第30話 知らされた真実
「どういうこと……?」
私は信じられない気持で呟いた。浮気していたのはお母さんの方?
そんな馬鹿な。浮気してたのはお父さんでしょう?
深刻な雰囲気を察して、徹くんが席を外そうとするのを目で制止して、私は美鈴さんに向き直る。
「どういうこと? だって、香水……」
美鈴さんは決意の目をしてさらに私たちに近付き、隣の席に座って大きく息を吐いた。
「違うの。確かに、あの香水は私のものだけど、私と孝太郎さんは当時、不倫なんてしてなかったわ」
「嘘!」
「ううん。嘘じゃない。あの頃、私は孝太郎さんの部下だったの。何も知らない新人の私に仕事がなんたるかを教えてくれたのは孝太郎さんだったわ。仕事だけじゃなく、プライベートな相談もよくさせてもらってたの」
「……」
「あの日もそう。会社の飲み会が終わった後、当時の恋人のことで悩んでいた私の相談に乗ってもらっていたの。お酒を飲んでいたから、私、途中で泣いて、孝太郎さんに抱きついてしまって……その時に香水の香りが彼のスーツに移ってしまったのね。そのせいで孝太郎さんが奥さんに疑われてしまって、大変申し訳なく思っていたわ。そしたらね、その後しばらくして、うちに無言電話が頻繁に掛かって来るようになったの……」
「まさか……」
まさか、お母さんが嫌がらせを? そんな馬鹿な。あの優しいお母さんがそんなことする訳ない。
「もちろん、ただの偶然だと思うわ。だけど、孝太郎さんはそうは思わなかったみたい。『ごめん、自分のせいだ』って、私に頭を下げてくれてね。『もう何て言えば信じてもらえるか分からない、どうしてこんなことになってしまったんだろう』って途方に暮れていたわ。その数日後のある日、真っ青な顔で出社してきたから心配になって、『気分でも悪いんじゃないですか』って尋ねたの。そしたらね、『どうやら妻が浮気しているようだ』って孝太郎さんが言ったの。そんなまさか、って私は笑ったわ。『ケンカするほど仲がいいって言うじゃありませんか、嫉妬する奥さんが浮気するなんて有り得ませんよ』って。その時は『そうだね』って、『自分が疑われたからって、同じように妻を疑うのは良くないね』って、そこで話は終わったの。そしたら、奥さんの行動は徐々にエスカレートしていって、ついには露骨に浮気の証拠を見せて来たんですって。孝太郎さんにも分かるように」
「証拠って……?」
「それは分からないわ。孝太郎さんはそれ以上は何も言わなかったから。恋人と撮った写真か、若しくは一緒に居る所を見せつけたのか……そんなところじゃないかしら」
「そんな……」
「それで、とうとう孝太郎さんも堪忍袋の緒が切れたみたい。綾乃ちゃんに気付かれる前にその男とは手を切れって言ったらしいの。それが出来ないなら、その男とどこかへ行ってしまえって。……これが私の知っている事実よ。後のことは……綾乃ちゃんの方が詳しく知ってるはずね」
もちろん知っている。母は、家を出ていった。私を置いて。
「……相手はどこの誰か知ってるんですか?」
「さあ……。スポーツセンターかどこかのインストラクターだって聞いたけど」
「……」
確かに、あの頃、父の関心を得られないと悟った母はお茶やお花の教室に通い詰めていた。その行先の中にそんな所があった気がする。
本当に? それが真実だったの?
「奥さんが出て行って、孝太郎さん、見る見る痩せていってしまって、見てられなかったの。きっと、その頃にはもう、私は孝太郎さんに恋をしていた。だから、すぐに恋人と別れて、一生懸命アプローチしたの。でも、孝太郎さんは私のことなんて全然相手にしてくれなくて。もう無理なのかなって考え始めた矢先に、家に招待されたのよ。そこで孝太郎さんは綾乃ちゃんに言ってくれたわ。『お前のお母さんになる人だよ』って。告白もプロポーズもすっ飛ばしてね。私が初めて綾乃ちゃんに会うまで、私たちは手を握ったことさえなかった。あの日、綾乃ちゃんが私の手を拒んでいたら、きっと私は今ここには居なかったでしょうね。だから誓って孝太郎さんは浮気をしていないわ。お願い、それだけは信じてあげて欲しいの」
突然知らされた情報の多さに、頭が追いつかない。でも、涙ながらに語ってくれた美鈴さんが嘘をついてないことだけは分かった。
でも、分からないことが一つだけある。私はその疑問を彼女にぶつけた。
「どうして……お父さんは私にその事を言わなかったんですか?」
一言でも言ってくれたら、状況は大きく変わっていたかもしれないのに。
お父さんは気付いていたはずだ。私が避け始めたのを。ううん、恨んでさえいたことを。
「もちろん言ったわ。『綾乃ちゃんには話したどう?』って。でも、孝太郎さんには、綾乃が悲しむから言うなって、釘を刺されたわ。『あいつは母親のことが大好きだから、母親が自分を捨てて男と出て行った、なんて知ったらどれほど苦しむか分からない』って。でも、私は言ったのよ。そうしたら孝太郎さんがお母さんを追い出したと思って恨まれちゃうわよって。そしたら、それでいいんだって孝太郎さん、笑ったの。『俺を恨むことで綾乃が悲しまなくて済むなら、それでいい』って……」
「そんなのって……」
勝手すぎるよ。お父さんは、自分が我慢すればいいと思ってたの?
お父さんもいっぱい傷ついていたはずなのに。知らない間に、私はお父さんに守られていたんだ。
それなのに、私は一人で勝手に捻くれて、お父さんにも美鈴さんにも壁を作ってた。周りは敵だ、私は一人で生きていけるって意地をはっていた。何も知らずに。
「ごめんなさい。ごめんなさい、美鈴さん……」
私は手の甲で目を抑えた。必死で耐えていた涙が、いつのまにか溢れ出していた。手で顔を抑えて俯く。
「私こそごめんなさいね。ずっと黙っているつもりだったのに……」
そんなことない、とは言葉にならず、私はかぶりを振った。
「私も孝太郎さんも、綾乃ちゃんのことが大好きよ。愛してるわ」
美鈴さんが私をそっと抱きしめた。私は彼女の肩に顔を押し付けて、ぎゅっと子供のように抱きついた。……こんな風に彼女に触れるのは初めてだった。美鈴さんはとても温かくて、そして母の匂いがした。
美鈴さんは私が泣きやむまで頭を撫で続けてくれた。そして、さんざん泣いて落ち着いた私は、もう大丈夫だから美鈴さんはお父さんの所に戻って、と言って病室に行くように促した。
彼女は私の手のひらに車の鍵を落とし、家に戻って夕飯を食べてね、お風呂にもゆっくり浸かるのよ、と言い、徹くんに頭を下げて、お父さんの眠る病室へと戻って行った。
「ごめんね、付き合わせちゃって……」
思いっきり泣いてしまってかなり恥ずかしい気持ちを抑えながら言うと、徹くんは全く気にしていない素振りで微笑んだ。
「ううん、全然。綾乃さん……良かったね」
「うん……」
徹くんの優しい一言に、再び涙が出そうになった。
私の肩をポンポンと労わるように叩くと、私の手から鍵を受け取って、彼は歩き出した。
徹くんが今ここに居てくれてよかった。
私は置いていかれないように数歩前を歩く彼の背中を追いかけた。
徹くんの運転で実家に帰ると、家には電気が点いていた。
「あれ? 誰かいるの?」
「ああ、きっと弟の
「え、弟いたんだ? いくつ?」
「えーと、確か高1だったはず」
啓太は美鈴さんとお父さんの子供だ。啓太に会うのもすごく久々だ。私が大学に入学する頃、彼はまだ小学生だった。
一応、ピンポーンとインターホンを鳴らすと、ドタドタっと足音を鳴らしてガキ大将がそのまま大きくなったような少年が玄関から顔を覗かせた。
「あれ、ねーちゃんじゃん。久しぶり~」
「け、啓太。大きくなったね……」
「何その、親戚のおばさんみたいな言い方。そりゃ大きくもなるでしょ。小さくなるわけがないんだからさ」
啓太は小馬鹿にしたように笑った。あれ? 啓太ってこんな子だったかな? もっと素直で大人しい子だったような気がするんだけどな……。
「ま、早く上がれば? 立ち話もナンだし。あぁ、夕飯先に食っちゃったからね。だって皆遅せーんだもん。それで、おやじとお袋はどうなって……ん? 誰だ、その男?」
啓太はそこで初めて徹くんに気付いたみたいだった。
「えっと……」
「もしかして、ねーちゃんの男? やったな、ねーちゃんのレベルでこんないい男捕まえるなんてさ。こんなチャンス二度とねーから、逃がすなよ」
私が何か言う前に立て続けに捲し立てる啓太。徹くんに自己紹介させる暇も与えない。
あれ? 本当に、コレ私の弟デスカ!?
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