第26話 sprinkling rain

「先にシャワー浴びておいで」

「……竹島さん、お先にどうぞ……」


 雨に濡れた体を自分で抱きしめながら、ドアの傍に立ちつくす。


「早く体を温めないと風邪ひくよ。俺はこのくらい何とも無いから」


 伊達に鍛えてないよ、と笑みを浮かべられ、「じゃあ……お先に失礼します」と言ってバスルームへと向かった。肌に貼りついた服を苦労して脱ぎ、熱いシャワーを浴びる。


 ……後悔なんてしない。私が誘ったようなものなんだから。


 あの後。

 激しい雨ですっかり濡れてしまった私たちは、雨宿りのつもりで駅の近くのシティホテルへとやって来た。

「これじゃ風邪をひいちゃうな」と心配げに呟いた彼に、私が言ったんだ。

雨の中、足早に駅へ向かう人たちをガラス越しに見ながら、蚊の泣くような声で。

「シャワーを浴びたいです」……って。

だから、後悔しない。私は蛇口を左に捻った。


 シャワーを浴び終えてバスルームを出ると、今度は竹島さんがバスルームへと移動する。軽く水気を拭き取った服をハンガーに掛けた後はしばらく所在無げに辺りを見回していたけれど、結局、ベッドの端に腰を下ろした。

 シャワーを浴び終わった竹島さんが、同じくバスローブを着て戻って来た。

彼も私と同じように身の置き所を探して視線を|彷徨≪さまよ≫わせ、そして恐る恐るといった風に私の横に腰掛けた。重みでベッドが軋んだ音を立てた。


「……本当に、いいの?」


 言葉の代わりに小さく頷くと、竹島さんはまるで壊れ物を扱うかのように私をそっと抱きしめた。そして、ゆっくりと私の体をベッドに横たえる。

 彼は私を見つめながら髪を数回撫で、ゆっくりと唇を寄せてきた。

さっき路地裏でされた激しいキスとは全く違う、触れるか触れないかのキス。唇、頬、額とたくさんのキスの雨が降りそそぐ。


 竹島さんの体……すごく熱い。

布越しに彼の体温を感じ、その高さに驚いた。

そして彼の唇が耳から首に下がって行った時、くすぐったいだけではない何かに、思わず目を閉じて身を竦めた。

すると、与えられていた刺激が突如として消え、私は閉じていた瞳を開いて彼を見る。

私を見つめる竹島さんは何ともいえない表情を浮かべていた。


「……やめた」

「え……?」


 茫然としている私をよそに、竹島さんはベッドから降りてまだ濡れている服を着始めた。


「嫌がる女を無理やり……なんて、俺には出来ないから」

「……私、嫌がってなんて……」


 起き上がってはだけた胸元にバスローブをかき合せる。


「自分がどんな表情してるか分かる? そんな悲壮な顔で応えてもらっても、嬉しくもなんともないよ」

「……」

「いいんだ。弱みに付け込んだのは俺の方だから」

「そんなことないです。私がどれだけ竹島さんに救われたか……」


 その言葉を聞いた竹島さんの顔が苦しそうに歪む。


「それは感謝だよ。感謝と恋愛感情は全くの別物だ」

「そんな……」

「……今日は先に帰るよ。好きな女と一晩同じ部屋、なんていくら俺でも耐えられないからね。君は明日の朝まで居るといい」


 そう言って竹島さんはコートと鞄を手に取り部屋を出て行った。

パタン、と静かに閉められたはずの扉の音が室内に響く。

私は微動だにせず、ドアを見つめ続けていた。

そんなことない、好きだから抱いてほしい。そう言えば良かったのかもしれない。そうすれば、彼は部屋を出て行かなかったかもしれない。


 ……好きになれると、思ったんだ。

竹島さんは優しくて、一緒にいれば楽しくて。きっとこのまま一緒に居る時間が増えればいつか本当に彼を好きになっていたはずだ。

彼となら、幸せになれる。

何の障害も無く、望んだ幸せが手に入るはずだった。

だから、ここに来た。決して軽はずみな行動じゃない。


 『俺が忘れさせてやる』


 そう言った竹島さんに、私はこう思った。

忘れさせてほしい……って……。

でも、忘れさせてほしいってことは、まだ忘れてないってことだ。

徹くんのことを忘れられないってこと。

彼を想う気持ちは厳重に鍵を掛けて封印したつもりだった。

竹島さんと体を繋げば、すぐにでも忘れられると思った。

……だけど。


 竹島さんが出て行くのも当然だった。

私は自分が助かりたいばかりに、また他の人竹島さんを傷つけた。

私が溺れそうになっている時に助けてくれた人。

感謝してもしたりないくらいの恩人なのに……。

私は何で人を傷つけてばっかりなんだろう。


 自分が嫌い。大嫌い。

何度間違えば気が済むの。

人に優しくされる価値も無い。この溢れる涙と一緒に溶けて消えてしまえばいいのに……。

雨の音がかすかに聞こえる室内に、私の嗚咽が響く。


 そうだよ、忘れられるわけがない。

だって、まだ……好きなんだもの。

彼のことを想うだけで、こんなにも苦しい。


 こんなにも彼を想い涙が出るのは、もう二度と手に入らないと思うからだろうか。


 シーツを掴んだ拳に、涙が後から後から雨のように零れ落ちた。

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