第22話 パンドラの箱
*1月10日(水)晴れ*
喉が渇く。まるでフルマラソンを完走したかのように。今日は朝から何度も腕時計を見ては「あと8時間」「あと5時間」「あと3時間」「あと……」と呟いていた。業務上スタッフ全員が着用を義務付けられているこの腕時計を、今日ほど憎らしく思ったことは無い。店内には各階に大きい掛け時計が一個づつ設置されているだけだから、それさえ目に入れなければこんなことにはならなかったのに。情けないとは思いつつも、何度も時刻を確認しては妙な汗をかいてそわそわしてしまっている。
そして、時刻は夕方の16時過ぎ。
「お疲れ様です」
来た。顔を見なくても分かる、適度に低くて柔らかい声。この世で一番聞きたくて、そして……この世で一番聞きたくなかった声だ。
「ああ、坂木くん。どうだった、久々の地元は」
「はい、楽しかったです。お店が忙しい時にお休みいただいてすみませんでした。これ、お土産です。皆さんでどうぞ」
「そんな気を遣わなくてもいいんだよ。うちの店は東京の子が多いからね。人手は問題ないんだよ」
店長が「悪いねぇ」と言いながら紙包みの箱を受け取るのが視界の隅に映る。徹くんの姿は見えない。だけど、私は全身の神経が彼の方へ向いているのを感じた。
「榊さん、そろそろ一息ついたら? 坂木くんに貰ったお菓子食べようよ」
あああぁぁぁ。店長、何無邪気なこと言っちゃってんですかっ。話を振るな、話を! もしかして全て知った上で言ってんのかと思うくらい悪魔に見えますよっ!
話の流れ上、参加しないわけにもいかず、私はぎぎぎぎ……と音がしそうなくらい固い動きで椅子に座ったまま店長の方へ顔を向けた。
「じゃあ、コーヒー淹れますね。……お土産、ありがとう」
前半は店長に、後半は徹くんに向けて言葉を発した。……微妙に目線は外しながら。
よし、何とか笑顔を浮かべられた。相当ぎこちない笑みだったと思うけど。
「いえ、どうぞ。じゃ、着替えてきます」
徹くんはペコリとお辞儀をしてから事務所の奥の更衣室へと姿を消した。目線を外していたのでどんな表情をしていたかは見えなかったけど、何とか会話出来た、と思う。
私は備え付けの小さな台所(といっても、流しと電子レンジがあるだけでコンロは無い)に行って、ポットで沸かしたお湯でインスタントコーヒーを淹れる。
スタッフは紙コップか何個かあるマグカップを共有で使っているけど、社員は自分のマイカップを持参している。店長のは子供が父の日にくれたというかわいらしいネコのキャラクターがプリントされているカップだ。小学校に上がったばかりの娘さんが、毎日家のお手伝いをして貯めたお金で買ってくれたとさんざん自慢された。私としてはそんな大事なカップを職場に持って来てほしくない。割ったらどんな惨劇が繰り広げられるかは火を見るより明らかだもの。
私のはもちろん、割れてもいいように100均で買ったシンプルな水色のカップだ。他にコーヒーを飲みたいと言う人が居なかったので、二人分だけ淹れて、店長のデスクに慎重にカップを置いた。二つともブラック、砂糖もミルクも無しだ。
ありがとうと礼を言った店長に、いえ、と答え、私はコーヒーを自分のデスクの上に置く。徹くんが置いて行ったお菓子は、福岡の銘菓『通らせもん』だった。その見たことのある黄色いパッケージを見て、胸がきゅぅっと締め付けられた。
前にこのお菓子を買った時は、こんな
想いが通じて、幸せいっぱいだったのに。
私はその幸せの象徴をどうしても手に取ることが出来ずに、コーヒーを喉に流し込んだ。
そのコーヒーは、ひどく、苦かった。
「さ、坂木くん。今月から始まっているイベントの件なんだけど……」
17時入りのスタッフの朝礼(夕方だけど)を終え、私は徹くんを呼びとめた。必死で避けていた目線がついに合ってしまい、自分から話しかけたのにたじろいでしまう。相変わらず嫌味なくらい整った小さな顔。仕事に私情は持ち込まない。伝達すべきことはちゃんとしないといけない。いつまでも逃げてちゃだめだよね。そう意を決して話しかけた声はどもっていた上に少しかすれていた。
「はい」
徹くんが私の前に立ち、その長身さで私の視界に影を作る。
「メール会員の特典内容が少し変わったの。詳細はこの紙に書いてるから、目を通しておいてね。蛍光ペンでライン引いてる所ね。あと、洋画テレビドラマの1巻無料キャンペーンは先月で終了になってるの。もう値引きしないで大丈夫だから」
「はい」
徹くんは私の言葉を聞きながら確認するように何度か頷いた。
そして、私が以上です、と告げると、分かりました、では失礼します、といって売り場に出て行った。
彼は終始、同様のカケラもないかのような普段通りの表情だった。いつもなら、誰にも分からないようにこっそりと微笑んでくれていたのに。そうか、別れるってこういうことなんだ。
そのことに気づいて私は突然、自分の立っている場所がどこだか分からなくなった。
もう、彼は私に向かって微笑まない。
あの端正な顔をくしゃりと思いっきり崩すことはないんだ。
その後、三日経っても、一週間が経っても、そして、1月が終わろうとしていている今でも、私たちの関係は変わらなかった。表面上の会話はしても、どこかぎこちない。いや、ぎこちないのは私だけだ。徹くんはとても自然体だ。まるで私たちが付き合っていた事実なんて無かったかのように。
その態度を見るたびに、私の心は何度も打ちのめされた。
……これ以上は傷つきたくない。
私は、彼への想いを封印することに決めた。
厳重に鍵をかけて、心の奥底に沈めるんだ。深く、どこまでも深く。
もう二度と姿を現すことが無いように――。
「ふぅ……」
家に帰り着くと、鞄を足もとに放り出してベッドに倒れ込んだ。
その瞬間に鞄の中で携帯が鳴りだし、ベッドの上から鞄を漁る。そこには竹島さんの名前が表示される。
竹島
二人で居酒屋に行った時に番号を交換した。プロポーズをされた間柄だと言うのに、お互いの番号も知らなかったなんて、すごい話だと思う。
二人で居酒屋に行ったあの日。竹島さんを責めて泣いてしまった私が、すぐに我を取り戻して謝るまで、彼はずっと背中を撫でてくれていた。そして、恥ずかしさに居たたまれなくなった私を、きちんとマンションの下まで送ってくれたんだ。
「……はい。榊です」
「今、大丈夫?」
耳元に響く、竹島さんの声。向こうからは車のキーを回してエンジンをかける音がした。どうやら車の中らしい。こんな冬の日だ、エンジンを暖めて、暖房が効き始めるまでには時間がかかるだろう。
「あ、はい。大丈夫です」
「あのさ、今度、どこか出掛けないか?」
「え……?」
「そんな身構えなくていいよ。誓ってやましい気持ちは無い。ただ、気晴らしにどうかと思って。海でも山でも、映画でもいいよ。さすがに南極や北極は無理だけどね」
竹島さんの冗談に、つい、くすりと笑いを漏らしてしまった。
「どこだっていいんだ。君が息抜き出来る所なら、どこでも」
「……」
どうして、分かっているんだろう。
私がもがいてもがいて、それでも溺れそうになっていることを。
どうして彼には何もかもばれているんだろう。
頭で考えるよりも先に、言葉が出てきた。
「そうですね。……行きます。行きたい、です」
みっともない所をすでに見られてしまったせいか、もうどんな私を見られても大丈夫。そんな気がした。
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