第8話

 咄嗟に頭を庇うけれども、でこぼこした石段は、思ってもみない所から私を攻撃してくる。押されたこともあって、あっという間に加速した私の体は、転げるようにして落ちていった。

 とにかく痛くて怖くて、何も考えられなかった。


「うららっ!」


 途中彼の叫び声が聞こえて、駆け上がって来る気配がした。

 でも私は、伸ばされた手を掴むことなんて絶対にできなかった。掴んだら、確実に彼も巻き添えになる。それは、ハナが倒れる姿を想像する以上に、私には耐えられないことだった。


 視界がぐるぐると回り、痛みと眩暈で気を失いそうになる頃、私の体は漸く止まった。

 暫くは起き上がれなくて、ぐったりと四肢を投げ出したまま横たわる。でも何とか、生きてるみたいだった。

 骨折、したかな? 

 今は体のそこかしこが痛くて、何処がどんな状態なのか想像すらできない。

 目線だけを動かせば、血相を変えた藤倉君が走って来るのが目に入った。

 良かった、彼は何ともないみたい。私は笑えなかったけど、心の底からほっとした。


 でもそこで、安心なんてしてはいけなかったんだ。


 急激に辺りが眩い光に包まれる。何事かと顔だけを懸命に動かし、私はその正体を探った。見えたのは恐らく、車のヘッドライト。

 視線を巡らせれば、石段はおろかバス停までもが視界に入るほどで、どうやら私の体は、勢い余って車道にまで転がり出たようだった。

 倒れている私に気付いたのだろう。車が急ブレーキをかける音だけが、耳の奥にこだまする。


 目を瞑り、諦念を抱かざるを得なかった。


 これは、罰なのかもしれない。他人の未来を勝手にいじった罰。

 でも、死をもってあがなえなんて、ちょっと酷すぎやしない? うまい話には裏があるって、よく言ったものだ。

 本当は、死ぬほど怖い。歯だってカチカチ言ってる。

 けれど体はもう、一ミリだって動かせなかった。火事場の馬鹿力も、今回ばかりは発揮できそうにない。

 轢かれて死ぬなんて、いったいどれほどの痛み? 涙が出そうになったけど、必死で歯を食いしばった。たったそれだけの動作ですら、私の顔には激痛が走る。でも悔しいからそんなこと、おくびにだって出してやらない。

 これは、おばあさんへの、最初で最後の抵抗。

 助けて! そう叫び出しそうになる口を、総動員した意地でギュッと閉じた。


 迫り来る、つんざくようなブレーキ音。 

 そして――――


 ――グシャッ


 私の体は物凄い衝撃を受けて、更に転がった。

 想像を絶する痛みに悲鳴を上げそうになったけど、そんな声を出せるほどの力もなくて、ぐっ、だか、げっ、だか、カエルが潰れたような声が私の口からは零れただけだった。

 死んだ方がマシ、そんな痛みに再び意識が薄れかける。

 でも、それで気付いた。


 ――生きてる? 


 人通りの少ない道だったけど、上でのお祭りもあってか、次第に人が集まってくる気配がした。悲鳴のような声も聞こえて、私はもしかしたら手か足か、もげちゃってたりするんじゃないだろうか? 見るに堪えない惨状の自分を思い浮かべる。


「早く、救急車呼べ!」

「おいっ、大丈夫か!」

「しっかりしろっ!」


 いろんな人の声が頭上を飛び交う。

 でも、何故だろう? 一番愛しい人がなかなか視界に現れてくれない。声すら聞こえない。

 藤倉君? どこ? 私は唯一自由になる瞳を必死で動かす。


「おい、女の子の方は意識があるぞ!」


 それで気付いたように、覗き込む男性が叫んだ。


「男の子の方はダメだ。出血も酷い」


 でも続いた声に、私の心臓は凍りついた。

 ……男の、子?

 声がした方へと目を向ければ、転がる下駄が目に入った。そしてその先には、裸足の足。裏を上にしたそれは、ピクリとも動いていなかった。

 まさか……? 

 轢かれると思ったときはどうやっても動かなかった体が、僅かにいうことをきく。


「ふ、ふじ、くら……くん」


 吐息ほどしか出ない声を、絞り出すように口から紡いだ。


 血溜まりの中に倒れる彼。綺麗な萌葱色の帯は、そのほとんどを赤黒く染めていた。


 何よ、何なのよ、これ――――


 信じられない光景に全身が震えだす。

 

 …………わ、悪い夢よね? ……そうよね? ねぇ、誰かそうだと言って?


 だってこんなこと、夢で以外あってはならないことだもの。


 冷静に思考を働かせるなんて、天地がひっくり返ったって絶対に無理だった。

 痛みを堪え必死で振り上げた拳。頬を抓るなんて芸当、今の自分には到底できそうにない。だから震えるそれを、顔面目掛けて思い切り振り下ろす。

 

 っ! 覚めろ! 覚めなさい! いつまで寝てんのよっ!


「何してるんだ! やめなさいっ!」


 けれども知らない男性に掴まれた腕が、激痛を伴って知らしめる。 

 これは決して夢なんかではない、と。


 両の目から、ぼたぼたっと勢いよく涙が零れた。

 徐々に広がる血だまりが、蒼くなった彼の唇が、全ては現実だと容赦なく私を責め立てる。

 浸食される帯がその色を全て変えたとき、彼の命も尽きてしまうんじゃないか、そんな恐ろしい予感が、不意に私を襲った。


 彼の傍に行きたくて、少しでも生きている証を掴みたくて、私は必死で手を伸ばす。でもそれを、周りの大人が止めにかかった。


「君だって相当酷い! 動いたらダメだ!」


 そんなの知ったこっちゃなかった。

 私は掛けられた手を勢いよく振り払う。


「邪魔しないでっ!」


 煩い! そうも叫んだかもしれなかった。半狂乱になって、自分でも何を言っているのか分からないくらい泣き喚いた。

 でも胸が痛くて、次第に呼吸がままならなくなる。声を出そうとした拍子に、血反吐が口からごぼっと溢れて、胸を刺されたような鋭い痛みが走った。


 藤倉君、藤倉君――――っ……!!


 声にならない悲鳴を上げて、私は懸命にもう一度手を伸ばす。

 だけど、神は無慈悲だ。彼にもう少しで手が届くというところで、私の世界は暗転してしまった。

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