第33話 手のひらの確かな温もり

*3月6日(火) 晴れ*


検査の結果、お父さんはあと一週間ほど入院することになった。もう危険は無かったけれど、今回の検査で色々と体にガタが来ていることが分かり(小さな結石も見つかって、レーザーのようなもので散らすことになったらしい)、治療を受けながら美鈴さんと一緒に今後の食事や運動に関するレクチャーを受けるそうだ。


「もう帰ってしまうの?」

「うん、これ以上仕事休めないから」

「そう……」


 美鈴さんが残念そうに呟く。


「また、今度帰って来るから……お、お母さん」


 私がそう言うと、美鈴さんははっと目をみはってみるみる涙を流し始めた。私が彼女のことをお母さんと呼ぶのはこれが初めてのことだった。


 昨日の夜、美鈴さんは言ってくれたんだ。『きっとお父さんはお母さんの行方を知っているはずだから、会いたかったら自分が聞いてこようか』……って。美鈴さんはどんな気持ちでそれを言ってくれたんだろう。きっと、とても悩んだに違いないと思うんだ。だけど、私のことを思って敢えてそれを口にしてくれた。その時、ああ、私の母親はこの人なんだって胸が熱くなった。お母さんのことを忘れたわけじゃないよ。でも、もういいや……って。私にはこの人が、美鈴さんが居るんだって。誰よりも私のことを思ってくれている美鈴さんが。どうして今まで気付けなかったのかな……。

お母さんは遠くで幸せでいてくれればそれでいい。そうだよね?

 そして私は、心配そうに返事を待つ美鈴さんにゆっくりと首を横に振ったんだ。


「みっともないからさっさと泣きやまないか。……いつでも帰って来い。そこの、彼も」


 お父さんは美鈴さんに叱咤すると、私と徹くんに一瞬だけ視線を寄こし、すぐさまそっぽを向いて不貞腐れるように付け加えた。美鈴さんも目がしらを押さえながら何度も頷く。


「お父さん、私と徹くんは……」

「いい。何も言うな。……少し疲れたから、寝る」


 徹くんと付き合っていること、ちゃんと真剣なことを伝えようと思ったけれど、それは叶わなかった。私たちは学校へ行った啓太によろしく伝えてもらうように頼むと、病院を後にした。



「お父さんにちゃんと説明したかったな」

「多分、大丈夫だと思うけど」

「えっ、何で? そういえば昨日、私がお茶買いに行ってた時、何話してたの?」

「う~ん、内緒」

「え~?」


 隣を歩く徹くんの安心させるような頬笑みを見て、私は何も言えなくなる。色素の薄い彼の髪が陽にあたってキラキラを輝いて見える。

 これ以上聞いたってきっと応えてくれないだろう。もう、変なとこで頑固なんだから……。

 見るからに年下の彼を見て、お父さんが一瞬眉をひそめたのを私は知っている。

その時は再び付き合う前だったけれど、付き合っていたという事実は変わらない。病院まで来てくれたことで二人の関係は分かっていたはずだった。

 それなのに、お父さんは結局最後まで何も言わなかった。


「明日から仕事頑張れそう?」


 私がまたぐるぐる考え始めたのを察知したのか、徹くんが話題を変えた。


「うん! 明日からバリバリ働くよ~。店長にもさっき電話しておいた」

「へぇ。何か言ってた?」

「うん、お父さん無事で良かったねって」

「それだけ? 他には?」

「え? 別に何も……。そういえば、何か歯切れが悪かったかな……?」


 私がそう言うと、徹くんは「綾乃さん……」と言いながら呆れ顔で肩を落とした。


「あのね、俺たち二人で店飛び出したんだよ? もう俺たちが付き合ってるってこと、とっくに皆にバレてると思う」

「……あ!!」


 今までお父さんのことで考えもしなかった事実を指摘されて、私はうろたえた。

 うちの店は社内恋愛禁止だった。とはいえ、社員は忙しくて相手と出会う暇なんてない。

 なので男性社員と女性スタッフが結婚するということはよくある話。

その時は社員が他の店舗に異動、または女性スタッフが辞めるのが暗黙の了解になっている。

 でも、女性社員が男性スタッフに手を出すなんて、前代未聞だ。異動だけで済むかどうか……。


「ほんとだ、どうしよう? やばい、今度こそクビかも!?」

「いざとなったら俺が辞めるから大丈夫だよ」

「そんなわけにはいかないよ! そんな、徹くんにだけ責任を押し付けるようなのは嫌」

「俺だって綾乃さんが辞めるの嫌だよ。明日、きちんと店長に話してみよう。俺たちが真剣なことを分かってもらえるまで」

「うん……」

「それでもダメなら、その時また二人で考えよう。ね?」

「そうだね」


 自分一人だったら、きっとパニックになって落ち込んでたと思う。

なのに、徹くんの言葉で不思議と落ち着いてくる私が居た。

 これからは一人で悩まずに何でも話し合っていこう。

昨日、公園で想いを伝えあった後に徹くんはそう言ってくれた。

 きっとこれからもちょっとしたことで悩んだり、ケンカしたりすることがたくさんあるに違いない。でも、勝手に結論を出さずに二人で解決していきたいって。

 一人じゃない。それだけでこんなに勇気が湧いてくるんだね。


「あ! ちょっと待って!」

「綾乃さん?」


 道の角に花屋を見つけて、私は小走りで駆けこんだ。

 たくさん咲き誇る花の中から赤いチューリップを探す。すると、奥に小さなチューリップが置いてあるのを見つけ、これくださいっ! と叫んだ。


「どなたかへの贈り物ですか?」

「……はい。だ、大事な人に……」


 花屋の店員さんの言葉に、赤面しながらそう答えた。店員さんはにっこりと笑顔になるとピンクのペーパーとリボンでラッピングしてくれた。


「ごめん、お待たせ……!」

「どうしたの、その花?」

「だって、今日は3月6日だよ? 徹くん、誕生日おめでとう!」


 そう、今日は徹くんの誕生日だった。もちろん、花がプレゼントというのは少し物足りない気がするけれど、どうしても今すぐ感謝とおめでとうの気持ちを伝えたかったんだ。


「覚えててくれたんだ」


 きっと植物に詳しい彼のことだ。私がこの花を選んだ理由ももう分かってしまっているのだろう。


赤いチューリップの花言葉は〝愛の告白〟――3月6日の誕生花だ。


「忘れる訳ないよ。でも、ごめん。誕生日プレゼント用意してなくて……」

「いい。コレもあるし、本当に欲しいものはもう貰ったから」


 徹くんが私の手を取って幸せそうに笑う。それを見て私も自然と笑顔になる。

私が彼にこんな表情をさせてあげられると思うと、とても嬉しい。

きっと私も同じ顔をしているんだろうな。


「せっかくだから、ちょっと観光して帰ろうか」

「うん!」


 二人手を繋いだまま、港の方へと歩き出した。

手の温もりが私に勇気を与えてくれる。

明け方の暗い街に朝日が差し込むように。草木が芽吹くように。

  恋が、愛に変わって行くのを感じる。


 恋なんてままならないもの、私には無理だってずっと思ってた。

だけど、自分の中に見つけてしまった。諦められないこの気持ちを。

無理だと思いつつもそれでも求めてしまう。


 誰かに『愛される』こと。そして、―――誰かを、『愛する』こと。


 私は繋いだ手にそっと力を込めた。

もう迷わない。

私のすべてで彼を想い続けていこう。


 この人にふさわしい人になりたい。今、心からそう思った。

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