第9話

 いよいよスタートした部活対抗リレーは、物凄い盛り上がりを見せている。特に注目を集めたのは演劇部。宝塚のようなド派手な衣装を纏っていて、ドレスの裾から覗いた足にはピンヒール。見えないところまで徹底する極めっぷりに、観客席からは大喝采。

 だけど鞠もその美しいフォームと美しい脚で、これまた黄色い声を浴びていた。走る姿は本当に綺麗で、まさに風を切る、そんな言葉がとてもよく似合った。勿論一位で次の走者へと繋ぐ。


 息を呑んで見つめていた私だったけど、あっという間に出番が近付いてくる。

 人という字を何度も書いては呑み込み、先程の藤倉君の言葉を頭の中で強制反芻させた。

 大丈夫、大丈夫、大丈夫……


 先輩が着物の裾をたくし上げ、なりふり構わず走る姿が迫って来た。私はレーンへと足を進める。緊張もピーク。

 でも練習したもの、精一杯、できる限り。

 息を大きく吸って深呼吸。

 接戦になっていて、セパレートになっていないレーンは前後が入り乱れ混乱を極める。先輩は私の姿を捉えられているだろうか、そう心配になったところへ飛び込んでくる、美しい着物の文様。


 来た! 私は何度も練習した注意点を思い出しながら、助走をつけ始めた――はずだった。

 勢いよく踏み出した足。なのにそれは地に着くことなく、ドンッという物凄い衝撃により空を切る。体が奇妙な浮遊感と共に傾いだけれども、次の瞬間には重力によって地に引きずり込まれ、最早どうすることもできなかった。投げ出され、多くの選手と接触する。痛いと感じる間もなく、強かに尻餅をついた。

 一瞬何が起こったのか分からなくなったけど、左上半身がズキズキと痛みを訴えていて、それで漸く思い至った。

 まさか、誰かに突き飛ばされた……?

 でも今はそんなこと気にしている場合ではない。とにかく急いで起き上がった。


「いい気味」


 そのとき、雑踏の中で微かに捉えた、嘲笑交じりの声。

 慌てて振り返ったけど、そこにはたくさんの生徒がいて、誰が発したのかは特定できなかった。 

 そんな間にも、後続の選手が次々と私を追い抜いて行く。


 いつの間にか傍まで来ていた先輩が、大丈夫? そう言って私の膝を見た。つられて目線を下げれば、わりと大きく出血していた。

 きっと心配してくれている、それは分かったけど、私は先輩を振り払って走り出した。

 だって、どうしてなの? あんなに必死で練習して、みんなで円陣まで組んで、頑張ろうって、優勝しようって。大丈夫だって魔法の言葉までもらって、なのに無様に転んで、私が全てを台無しにするの? 

 足の痛みなんて、心の痛みの比じゃなかった。

 いい気味? 嗤った声が許せなかった。

 私一人なら、この際そんな言葉は広い心で受け流そうじゃない。だけどこれは、団体戦なのよ。

 悔しさで涙が溢れそうになったけど、泣いてる暇があるならと必死で足を動かした。遅い私が更に遅くなって、でもありがたいことに、嵩張るユニフォームを着たり、大きな道具を持った選手が意外と多くて、それほど差は開いていなかった。

 足が折れても良い、本気でそう思った。みんなの思いが私のせいでダメになるなんて、その方がよっぽど耐えられなかった。


「月島ーっ!」


 ぐっと唇を噛み締めたそのとき、突如、前方から私を呼ぶ大声が聞こえた。

 滲んだ視界だってすぐに分かる。

 でも、どうして? 彼はアンカーのはずなのに。

 藤倉君はレーンに立って、精一杯私に向かって手を伸ばしていた。


「頑張れーっ!」


 大声を張り上げる彼の隣には、走り終えた鞠も、先程振り払ってしまった先輩もいて、一緒に応援してくれている。

 私は持っていた毛糸で涙を拭うと、彼目がけて必死に突き進んだ。思うように動かない足が、上がらない腕がもどかしい。

 どうしたのよ、頑張んなさいよ! 悔しくて足を叩いた。


「すげぇ頑張った!」


 何とか辿り着いたときには既に最下位になっていて、怒られても、何やってんだって罵られても仕方のない失態。でも彼は、タッチした私の手を軽く握ると、猛然と走り出した。諦めていないぞと態度で示してくれていて、ドリブルをしているなんて思えないスピードで、ぐんぐんと差を詰める。


『抜かされたって転んだって、俺が必ず取り返す』


 まさに有言実行。きっと彼は、私が気にしないように、今必死に走ってくれているのだ。


「美麗、救護テント行こう」


 鞠が私の肩に手を添えた。

 でも私は、走る彼の姿をどうしても最後まで見ていたくて、首を振った。

 それに実は、もう立つことさえ難しかった。悔しさと根性、私を走らせたのは精神力のみのようだった。それが切れた今、足首と手首は、猛烈な痛みを訴え始めていた。


 彼が次の選手へと繋ぐ。

 私たちのチームは、三位にまで浮上していた。転ばなければ一位で通過できたかもしれない、そう思ったら自然と視線は下がってしまう。

 これで満足? 太陽に焼け、陽炎の立ち昇る地面を睨みつける。でも私の瞳の方が、断然強い炎を宿しているに違いない。それなのに、そこからは一つ、また一つと雫が零れた。


「ごめんっ……」

「美麗……」


 鞠が私の背中を優しく撫でる。抱きついたら多分大声で泣いてしまう。だから私は必死で衝動を堪えた。

 ――なのに。


「月島、大丈夫?」


 視界に入る、白いバッシュ。しゃがんだ彼は、息すらまだ整っていなかった。

 何でそんなに優しいの? 私の瞳は、あっけなく涙のダムを決壊させた。


「ごめん、触るよ」


 彼の手が、私の足首を壊れ物のように触れる。


「いっ」


 顔を顰めた途端、ひんやり冷たい彼の手は、すぐに離れていってしまった。


「救護テント行こう。美濃部さん、後お願い」

「うん」


 彼は私の手を自分の肩へと持ち上げる。


「手首痛いかもだけど、少し我慢して」


 そのとき、擦り剥いていた私の肘から出た血が、彼のユニフォームに付いてしまった。


「汚れちゃう」


 咄嗟に手を引こうとしたけど、彼はそれを許してはくれなかった。


「構わないよ、手当てが先」


 それ以上は何も言わせない、瞳がそう言っていて、私はおとなしく従わざるを得ない。


「鞠、ありがとう。それと先輩、さっきはすみません。みんなが応援してくれたから、私走れました」


 頭を下げると、鞠はにっこり。先輩も、気にしないで、と優しい笑顔を向けてくれた。悔しさではない涙が、またポロリと零れた。

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