第29話 溢れ出した記憶

 私たちの他には誰もいない、薄暗い待合室の椅子で、私は語り始めた。


 ……私の両親ね、私が小学生の頃に……離婚したの。

原因は……父の浮気だった。もともと父は仕事人間でね、毎日仕事仕事って言って帰って来るのがすごく遅かった。休日も付き合いだ何だって結局は家にいつも居なくて。

 私が父に会えるのは平日の朝だけだった。といっても父はコーヒーを飲みながら新聞を読んでいるばっかりで、会話を交わすことなんて滅多になかったけどね……。

お母さんは寂しそうだったけど、「仕事だからしょうがないって、綾乃が居るから大丈夫だよ」っていつも笑ってた。


 でもね……。ある日、会社の飲み会で遅くなったお父さんが、香水の匂いをさせて帰って来たことがあって……。

 居間で両親がすごいケンカをし始めたの。その大声で目が覚めて、私は階段の所でガタガタ震えながら二人の話をこっそり聞いてた。

 今までも、母が父に「もう少し早く帰ってきて」って言ってお父さんが「仕事だからしょうがないだろう」って言って揉めてることはあったけど、こんなにお互いが怒鳴り合ってるのは初めてだったから。

 母は、「こんなに香水の匂いを付けて、今までどこで何をしていたの」って父を責めてた。「今まで仕事だと思って我慢してたけど、それもこれも全部女と会う口実だったんでしょ」って。

 父も、「そんな訳ないだろう、俺がどんな思いで毎日あくせく働いてると思ってるんだ、お前と綾乃のためじゃないか」って。「食わしてもらっておいて、ガタガタ文句言うな」って……。


 その時、私には聞こえた気がしたの。幸せだった家庭が壊れていく音が。


 その後、父はお風呂場に行ってしまって……、残された母のすすり泣く声がずっと聞こえてた。私が自分の部屋に帰った後も。

いつかは仲直りするだろうって思ってた。だけど、一度壊れたものはもう元には戻らなかった。


 それ以来、前にも増して父の帰宅時間は遅くなっていったの。たまに早く帰ってきても二人とも一言も口をきかなくなってしまって……。唯一口を聞く時は、ケンカの時だけだった。

 母がよくお風呂場で泣いていたのを覚えてる。私に聞かれないように、泣き声をシャワーの音で誤魔化しながらね。

 そしたら今度はお母さんもお茶だお花だって色んなカルチャースクールに通い始めて、家族で過ごす時間はほとんど無くなっていったの。


 そんな日々が半年ほど過ぎた時だった。

――突然、母が出て行ったの。実は、その前の日も大きなケンカがあって。

 その頃には私も二人のケンカに慣れてきていて、いつも通り布団をかぶって聞かない振りをしてたんだけど、その時はいつもと様子が違ったから、私は起き出してまた階段の所でこっそり聞き耳を立てた。

 途中からだったから前後は分からなかったけど、父が母に向かって、出てけって叫んだの。そしたら母がいいわよ、こんな家出てってやるって言った。

 その言葉を聞いて、ああ、もうこの家はダメなんだって分かった。どうしよう、私はお父さんとお母さんのどっちについて行ったらいいんだろう。そんなことを考えて、寝付いたのは明け方のことだった。

そして、目が覚めたら……母は本当に出て行ってたの。……私を置いて。


 ここまで語り終えて、私は少しだけその流れを止めた。


 あの日の朝、私は愕然とした。どうして母は私に何も言わずに出て行ったんだろうって。そのときの寂寥感を思い出すと、今でも胸が苦しくなる。私は母を引き止める材料にもなれなかったんだなって。

 私の指先は鞄を掴みすぎて白くなっていた。


 徹くんは静かに私の話を聞いてくれていた。

 話しながら私は気付いていた。

誰かに、じゃない。誰でもない、徹くんに聞いて欲しかったんだ。


私は再び息を吸い、語り始める。


 私はそれでもまだ、母はいつか戻って来てくれるって思ってた。

きっと時期が来たら私を迎えに来てくれるんだって。今は新しく住む家や仕事を探してるんだって。だから、慣れない家事も頑張った。それまでは母に任せてばかりで手伝いぐらいしかしたことなかったから、最初は失敗だらけだったけどね。

 だけど、待っても待っても母は連絡一つ寄こさなかったの。

……いつの間にか両親の離婚は成立してた。

 そして、母が出て行って一年も経っていない、ある日。

――父が、女の人を家に連れて来たの。

それが、美鈴さんだった。父は言ったの。「お前のお母さんになる人だよ」って。

美鈴さんは母よりずっと若くて、ずっと綺麗だった。悲しいくらいに。


 初めまして綾乃ちゃん。これからよろしくねって、笑顔で手を差し出してきた。

反対したって、どうにもならないって分かってた。

だから、私はその手を握り返したの。

 その時、美鈴さんの付けている香水が私の鼻をくすぐった。

それは、あの香水の匂いだった。父が酔って帰った日にスーツに移っていた、香水の香り。階段に隠れていた私のそばをお父さんが通った時、仄かに感じた花のようないい香り。


 それで分かったんだ。あぁ、父の浮気相手は美鈴さんだったんだって。

父は、自分が浮気しておいて、母を追い出したの。

だから、私は父を一生許すことが出来ないと思う。

 そして私は大学進学を期に、実家には帰らなくなった。電話も、就職が決まった時にかけたっきりで……。


 そこまで話しきった時だった。


「……それは違うわ、綾乃ちゃん」


 死角になっていた角から、美鈴さんが姿を現した。


「美鈴さん? ……聞いていたの?」


 盗み聞きするなんて。私は声に不満を含ませた。


「ごめんなさい。私の車の鍵を渡そうと思って追いかけて来たの……。だけど、違うのよ、綾乃ちゃん」


 美鈴さんはそう言いながら近付いてくる。


「何が? 何が違うって言うの?」


 私は丁寧語を使うのも忘れて、問いかけた。何も違わない。お父さんと美鈴さんが浮気したから、私たち家族はバラバラになったんだ。


 違う、と繰り返した美鈴さんは、逡巡するような顔をしたまま口をつぐんだ。


「何が違うのか、ちゃんと言ってよ」


 重ねて尋ねた私の顔を見つめて、美鈴さんは意を決したように口を開いた。


「ごめんなさい。このことは絶対に言ってはならないと思ってたんだけど」


「え……?」


「……あのね、本当は……、浮気していたのは……あなたのお母さんの方なのよ」

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