第19話 ホワイトクリスマス・イヴ
カッ、カッ、カッ。
夜の喧騒に紛れて、私の靴音が響く。
どれくらい走っただろうか。呼吸が苦しくなって私は足を止めた。
竹島さんにプロポーズ――私の見解が間違っていなければ、あれはプロポーズだろう――されたのはほんの数分前。
私は、「離してください」と言ってもがき、腕の力が弱まった時に彼の腕の中から逃げ出した。
「急にこんなことして、すまない。でも、今のが俺の正直な気持ちだ」
「……」
「俺は君を幸せにしたい。君が……好きなんだ」
「竹島さん……でも……」
「頼むから、すぐには答えないでくれ。考えてみてくれないか」
竹島さんの苦しそうな顔を見て、私は何も言えなくなった。失礼します、と軽く会釈して、私は人ごみに紛れるように早足で駆けだした。
何で、私はすぐに断らなかったんだろう。
夜気の寒さで徐々に酔いが覚めるように頭の中も冷えてきた。私はあてもなく、とぼとぼと歩き始める。…断れなかった。彼の本気が痛いほど伝わって来た。夏にデートに誘われた時は、ほんの軽い気持ちだと思っていたのに……。
それに……酔いに任せて、私が竹島さんに思わず吐露してしまった自分の想いに、私自身とても驚かされていた。
いつか
ううん、気付かなかったんじゃない。気付いていながら見て見ぬふりをしていただけなんだ。
私は、人の気持ちほど不確かで移ろいやすいものはないと思っている。今日は徹くんは私のことを好きだと言ってくれている。でも、明日は? 明後日は? その次の日は……?
彼との関係に一歩踏み出せないでいるのも、世間体が……とか、未成年だから……という表面上の問題だけじゃなかったのかもしれない。私が、彼に溺れてしまうのを知らず知らずのうちに避けていたのかもしれない。
彼の重荷になりたくないのは本当だ。でも、もしかしたら、私はすでに徹くんの重荷になってはいないだろうか? 私の存在そのものが、彼の未来を大きく変化させてしまう可能性はないだろうか?
私は、徹くんにとって邪魔な存在にしかなれないのかもしれない……。
たどり着いた結論に、私は心が震えた。それは、今まで必死で目を反らしていたまぎれもない事実だったから。
大きく息を吐き、空を見上げる。眩いネオンに紛れているけれど、ビルとビルの間には星空が覗いていた。私の心とは裏腹に、それはとても小さくて、だけど確かに光り輝いていた。
「綾乃さん、明日の夜、ご飯でも食べに行かない?」
いつものように明るい徹くんの声。一番聞きたかった声なのに、今日は何故かとても遠くから聞こえる気がする。
「あ……ごめん。ちょっと風邪気味で……」
「えっ、大丈夫?」
「うん。……ほら、最近忙しいでしょ。だから少し疲れちゃったのかも。この前のお礼は今度ちゃんとするから……」
風邪気味なんて、嘘だった。今でも彼を好きな気持ちは少しも変わっていない。だけど……今までのこと、これからのこと。色んな事がありすぎて、少しだけ考える時間が欲しかった。答えの出ない、問題だったとしても。
「いいよ、そんなこと気にしなくて。じゃあ早く休まないと。あったかくして寝てね」
「……ありがとう」
「あ、クリスマスイヴは予定大丈夫だった?」
「うん。休めそうだよ」
「良かった。楽しみだね」
「うん……楽しみ」
早めに通話を切り上げ、私はスマホをテーブルの上にそっと置いた。
*12月24日(日) 雪*
今日はクリスマス・イヴ。昼から徹君とランチをして映画を見る予定になっている。
あれから色々考えたんだけど、やっぱり答えは出なかった。
でも、気がつくと徹くんのことばっか考えてるんだよね。ああ、やっぱり私って徹くんのことが大好きなんだなぁ。
その時が来るまでは、もう考えないようにしよう、ってちょっと楽観的すぎる?
クリスマスっていう初めて経験する、恋人たちのイベントに浮かれてるのかな。
徹くんに会いたい。ただそれだけのために私は今ここに立っているんだ。
待ち合わせの駅前にあるクリスマスツリーにはたくさんの人が集まっている。
朝の天気予報では、夕方からぐっと冷え込み、夜半過ぎくらいから雪が降ると言っていた。
明日はホワイトクリスマス。
寒いのは嫌だけど、雪が降るのはいくつになっても楽しみで自然と心が躍ってくる。
……変な格好じゃないよね?
私はショーウィンドウに映る自分の姿をさりげなく確認した。真理子と行ったバーゲンの戦利品であるクリーム色のニットワンピース。真理子もすごく似合っていると太鼓判を押してくれたそのワンピースには、広く開いた首元と袖や裾に紺と赤色のノルディック柄が編み込まれている所が気に入っている。普段パンツスタイルが多くてスカートはひざ丈という私にとって、膝上のワンピースはかなり難易度が高かった。ロングブーツを合わせてもまだ心もとなかったので、実はワンピースの下にこっそりとショートパンツを穿いている。
うん、大丈夫みたい。ショーウィンドウに映る自分の姿をもう一度見て、小さく頷く。すると、左手首に掛けた小さな紙袋がかさりと音をたてた。
先日、閉店ぎりぎりの店に飛び込んで選んだクリスマスプレゼントの腕時計。大人っぽくなりすぎず、けれども子供っぽくもなく、学生が持っていても違和感のない値段のものを探すのはすごく苦労した。だけど、それは楽しい時間でもあった。
喜んでくれるといいな……。
広場にある黒に金字の大時計を見上げると、約束の時間の五分前をさしていた。
時間に正確な彼のことだ。そろそろ来る頃かもしれない。そう思って辺りを見渡すと、人ごみの中に、徹くんが立っているのが見えた。私は笑顔を浮かべて手を振る。
でも、徹くんは表情を固くしたままその場に留まっている。人々の波が彼を避けるように大通りを行きかう様子はとても不思議な光景で、私は思わず彼に振っていた手を止めて見入っていた。
徹くん、どうしたの……? どうして、そんな苦しそうな顔をしているの?
その時、私のスマホが震えた。慌てて鞄から取り出すと、そこには徹くんからの着信を知らせていた。通話ボタンを押し、耳にあてる。
「もしもし、徹くん? どうしてこっちに来ないの?」
徹くんは遠くから私を見つめたまま、数秒間沈黙を守り続けた。無性に不安になった私は、彼に駆け寄ろうとして、その時やっと彼の声が耳に届き、ある予感に足を止めた。
「……綾乃さん。綾乃さんは、俺の気持ちを疑ってたの?」
「え……?」
「俺の気持ちはいつか変わってしまうって。ずっとそう思いながら、俺と付き合ってたの?」
「……」
「どうなの? 本当にそう思ってる? そんなの嘘だよね? 嘘だって言ってよ」
「……」
私の心臓は早鐘の様に鼓動を速めた。反対に、頭の中は真っ白で、何も考えられなくなる。どうして、そのことを知っているの。誰に聞いたの。ううん、そんなことが問題なんじゃない。私のせいで、また徹くんが傷ついている。私の頭の中にはそれだけがぐるぐると回っていた。
「……本当、なの?」
「……うん」
長い沈黙の後、私は絞り出すように肯定の言葉を口にした。
「……そう。あの時言った言葉、もう一度言わせてもらうよ。……もう二度と、綾乃さんに対して使うことなんてないと思ってたけど」
「……」
「綾乃さん、人を馬鹿にするのもいい加減にしてもらえませんか」
あの時とは違う、押し殺したような低い声だった。だけどそれが、彼がより深く怒っているようで、私は何も言えなくなった。
「ごめん、少し、一人になって考えたい」
彼は私の答えを待たずに携帯を耳から話すと、ゆっくりと踵を返して人ごみに紛れて行った。怒っているはずの彼の最後の表情は、まるで泣いているようだった。
私は、身じろぎもせずに通話の終了を知らせる機械音をずっと聞いていた。
誰もが笑顔でとても幸せそうに見えるクリスマス・イヴ。
その中で、私は一人ぼっちだった。
クリスマスツリーのイルミネーションが、次々と滲んではぼやけていき、ついには何も見えなくなった。
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