きみは30になった


 ハッピーバースデイ。付き合った二年半、後半の危なかった三か月。

 俺は気が付けば28で、きみは明日で30になる。

 仕事を始めてからの時間はあっという間だった。会社で怒られて、負けるかって毎日奮い立って満員電車に揺られ、それでも突然訪れる空白と虚無感に負けそうなとき、きみは俺の前に、まるで降り立った天使のように現れて笑顔をみせた。いつも眠たそうな目をしてるきみを笑わせたくて、いつの間にか半笑いのアルカイックスマイルが大好きになっていて、テンションを上げないきみの気持ちを盛り上げたくて初恋みたいにはしゃいでいた。時が経って、きみは俺の恋人になって、仕事で怒られることも少なくなって、出来るようになっていく事が余計に情熱を仕事に向けて、週末はきみと心をオフにする毎日。

 28の俺には30になるって感覚がよく分からない。29の一歳上ってことは理解できるけど、十の位が3になる焦りやがっかり感は想像するしかない。

 年上のきみ。追いつけない俺。

 けれど大人になってからの二歳差なんて何の問題もないのも事実だ。


 当日は朝から快晴で、出かけるにはもってこいの日和で、だけど二人とも会社で、「こんな物だよね」と笑い合う。きみは少女のように朝のコーヒーを楽しむし俺は上機嫌なきみの頬に久しぶりに朝からキスをする。

 今夜はちょっと贅沢なディナーをしようという約束を改めて確認して俺たちは家を出る。今日は絶対に定時で帰ってやる。一旦家に帰って着替えてから二人でレストランへ行く予定。七時の予約は昨日入れておいた。


 午前中は気配を殺してデスクワークをして、帰り際に文句を言われるのも嫌だったから昼休みも少し削って早め早めに、でも目立たないように今日のノルマをこなしていく。

 三時になるともう時計が気になっていた。集中からぱっとさめて時間を確認すると十五分しか経っていない、なんて事を数回繰り返して気が付けば四時前。

 はっきり言って今日の仕事はもうない。なんならもう帰ってもいいくらいだ。あとはサラリーマンに必須のスキル、仕事してるように見えるモードに移行して、メールチェックをするフリをして携帯ゲームで時間を潰す。

 五時を過ぎてオフィスは一応ひと区切りする。この時間だけの、何となく弛んだ空気。あとは残業するか帰れるかっていう狭間で、俺はしっかり作戦を練っていた。

 五時四十五分頃に、部長が帰ったのを確認してさり気なく離脱する。これでいこう。課長はまあ、なんとかなるだろう。

 そして五時三十五分。部長が席を立つ。お疲れ様でしたと今日ほど言いたかったことはない。部長の背中がオフィスを出ていって俺は勝利を確信する。

 部長が帰ったことでみんなもやっと気を楽に残業できるようになって、冗談を言いながらコーヒーを飲む同僚に心の中で謝る。悪いな、みんな。俺は帰らせてもらう。

 席を立とうとした時、電話が鳴った。俺はこの隙に出口へと向かい、今まさに「お疲れ様でした~」と会釈しようとしたら、課長がいつも以上に大きな声で「本当ですかっ」と電話口に言っているのが見えた。

 マズい。理由は分からないが何かマズい。俺は体がキュッと冷たくなるのを感じながら速足になったがダメだった。

「佐藤! 帰るな。ちょっと困ったことになったぞ」

 ああ、課長の声ムカつく。今日は特にだ。仕方なく戻って話しを聞くと、どうやら後輩の松山が取引先との話し合いでミスをしたらしく先方はえらくイカっているらしい。しらんわ、松山しっかりしろ。早急に資料の確認をして、何はともあれまずは先方に謝りに行くという。予定の時間は六時半。ちなみに俺も行くらしい。

 取引先に向かうタクシーの中で彼女に「急用ができた、少し遅くなる」とメールを打つとノータイムで電話がかかってきた。助手席の松山がびくびくと振り返り隣りの課長が眉をひそめた。なんだよ、アフターファイブだぞ。俺は若干二人にキレ気味で、いつもだったら出ない電話に出る。

「遅くなるってどのくらい?」

「とりあえず一時間はみてて。終わったら連絡入れるから家で待ってて」

「分かった。待ってるからね」

 電話を切ると松山が心底申し訳なさそうに俺を見て、俺は問題ないと言って彼の肩を叩く。課長は無言だった。


 いや、もう笑いが出るね。「ごめんなさい」の一言を二時間分に引き延ばして頭を下げてやると相手はさらに図に乗ってねちねちと文句を言う。

 やっと終わって時計を見ると九時十分前。ああ、俺たちの特別な夜が過ぎていく。

 会社に戻って三人で資料の見直しを初めからして、実は松山のミスだと思っていたところは課長が手直しさせたところだって分かって俺はやつの背中にドリルパンチをお見舞いしたくなる。「すまん」と本人的に男らしい謝り方をしたこのジジイを殺害したくなる。松山はそれでも自分が悪かったですと言う。ちょっと可愛いな、こいつ。

 九時半にまた電話がかかってきた。当然出る。

「まだ?」

「まだ。ごめんな」

「佐藤! 電話なんか切れっ!」

 うるっせー、ジジイ。クビにするぞっ!

 今決めた。今回の件、課長は部長に松山の責任と言うのだろうけど俺からジジイの責任です、としっかり言ってやろう。

 そして十一時半。なんなん、もう。あと三十分で今日終わるぞ。とりあえず今日はここまでにしようという事で話しはまとまって、俺はマッハで帰ろうとしたが、ジジイがこう言い放った。

「お疲れ、今日はオゴってやる。飲むぞ」

 松山の目は死んでいて俺の目は火を放っていた。

 やっすい居酒屋で飲みたくもないビールを飲んでクソジジイの武勇伝を聞かされて気が付けば午前の一時。


 ああ、ほんとマジごめん。

 365日かける2・5。日々が積み重なって、きみは昨日で30になった。

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