第37話 深夜のキス

*5月11日(金)雨*


「ごめん、今日はちょっと」


 向こうから聞こえる、申し訳なさそうな彼の声。


「あ……ううん。こっちも急に電話しちゃったし」

「ほんとごめん」

「ううん、気にしないで。また今度にしようよ」

「うん、ありがとう」


 通話終了ボタンを押すと、私の口からは無意識にため息がこぼれた。

こうやって断られるのは何度目になるだろう。

ここ一カ月くらい、徹くんからは誘いを断られ続けている。

シフトは全然噛みあわないし、私は平日が休みがほとんどだし、たまに夕食を一緒に食べに行くぐらいしかできないのに、最近はその機会すら減っている。

 というよりも、最近彼はあまりバイトに入っていない。

二年生になって、大学の勉強が大変になったんだろうな。そうは分かっていても、会えない時間が増えて寂しさを覚えるのは私がまだ大人になりきれてないからなのかな。

ようやく気持ちが届いて、また付き合えるようになったのに。

会う時にはその瞳にとても優しげな表情を乗せてくれるから、彼の心変わりを疑ったことはないけれど。

毎日でも会いたいって思ってるのは、私だけなのかな。

一言も話さなくてもいいの。ただ、視界に彼の姿があるだけで。それだけで私は頑張れるのに。

私の気持ちが大きくなりすぎて、空回りしてる気がする。

恋って不思議。強くもなれるし、弱くもなる。

もっともっと……って、際限なく強欲になる。

 はあ。また知らず知らずのうちにため息が口を衝いて出た。


私は鞄に携帯を戻すと、トボトボと家までの道を歩き始めた。

その夜、私の心を写し取ったかのように、雨足がどんどん強くなっていった。


*5月20日(日)晴れ*


 仕事を終えて携帯をチェックすると、徹くんの着信履歴が残っていた。

急いで身支度を済ませ店を出ると、すぐに折り返し電話を掛ける。


「綾乃さん、今晩あいてる? 会いたいんだけど」


 開口一番そう言われて、私の心は一瞬で舞い上がってしまった。


「あ、あいてる! わ、私も会いたい!」

 

 うわ、嬉しすぎて思わずどもってしまった。


「じゃあ、そっちに向かうからそこで待ってて」


 くすりと笑った声を最後に、通話が切れた。


 久々にお酒が飲みたい、と言った徹くんと一緒に、居酒屋へ行くことになった。去年徹くんの歓迎会で行ったお店だ。


「私、お酒はちょっと」

「何で? 飲もうよ」

「いやー。けっこう失敗しちゃってるから」

「大丈夫、もしつぶれてもまたおんぶして帰ってあげるから」


 もう、そんなこと思い出させないでよ、と責めるように言うと、徹くんが嬉しそうに笑った。何だか今日の徹くんはいつになくテンションが高い。

何かいいことでもあったのかな?


「ね? 一緒に飲もうよ」

「うーん」

「ね? お願い」


 なんですか、このかわいい生き物は。こんなかわいくお願いされたら、断るものも断れない。


「じゃあ、ちょっとだけ」

「やった!」


 さらに笑顔になった徹くんは、店員を呼ぶと飲み物と食べ物の注文をしてくれる。私が好きそうな物を知ってくれているのが嬉しい。


「今日はすごく明るいね。何かいいことでもあったの?」

「うーん、いいことっていうか、終わったっていうか」

「終わった?」

「これ以上は内緒」

「えー何? 気になる」

「いつか、言うよ。だからそれまでお預け」


 そう言っていたずらっ子のように微笑む。……これ以上は何度聞いても答えてくれないんだろうね。もう、自分ばっかり楽しそうでずるいよ。

私は不貞腐れてコップをぐいっと傾けた。




「送ってくれてありがとう」

「ううん、俺が送りたかっただけだから」


 今日も徹くんが家まで送ってくれた。店を切り上げたのは結構早い時間だったと思う。あんなにはしゃいでた徹くんだったけど、しばらく経つととても眠そうに見えたから。そういえば最初に顔を見た時も、あれ、疲れてるのかな、って思ったんだよね。すぐに楽しそうな笑顔になったから勘違いかと思ってたけど。


「じゃあ、お休み」


 私は帰りそうになった徹くんの服の裾を咄嗟に掴んでしまった。


「あ、ごめん。気を付けて帰ってね」

「何? どうかした?」

「いや、本当に何でも無いの。ごめん、引きとめて。早く帰って休んで」


 徹くんは私の顔を覗きこんで私の真意を探ろうとする。私は心を読まれないように咄嗟に顔を下に向けた。


「やっぱ何か言いたいことがあるんじゃない? 言って。何でも話そうって約束したよね」


 根気よく私の言葉を待つ徹くんに根負けして、私はゆっくりと言葉を選びながら言葉をつづけた。


「……別に何も。ただ、最近徹くんが忙しそうで……」

「寂しかった?」

「……うん。恋愛って、惚れた方が負けなんだな……って思って」

「どういうこと?」

「私ばっかり好きな気がする。私ばっかり会いたがってる」

「俺が、俺の方が好きだよ。俺だって、綾乃さんに会いたいよ?」

「嘘」

「どうして?」

「だって……最近、キスも全然してくれないし……」


 あ。ポロっと本音が出てしまった。徹くんが驚いた顔をしている。

今日はほとんど酔ってないから、お酒のせいにも出来ない。

 だって、徹くんとまた付き合えるようになってから、そういうことが一度も無いんだもの。

二人で会っていても、徹くんは私を送り届けるとすぐに帰ってしまう。

ちょっとくらいなら……いいのにな。なんて思ってしまっても、しょうがないよね?

それとも、自分からキスをねだるなんて、みっともないって呆れちゃう?


「な、何でもない! 今のは忘れて! おやすみ!」


 顔の前で手を振って、徹くんを追い出すように玄関を閉めようとすると、徹くんがドアを強く掴んだ。そのまま玄関に入り、後ろ手にドアを閉める。ガチャリと鍵が閉まる音がした。


「何だ、綾乃さん、キスしたかったの?」

「違う! さっきのは嘘だから!」

「せっかく今まで我慢してあげてたのに。……どうなっても知らないよ?」


 そう言うが早いか、徹くんは私を抱きしめ、唇を強引に奪った。

それは気を失うくらい長く、離れようと身を引けば引くほど体を寄せてきて、ついに壁際まで追い詰められてしまった。これ以上は逃がさないとでも言うように両手を掴まれ、壁に押し当てられる。

 長いキスと短いキスを何度も与えられる。そして、キスの合間に香る、お酒と彼自身の匂い。その濃厚な香りにさらに酔ってしまいそうになる。

 息苦しくて口を開いた途端、そこから彼の舌が侵入してくる。今までしてきたキスと全然違う、熱いくらいの熱を持ったキスだった。抵抗する間もなく、口腔内を激しく侵され、私はなすすべもなく徹くんにしがみ付いた。


 ようやく解放された時には、力が抜けてその場にへたりこんだ。


「これ以上すると止められないから、今日は帰る」


 私は何も言えずに徹くんを見上げた。


「……そんな顔で見ないで。誘われてるって勘違いしてしまいそう」

「……」

「おやすみ」


 そう言って徹くんは帰って行った。

キスの余韻を……残したままで。

私は自分の唇を押さえながら、いつまでも放心状態のまま、同じ場所に座り込んでいた。


 徹くんが離れた寒さと、去ってしまった寂しさを抱えて。

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