何をしてても上の空な伊藤さんが好き
伊藤さんを思うと、僕はもう何が何だか分かんなくなっちゃう。
例えば、仕事中なのに窓の外ばっか見てる伊藤さん。
例えば、大きな水たまりの前で動けなくなっちゃった伊藤さん。
ぽやっとした喋り方。そもそもが無口。そして恥ずかしそうに笑うあの、美術品のような笑顔。
何も知らない女の子がそのまんま大人になったらこんな風になるんだろうって見本のような伊藤さんの事を思う時、僕は義務教育の学生みたいにボーっとしてしまう。
「あ、荻原くん、今お昼?」
性欲の衝動以上にカレーうどんが食べたくなって入った会社近くのうどん屋で、伊藤さんが珍しく僕に気付いて手を振ってくる。
伊藤さんは、何故か僕にだけくだけた話し方をする。同期の女の子たちにも敬語の彼女だから、理由は分からないけどはっきり言って優越感である。
「座ってもいい?」
「いいよ」
聞きましたかオーディエンスの諸君っ! いいよ、だって! たぶんうちの会社の人間で、彼女のいいよ、を聞いた事があるのは僕だけなのではあるまいか?
念願のカレーうどんを注文して彼女の前に座ると、伊藤さんは不思議そうに僕を見て、視線が重なると、ぱっと、バッタみたいに目を逸らす。
「どうした?」
「目、合うの、怖い」
「僕でも?」
そう言うと、伊藤さんは右手の親指と人差し指で輪っかを作って、「ちょっと」って顔をした。
うん、そうなんです。ちょっと、って単語すらなかなか言えないんです、伊藤さんは。
「荻原くん」
「なに?」
「目ヤニ」
「え?」
「目ヤニ付いてる」
そうか。目ヤニか。そう言えば最後に顔洗ったり風呂入ったのいつだっけ? お恥ずかしいところをお見せしてしまったようだな。
「こっち」
「ん?」
「届かない」
「ん、何が?」
「顔」
ううむ。いくら伊藤さんマイスターの僕でも、ちょっと意味が分かりませんな。
そう思っていると。
「ハンカチ。バックのポッケ。あった」
ロボと話したらきっとこんな感じなんだろうなと思っていると、バックのポッケのハンカチを取り出した伊藤さんが机越しに身体を乗り出して僕の目頭を拭った。
「よし」
達成感を滲ませる顔で伊藤さんは一つ頷き、ついでに僕の前髪をさらっと撫でた。
「髪きれい」
「あ、ありがと」
「そんだけ」
伊藤さんはもそもそと、ゆっくりカレーうどんを食べ、僕は幸せな気持ちとカレーうどん早く来ないかなという気持ちがせめぎ合っている。
注文したカレーうどんが卓に届いたその時、伊藤さんは汁を飲み干して溜息をついた。
席を立つのかと思ったら、彼女はまだテーブル越しに僕を見ていて、視線が重なると、ぱっと、バッタみたいに目を逸らす。
「明日」
「ん?」
「お弁当作ったら、食べる?」
「え、いいの?」
ぽやーっとした視線をふらふらと店内に向け、俯いたまま、伊藤さんは右手の親指と人差し指で輪っかを作って、「ちょっと」って顔をした。
「ちょっと?」
「ううん。これはオッケー」
「なるほど」
「早起き。頑張る」
「うん。頑張れ」
「おいしくないよ?」
「うん。そこも頑張れ」
「荻原くん、かわいい」
伊藤さんは黙って、僕は黙ってカレーうどんをすすり、彼女は僕が食べ終わるまで席を立たなかった。
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