん。
汚いし古臭いし。
「これは……! 大賢者アスペルの杖! ナイトくんっ、これはルフェ家の家宝だよ。父上ェ。ぼくがいっくら強請っても、見せてもくれなかったくせにぃいい。ナイトくんには甘いんだよなぁっ!」
そういってイングゥエイは下唇を噛むと恨めしそうに僕を睨んだ。
そりゃそうだ。
アンタ、魔術の才脳皆無だし、魔力はアリ並みだしなぁ。
あ。ていうか、意外と部屋の外に出ても平気なもんだ。
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