第17話 超苦い
「じゃあ俺部室から漫画持ってくるわ」
「ちょっと待ちなさいよ!!」
舞鶴が家庭科室にやって来てすぐ、俺は彼女に材料と調理器具の場所だけ教えた。その後、漫画を取りに行こうとしたのだが呼び止められてしまう。
「何だ?」
「私を置いてどこ行くの」
「だから部室」
「そういう意味じゃなくて。あんたが出て行ったら困るんだけど」
「すぐに戻って来るぞ。それに俺がいなくてもクッキー作るだけだし問題ないだろ。舞鶴は料理出来るんだろ?」
「……ならさっさと取りに行って来たら」
「言われなくても」
必要な下準備は福知の時と同じように済ませてある。舞鶴ならばすぐ調理に取り掛かるだろう。
家庭科室を出ると、いつも喧騒が絶えない廊下は静まり返っていた。土曜日は授業が無い為、部活のある生徒以外は来ないからだ。
人影一人見当たらない廊下に妙な感覚と高揚感を覚える。
廊下を進み、階を一つ上がった三階にある「お悩み解決部」部室までやって来た。カギを開け中に入り、いくつかの漫画を手に取り外に出る。一旦漫画を廊下に置いてカギを閉めた。
カツカツと靴が床を踏む音を廊下に響かせ歩く。のんびりと、心に余裕を持ちながら家庭科室へ向かった。
自分の役目は立也好みの味かどうか味見するだけなので、舞鶴が調理している間は漫画を読んでいればいい。福知に教えるのは苦労したが、今回は簡単そうだ。
誰もいない廊下を鼻歌交じりに歩いていると、吹奏楽部が楽器を弾く音が微かに耳を掠めていった。
家庭科室に戻ってくる。
舞鶴が作業しているのを無視し、邪魔にならない所に座った。
ガチャガチャ。
彼女が生地を混ぜる音が聞こえてくる。漫画を読むことに没頭した俺は、徐々にその音を気にしなくなり、時間が経つにつれ聞こえなくなっていった。
「天橋くんって甘い物が好きなのよね……。砂糖はもっと入れた方が良いのかな?」
ぶつぶつと舞鶴が呟くが、それも俺の耳には届かない。
「入れちゃえ」
バサッ。
「砂糖は最初に入れるって書いてあったけど、結局混ぜるんだし同じはず」
カチャカチャ。
「薄力粉入れて、切るように、混ぜる、と。……どうせそうするなら、ゴムベラの広い部分で押しつぶしてしまえば」
ペタッ、ムニュー。
漫画の展開に一区切りがつく。
その時、ちらりと舞鶴の様子を見てみると、とんでもないことになっていた。
「生地の厚さは四ミリぐらいか。どんぐらいだろ。とりあえず……えい」
グッ。
倍プッシュ!?
四ミリどころじゃない。舞鶴が押しつぶした生地の厚さは二ミリ程になっている。
彼女はその状態のクッキー生地を、型抜きをさっと済ませ冷蔵庫へ投入した。
ざわ……ざわ……。
不吉な予感がする。これは失敗するのではないだろうか。
別にあれだけの薄さでも、上手く作ればおいしいのだが、何故だか胸が騒ぐ。
過ぎたことを言っても仕方ない。生地を寝かせる為に一時間ほど待たなければいけないので、漫画の続きでも読んでおこう。
「後は焼くだけ!」
その声に反応し、顔を上げる。一時間が経過し、舞鶴は威勢よくオーブンにクッキー生地を入れていた。
どんな品でも、最低、焼けば何とか食える。今の内から覚悟を決めておいた。
ピッ。
オーブンが動き出す。クッキー生地に熱が入り、じわじわと固くなっていく。
舞鶴は強く見守る様にオーブンの前を陣取っていた。あれなら焼き過ぎる心配もないだろう。
焼き加減さえミスらなければ、原材料は一緒なのでクッキーとして食べることは出来るはずだ。
焼き上がるまでにはまだ数分かかる。かといって何かをするには時間が足りない。舞鶴と同じように、レンジを見つめて過ごすことにした。
机に肘をつき、手に顎を乗せる。ぼーっと眺めたまま、時間が経ち。
ぐぅ……。
…………。
…………。
はっ!
ガバッと起き上がる。気が付いたら寝てしまっていた。
慌てて時計を見ると、あれから更に数十分後まで針が進んでいる。
「え?」
舞鶴の様子を窺うと、未だオーブンの前で突っ立っていた。オーブンはその動きを止めていない。
慌てて舞鶴の傍へ駆け寄り、オーブンを止めた。
「いつまで焼いてるんだ?」
「オーブンの中って見辛いから、焼けてるのかどうか分かんないのよ」
仕方ないじゃないとでも言いたげに、舞鶴は答えた。
「薄々気づいちゃいたが……」
確信に近い疑問を投げかける。
「お前もしかして料理音痴?」
「……悪い?」
舞鶴はじろっと睨みつけて来た。
額に手を当て、溜息を一つ。
オーブンから取り出したクッキーは炭と化していた。
「これを食うのか……」
「別に食べなくても良いわよ」
「食べ物は残さない主義だ」
これが食べ物なのかは分からないが。
こうなってしまったのは、俺が舞鶴をほったらかしにしていたことにも原因がある為、彼女に責任の全てを押し付けはしない。
一つ、口に頰張る。
もぐもぐ…………うっ。
強烈な苦味が俺を襲った。吐きそうになるもグッと堪える。
「……少なくとも、立也はこれだけ苦いクッキーよりは甘い奴の方が好きだな」
「分かってる」
二つ目に手を伸ばす。
もぐもぐ……うっ。
三つ目。
もぐもぐ……うっ。
四つ目。
もぐもぐ……うう。
この辺りでかなり限界が近づいて来た。
「そんなに女子の手作りに飢えてるの?」
「うるせえ……うっ」
もうダメかもしれない。目の前には天国へ誘う天使の姿がぼやけて見えた。
なんだかとても眠いんだ……パトラッシュ……。
だが根性で踏ん張り、激闘の末、最後の一つを食べ切る。
歓喜する間も無く俺は意識を失った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
パチリ、目を開ける。
「知らない天井だ」
「起きて早々意味分かんないんだけど」
背中には柔らかい感触があった。すっと自分の体に目を流すと、掛け布団が掛けられているのが目に入る。
どうやら保健室のベッドで寝ていたらしい。むくりと体を起こし、舞鶴の姿を確認した。ベッドの隣の椅子に座り、スマホを弄っている。
寝ぼけた頭を整理し、何があったのかを思い出した。
「そうか、俺は毒にやられて……」
「毒は流石に失礼過ぎない?」
人を気絶させる程の力があるのだ。毒と言っても過言はない。
「あら、起きたのね」
ベッドの傍のカーテンが開けられる。白衣を着た保健室の伏見先生が、胸に実る巨峰と共に姿を出した。
舞鶴が自分の胸を確認した後、微かに舌打ちをしたことをこの耳は聞き逃さなかった。彼女のものは絶壁なので恨む気持ちも分かる。
「体調はどう?」
「大丈夫です」
起きてから、体に支障を感じることは無い。
「それなら良かったわ。あなたここに運び込まれた時は泡吹いてたのよ?」
「泡!?」
「何」
舞鶴の方を向くが、彼女は平然としていた。
やはりあのクッキーは毒で間違いない。一歩間違えば殺人事件にまで発展していただろう。
「どうする、まだ休んでおく?」
「いえ、もう行きます。ありがとうございました」
礼を述べると、伏見先生は首を横にふった。
「私は仕事でやってるだけよ。感謝なら、ずっと傍に座ってくれていた彼女さんにしなさい」
「「彼女じゃないです」」
「くすくす、仲の良いこと」
口に手を当て笑った後、伏見先生はベッドを離れて事務机まで戻っていった。
「あんたと勘違いされるのだけは耐えられない」
「こっちのセリフだ」
舞鶴に反省の色は見えないが、時計を見ると俺が倒れた時から一時間以上が経過していた。
「さて、再開するか」
「は?」
舞鶴は目をぱちくりする。意外だと言わんばかりだ。
「立也にプレゼントするんだろ。クッキー」
「……うん」
まだ舞鶴のクッキーは食べれる物ではない。これではさっきまでの時間が丸々無駄になってしまう。
あれだけの苦しい思いをしたのだから、このままでは納得がいかない。一度ぐらい成功させてやろう。
そう思い、気を取り直して家庭科室に向かおうとベッドから降りた時だった。
「でももう下校時間なんだけど」
「…………」
……そういえば七時に完全下校だったか。その時間を過ぎれば生徒達は帰らなくてはいけない。
万年帰宅部だったからそういうことは気づかないんだ。
時間を過ぎても保健室で休ませてくれた伏見先生にもう一度礼を言い、保健室を去った。
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