第28話 無言の里帰り

「待って、待ってよっ」


 数歩先を歩き続ける、|徹(とおる)くんに向かって私は叫んだ。すると、彼はチラリと私の顔を一瞥してすぐに視線を前方へと戻した。


 何でそんな怒ってるの。

いや、そもそも、何でついてくるの?

そして私は何で彼を追いかけてるんだろう?


「とりあえず、新宿……いや、東京駅に出ます。そこで乗り換えです」


 スマホを見ながら、徹くんは私の顔を見ないまま無表情にそう言った。


「……」


 何も言わない私をスルーして最寄りの駅までの道のりを足早に歩く。私はその後を半ば走るようなスピードで追いかけた。


「あっ」


 ヒールがマンホールにひっかかり、転んでしまった。鞄がべしゃ、と足もとに投げ出される。

 徹くんが鞄を拾い、私に手を差し伸べた。頭を横に振ると、彼は強引に私の手を取り、そして眉をしかめた。気付いてしまったんだ、私の手が小刻みに震えている事に。手を引こうとすると、強い力でそれを引きとめた。

 徹くんは怒ったような表情を再び浮かべ、怪我が無いのを見て取ると私を立たせてそのまま歩き出した。……私の手を引いたままで。


 電車に乗り込んだものの、隣の席に座った徹くんは何も喋らなかった。すぐに気まずい空気が押し寄せる。


 何でここにいるの?

どうしてついて来たの?

そして、どうして手を繋いだままなの……?

また同じような問いが頭の中を駆け巡る。


 東京駅に着き、降車ホームから移動して電車を乗り換えた。

 さっきの電車とは違う、四人ほど座れるボックス席。徹くんは誰もいない向かいの席に私の鞄を置くと、長い脚を窮屈そうに座席に納め、流れる外の景色を無言で眺めていた。

 永遠にも感じた一時間を過ごし、私たちはようやく目的の駅に辿り着いた。


 横浜。私が生まれ育った場所。

 こんなに近いのに、帰ってくるのは高校卒業以来だった。

 徹くんは駅前に停まっているタクシーに乗り込み、「濱横病院までお願いします」と運転手に告げる。

 病院の前でタクシーを降りると、ようやく繋いでいた手が離された。そのまま自動ドアをくぐり先に進もうとした徹くんは、私が後に続かないことに気づき、戻ってくる。


「どうしたの?」


 怪訝そうな顔をしてようやく口を開く。やっと合わされた視線。だけどそのことに気づく余裕は無かった。


「……行きたくない」

「え?」

「行けない。……会いたくない……」

「どんな事情があるのかは分からない。でも、会いたくなくても、会わなきゃ」

「だけど……」

「これが最後になっても、いいの?」


 その言葉に、ひゅっと音を立てて私の喉が狭まる。


「酷い事言ってごめん。……でも、俺はそうだったから。綾乃さんとお父さんにどんな事情があるかは分からないけど、後悔だけはして欲しくないんだ」

「徹くん……」


 彼の言葉に胸が打たれた。そうだった、彼のご両親は交通事故で亡くなったと聞いた。詳しいことは分からないけれど、きっとたくさんたくさん後悔したんだろう。それだけは分かった。


「だから、行こう。ね?」

「……うん」


 まるで子供に言い聞かせるような口調に、さっきまでの頑なな気持ちが次第に溶けて行く。

 二人で病院内へ入ると、徹くんは私に待っているように目配せし、受付に先ほどこちらに運ばれた榊さんは、と尋ねてくれた。病室を教えてもらい、戻って来た彼と一緒にエレベーターに乗る。

 エレベーターを降りると、何とも言えない匂い――消毒液と病気の匂いだ――を感じ、私の足はまたひるみそうになった。

 怖い。病室に行くのが怖い。


「大丈夫だよ。綾乃さんのお父さんがいるのは病室だ。だから、大丈夫」

「徹くん……」


 その力強い眼差しに勇気づけられ、私はその言葉の意味も分からないまま小さく頷いた。

 手術室でも、――霊安室でもない、と言いたかったんだろうなと理解したのは、ずっと後のこと。


「ほら、行こう」


 肩にそっと腕を乗せられ、その温かさに促されて私はお父さんの病室までやってきた。

 深呼吸を繰り返し、ノックをする。

 しばらく待つとドアがゆっくりと開いて女性が顔を覗かせた。四十代後半くらいの女性で、タートルのセーターにロングスカート。化粧っけは無く、着の身着のままここへ来た、とういう雰囲気だった。


「綾乃ちゃん……」

「……」

「来てくれたのね……。どうぞ、中へ。あら、あなたは?」


 私だけだと思っていた彼女は、後ろにいた徹くんを見て不思議そうな顔をした。


「さきほど電話を受けた、坂木徹です。坂の上の木、で坂木と読みます。今日は綾乃さんの付き添いで来ました」

「あら、あなたが。同じ読みの名字なんて奇遇ね。……ごめんなさい、会社お店にまで電話してしまって……。孝太郎こうたろうさんが倒れて、動揺してしまったの……」


 後半は私に向けられた彼女の申し訳なさそうな顔に、少しだけ笑みを返す。


「いいんです、美鈴みすずさん。連絡、ありがとうございます」


 彼女は榊美鈴さん。私の――二番目義理の母だ。


「それで、お父さんは?」


 私が尋ねると、病室内に私たちを招き入れながら美鈴さんが沈痛な面持ちを浮かべた。

 恐る恐るベッドに近づくと、そこにお父さんの姿があった。近くには規則的な音を出し、心電図を表示する機械のようなものが置かれている。


「夕方、会社で突然倒れて、救急車で運ばれたの。お医者様は過労じゃないかっておっしゃったんだけど、目が覚めなくて……」

「過労……」


 もしかして心臓発作や脳溢血じゃないかと考えていたから、過労と聞いて少しだけ胸をなで下ろした。もちろん、過労死なんて言葉もあるくらいだし、まだ安心は出来ないけれど。


「目が覚め次第詳しく検査することになっているのだけど……」


 美鈴さんはお父さんを見つめながら不安そうな顔をする。

 横たわったお父さんは、皺が深くなり、何だか小さくなった気がする。最後に会ったのは……大学に合格して、東京に引っ越す時だ。あの時、お父さんは何も言わなかったし、私も何も言わずに別れた。

 最後にお父さんと交わした言葉は何だったんだろう。思い出せない。もう、7年以上前のこと。その年数に自分のことながら驚かされた。


 美鈴さんは病院に何も持って来ていなかったために入院のための荷造りをしに一旦帰ると言ったので、その間お父さんを看ていることになった。

 簡単に夕食を作って置くので、ぜひ今夜は私と徹くんにも実家に泊まって欲しいとのこと。遠慮する徹くんだったけど、美鈴さんの強引なおねだりにとうとう根をあげて、最後には申し訳なさそうに了承してくれた。


 慌ただしく美鈴さんが病室を出て行ったあと、病室には再び沈黙が訪れた。いつのまにか一般客の面会時間も終わったのか、病院中が息をひそめたように静まり返っている。

 やや薄暗い電灯の中で徹くんは窓際に立ち、夜の街を眺めていた。丘の上に立つこの病院からは、海辺のホテルやタワーに灯る明かりがキラキラと光り輝いていることだろう。灯台の灯りだろうか、一定の間隔を置いて徹くんの横顔が明るく照らし出される。

 お父さんは一向に目覚める気配はなく、その眉間には苦しげにしわを寄せたままだった。

 私はその呼吸に従って上下する胸元をずっと見つめていた。


 もう、帰っても大丈夫だよ。ここまでついて来てくれてありがとう。

その一言がどうしても言えない。

だけど、電車の中で感じた気まずさとは何かが違う空気が漂っていた。一緒にいる時間が徐々に緊張感を安心感に変えて行く。


 すると、一時間ほど経って美鈴さんが病室に戻って来た。今夜は美鈴さんが泊まり、明日の朝私と交代することになった。


 私は徹くんとエレベーターに乗り込み、一階へと下る。時間外出入口を目指すには広いホールを通り抜けなければならず、そこには外来椅子がズラリと並んでいる。

私の足は、そこでゆるやかに停止してしまった。


「……聞いてもらってもいいかな?」


 徹くんは目線を私に向け、しっかりと頷いて外来椅子の一つに腰掛けた。私も一つあけた横の席に座り、膝に乗せた鞄の取っ手をぎゅうっと握りしめた。

何もかもを、誰かに吐き出してしまいたい……。

そして大きく息を吐いて、私はせきを切ったように語り始めた。


「私ね、……お父さんの事が大っ嫌いなんだ」

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