第7話

 浴衣にスニーカーと何ともちぐはぐな姿になってしまったけど、背に腹は代えられない。


 ハナはいつも庭で放し飼いにしていた。穏やかで人を噛むこともないし、一度も脱走なんてしたことなかったから、繋いでおく必要性を感じたことすらなかった。

 どうして脱走なんて……?

 驚きと戸惑いが私の頭を埋め尽くす。動揺した心でも足だけはと何とか動かして、もう見えなくなってしまった藤倉君の後を追った。

 見た限りでは、ハナは学校の方へと走って行ったようだった。

 あんなに急いで、途中事故にでも遭ってたらどうしよう。ハナが道路で血まみれになりながら横たわる姿を想像してしまって、慌てて首を振った。


「ハナーっ! ハナーっ!」


 大声を出しながら、ひょっとしたらどこかのお宅の庭からひょっこり顔を出すんじゃないかと、一軒一軒に目を凝らす。でもそんな淡い期待にハナが応えてくれることはなくて、気付けば学校までもう半分、そんな所まで来てしまっていた。

 すると前方に藤倉君の背中が見えてくる。例のバス停で、彼はきょろきょろと辺りを見回していた。


「藤倉君!」


 私の呼びかけに、ビクリと彼の肩が跳ねた。振り向いた顔には、焦燥が浮かんでいる。


「見つからない?」

「うらら……うん。でも、さっきちらっと見えた気がしたんだ」


 その言葉に、私は慌てて左右に視線を走らせた。


「どっち?」


 ざわざわと風に揺れる欅が、妙に不気味に映った。暗いからか、以前彼に変な話をされたからか。


「うららは家に」

 ――ワンワン!


 彼が何か言いかけたと同時に、茂みから大きな鳴き声が聞こえ、ハナが飛び出してきた。


「ハナ!」


 私はほっとして駆け寄る。しかしハナはそんな私に目もくれず、石段をぴょんぴょんと上がって行ってしまった。覆い被さるように伸びる欅の下、その姿はまたすぐに闇に溶け込んでしまう。


「待って!」


 私は急いで後を追おうと、石段を一段飛ばしで駆け上がり始めた。


「行くなっ!」


 だけどそんな私に、藤倉君の口からは聞いたこともない、怒声とも取れるほどの大声が浴びせられる。明らかな命令口調。彼と知り合ってから、一度だってそんな風に言われたことはなかったから、驚きに思わず足が止まった。

 少しだけ二人の間に気まずい沈黙が流れ、だけどそれにより私の耳が、微かな音を捉えた。


 これは……お囃子?


 振り返っても階段の先は相変わらずの暗さで、でも目を凝らせば、僅かに灯る明かりが見えた。色とりどりに光るそれ、そして、軽快なリズム。

 そういえばこの上には、神社が建っているのではなかったか。


 もしかして……?

 上ではお祭りが行なわれている? 


 犬の嗅覚がどれほど優れているのか具体的には分からなかったけれども、もしかしたらハナは、大好物のお好み焼きの匂いに釣られてここまで来てしまったのではないだろうか。

 それなら急げば、きっと追い付ける。


「ハナを見失っちゃう! 大丈夫、私スニーカーだから!」


 藤倉君に怒鳴られたことは、正直驚いたしショックだった。でもきっと、草履を履いているからと心配した彼が、慌てると転ぶぞ、そう忠告したかったんだと私は勝手に結論付けた。

 再び私は、階段を駆け上がり始める。


「うらら、頼むから待ってくれ! 俺が行く!」


 いくら彼が速くても、下駄とスニーカー。そしてここは段差もまちまちの歩きにくい石段だ。今は絶対に私のが速い。


 いつになく必死な様子の彼が気にならなかったわけじゃない。でも、小さい頃から家族として過ごしてきたハナの存在に、このときは軍配が上がってしまった。

 それにちょっと暗いけど、たかが石段だもの、そう軽く思ってしまったことは確かだった。


 ほどなくして頂上が見えてくる。

 視界に入る、こぢんまりとした神社。境内には所狭しと灯る提灯に、建ち並ぶ屋台。

 やっぱりお祭りだ。

 でも人はあまりいなかった。恐らくは私たちが行こうとした、大きなお祭りの方に流れてしまったのだろう。


 視線を巡らせれば、尻尾を千切れんばかりに振る白い後ろ姿がすぐに目についた。ハナはちょうど、右前方に位置するお好み焼き屋さんの前に陣取っていたのだ。


「ハナっ!」


 大きめに呼びかけると、漸くハナが振り返ってくれた。

 もう、人騒がせなんだから! 私が足を緩めた、そのときだった。


 ――ドンッ。


 横の茂みがガサリと蠢いたと同時に、突如激しい衝撃に見舞われる。


 ――え? 何?


 体が傾いだ反動で視線が横へとぶれた。その瞬間見えたのは、暗闇から生えたように、こちらへ向かって突き出されている両の手。


 ――突き、飛ばされた? 


 思い至ったときには、既に石段を踏み外していた。踏ん張ろうと思ったけれども、もう間に合わない。ずるっと足が滑り、背中がチクチクするほどの冷や汗が、一瞬にして吹き出した。


 スローモーションで反転する私の視界に、暗い中でも異様なまでに爛々と輝く二つの瞳が、ストロボの残像のように焼き付いた。


 私を押したのは――――西本さんだった。

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