第3話

 ――それは、二年生の秋。


 学外研修という名目で、クラス毎で訪れた美術館での出来事だった。


 そのときは、フェルメールの『真珠の首飾りの少女』という作品が初来日していたときでもあった。だけど私は、正直に打ち明けてしまえば、代表作である『真珠の耳飾りの少女』ではなかったことに、軽く落胆していたのだ。似ているタイトルに勘違いをしていた私は、有名な絵画が見られると思って浮かれていた心に水を差された気分だった。

 友人たちも概ねそのような反応で、詐欺じゃない? という言葉まで飛び出すほど。作者が同じで詐欺もないだろう、とは思ったけど、似たような気持ちでいた私もその言葉に苦笑を返しながら、さして期待もせずにその絵画を眺めに行った。


 だけど一目見た瞬間、私の心は吸い寄せられ、足は縫い止められたように動かなくなった。

 雷に打たれたような物凄い衝撃ではない。疲れた心を優しく慰めるような、暖かく穏やかな風がそっと頬を撫でる、そんな感覚だった。

 絵の中の世界に迷い込んだ私。メトロポリタンミュージアム――そう、かつて聴いた歌のように。射し込む光に照らされて、宙を舞う小さな塵が、まるでダイアモンドダストのように煌めく。描かれてもいない馬車のリズミカルな馬の蹄や、カラカラと回る車輪の小気味良い音が、開け放たれた窓から聞こえてくる気さえした。

 本当に美しかった。陰が多いにもかかわらず、暗さは微塵も感じさせない。少女を照らす天恵のような光。全体が淡い色調なのに、真珠の首飾りだけは硬質な輝きを放ち、その存在を強く主張する。鏡に映る自分を、恍惚の眼差しで見つめる少女の口には、微かに笑みが浮かんでいた。


 けどそこで、ふと思ったんだ。描かれた少女自体は、決して美しくはないんじゃないか、と。勿論主観の問題だから、全員が全員そう思うとは言わない。でも、私からしたら友人の真希のほうがよっぽど綺麗に思えた。体型だって……うん、言っちゃ悪いけど太ってる。その頃はそれが綺麗の条件だった、という話を聞いたような気もするけど、今の日本では十分『デブ』にカテゴライズされる。

 でも、だ。そういった全てを取っ払ってしまえる美しさが、その絵にはあった。


 私は美人ではない。これは謙虚だとか自己評価が低いとかではなく、残念だが事実だ。髪くらいはせめて女の子らしく、と伸ばしてはみたものの、あまり話したことのないグループの女子から、陰で『こけし』と呼ばれているのを知ってしまった。目も細く、縦にばかりひょろひょろと伸びた背からも、自分のことながら言い得て妙だと笑ってしまったくらい。


 だからなのかもしれない。見た目の美醜ではない、内面の美しさが滲み出たようなこの絵が、私の心を捉えて離さなかったのは。


 自分も変われたら――

 冴えない自分から脱却できたら――


 そう思ったところで、今更どうして良いかなんて、だけどさっぱり分からなかった。十何年もこの性格で生きてきたのに、すぐに変われたら苦労しない。自嘲気味に笑って、もう行こう、と友人を促したつもりだった。

 でも気付けば周囲には、友人はおろか、同じ制服を着たクラスメイトさえ一人も見当たらない。いったいどれほどの時間、この絵に囚われていたのだろう。まるで、異国にでも一人取り残されたかのような心細さだった。焦って順路すらまともに探すこともできず、狼狽えるばかり。


 だけどそんな私に、後方から声がかかった。変声期を終えたばかりの、低く少し掠れたそれは、


「月島さん、こっち」


 ――振り向けば、藤倉君のものだった。


「あれ、みんなは?」


 彼は、薄く笑って私の手を引く。それがあまりにも自然で、酷く驚いたにもかかわらず、私は離すタイミングを失してしまった。


「もうとっくに出口に集合してる。行こう」


 けど言葉とは裏腹に、彼はあまり急ごうとはせず、順路に沿って残りを見て回るよう私をいざなう。

 良いのかな、ふと浮かんだ迷い。でも彼の笑顔を前に、そんな優等生の私は一瞬で跡形もなく消え去った。


 私たちは絵の下に付けられた説明はあえて読まずに、ああだこうだと勝手に解釈しては笑い合った。手を繋いだのも、こんなにたくさん話したのも、これが最初で最後だった。

 今思えば、まるでひと時のデートのようだったと思う。


 そんなに広くない美術館だったので、出口に着くまで十分もかからなかった。外の明かりが見える頃には、私たちの手は自然と離れ、そして彼は何事もなかったように、私を見付けたことを先生に報告していた。

 そうか、藤倉君は学級委員だから私を探しに来てくれたのか、とそのとき、私は何か淡い期待をしていた自分に驚いた。そして、学校一人気のある男子に手を引かれ、少しばかり有頂天になっていた自分を恥じた。


 もしきっかけがあるとするならば、このときだったのかもしれない。誰にでも、冴えない地味な私にすら分け隔てなく優しく接してくれた藤倉君に、尊敬と、そして少しの憧れを抱き始めたのは。


 手を繋いだ感触は、もう思い出せない。でも、彼の人柄と同じように温かかったことは今でも覚えている。話した内容は忘れてしまった。でも、感性が似ていたことも覚えていた。


 もうダメだ、挫けそうになる私の心をその度に奮い立たせたのは、胸の中に大切にしまわれた、この日の彼との思い出だった。

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