第18話 涙は覚悟の恋
徹くんに確認してもらうと、やはり、事務所のPCにUSBメモリーはさしっぱなしになっていた。ここから店までは往復すると一時間以上かかってしまう。どうしよう……。
「落ち着いて、綾乃さん。このデータを送れるPCは近くにないの?」
「それが、店のPCは情報が漏えいしないようにネットにつなげないようになってて……」
「そっか。会議は一時からだったよね? 今からそっちに持っていくから。絶対に間に合わせるから、安心して」
そういって徹くんは通話を切ってしまった。
そして数十分後、徹くんが本社の自動ドアから入った来た時には、不覚にも涙が出そうになってしまった。
「と……坂木くん、ごめんなさい、迷惑かけて……」
「いえ。お待たせしてすみません。間に合って良かったです」
周りの目を気にして言葉づかいを固くした私に徹くんが答える。USBメモリーを受け取ると、一緒にエレベーターホールまで移動した。ここまでくれば誰も周りに居ないから安心だ。
「ほんとごめん。学校の方は大丈夫だった?」
「午後は休講。それで、シフト希望の紙を書き忘れていたから、ちょうど店に行った所だったんだ」
「そうだったの。ほんと、なんてお礼を言ったらいいか……」
私が頭を下げると、やめてよ、と徹くんがにっこりと笑って言った。
「お礼なら、キスしてもらう方がいいな」
「ええっ!?」
「だって、綾乃さんからしてくれたことないじゃん。いっつも俺からだし。ほら、早くしないと、人が来るかもよ」
徹くんが急かす。うう、自分からするなんてめちゃくちゃ恥ずかしい。だけど、わざわざ私のためにここまで来てくれた感謝の意は伝えたい。ええい、しょうがない。覚悟を決めて、私は徹くんの左頬にチュッと軽く唇を寄せた。
「えぇ~、ほっぺた? ま、いいか、ちゃんとしたのはまた今度ね」
そう恐ろしいことを言って去って行った。どうやら頬だけじゃお礼にならなかったらしい。腕時計を見ると、一時まであと十五分。そろそろ戻らなくちゃ。
私の頭の中はすぐに午後の会議のことでいっぱいになった。だから、気付かなかった。まさか、私達のやり取りを見てる人がいたなんて――。
徹くんが持って来てくれた資料のおかげで、会議はなんとか無事に乗り切れた。一週間パワーポイントと格闘しただけあって、他の店の人よりも分かりやすい報告だと評価され、店長も満足げだった。
それにしても、こんな大事な物を忘れるなんて……。この頃、ちょっと浮かれすぎていたのかもしれない。仕事に支障が出ないようにしないと……。
五時ごろ会議が終わり、その後は懇親会という名目の飲み会。店長たちがいっぱいいる中、下っ端の私はお酒をついで回るのに必死だった。回る先々で言われる軽いセクハラ発言を笑って流す。
「ビールおつぎしまーす」
こちらに背を向けた男性に声を掛けると、その人はなんと竹島さんだった。告白を断って以来、うちの店に仕事で来る時もなんとなくギクシャクしている。もちろん竹島さんは普段通りに接してくれている。ギクシャクしているのは私の方だ。
「ありがとう。今日の榊さんの発表、すごく堂々としていて良かったよ。資料も見やすかった」
グラスをこちらに差し出しながら竹島さんが褒めてくれた。そのグラスにビールをつぎながら、「いや全然、すっごく緊張しました~」とぎこちなく笑いかける。「おーい、こっちにもビールついで~」という声に「はーい」と答え、私は何か言いたそうにしている竹島さんに背を向けた。
「榊ちゃんもう帰っちゃうの? カラオケ行こうよ~」
そう言ってカラんでくる店長たちに、すみません、明日も早いんで、と言って大通りに向かう。
すっかり冬景色になった街は、身を切るように寒い。
今日は体力的にも精神的にもヘトヘトだ。電車に乗る元気もない。今日は奮発してタクシーに乗っちゃおうかな。そういえば、徹くんに交通費を渡してなかった。今度でいいか。
とりあえず、帰りついたらお礼の電話をしよう。そう思いながらタクシーを止めるために手を上げようとした所で、後ろから声を掛けられた。
「榊さん」
振り向くと、竹島さんが立っていた。カラオケには行かなかったようだ。
「お疲れ様です。竹島さんもタクシーですか?」
「そんなことより、少し聞きたいことがあるんだ」
「?」
首をかしげると、竹島さんは言葉を探すように視線を宙に泳がせて一旦口ごもり、再び口を開いた。
「昼間、君に届け物をしに来た男のこと」
「……!」
「ごめん、見るつもりはなかったんだけど。まさか、あの男がこの前言っていた好きな男?」
誤魔化す方法はいくつもあったのかもしれない。だけど、正々堂々と私に気持ちをぶつけてくれた竹島さんには嘘をつきたくないと思った。だから、私は頷いた。
「はい、そうです。彼はうちの店のバイトです」
「どうりで見たことあると思った」
そこで竹島さんはまた口ごもり、意を決したように私の目を見据えた。
「彼はちゃんと君と本気で付き合ってるのかな」
「え……?」
何を言われたのか理解できずに、私は竹島さんを見つめた。
「バイトってことは彼はまだ学生だろ? 男には年上の女性に憧れる時期がある。その憧れを恋だと勘違いしてるという可能性は無い?」
徹くんの気持ちを疑ったことはない。付き合うまでは、彼の気持ちが信じられなくて不安だったけど、付き合い始めてからは彼はまっすぐに私だけを見てくれている。だけど、竹島さんの指摘は至極もっともで、私が心の奥底でいつも考えていたことだった。
「そうかもしれません……それでもいいんです。確かに、彼はまだ学生で、これから選べる未来がたくさんあって。いつか私のもとを離れる時があるかもしれません。いえ、きっとそうなるでしょう。でも、その時までは……そばに居たいんです」
「……。ごめん、年齢を持ち出すのは良くないけど言わせてくれ。いや、別に何歳になってもやり直しはきくし、年齢で差別してるわけじゃないんだ、それだけは分かってほしい。でも、……その時君はいくつになる?」
「……どうでしょう。一年後か、五年後か……それはわかりません。でも、もしかしたら、明日ということもありえるかもしれませんよ」
私は目に笑みを浮かべて彼を見上げたつもりだった。だけど、うまく笑顔が出来なかったのは彼の顔を見て分かった。
「……ずいぶん悲観的なんだな」
「そうでしょうか? 人の心なんてそんなものだと思いませんか?」
どうやら私は酔っているらしい。結局昼ごはんを食べる暇はなく、そのまま飲み会で酒をついでまわる時に返杯され、けっこうな量を飲んでいた。普段は決して外に出さない、自分ですら気付かなかった感情を表に出してしまっていた。
「俺だったら、君にそんな事考えさせないのに」
「……」
「ごめん、かっこよく諦めるなんて言っときながら。でも、君がいいように扱われているのを黙って見てなんかいられないよ」
「それは誤解です。徹くんは私にはもったいないくらいの素敵な人です」
「でも、君にそんなこと言わせてる。君に幸せな未来を提示出来ない時点で、俺は我慢できない」
「私はそれでいいと思ってますから。彼の重荷にだけはなりたくないんです」
「でも、君はいつか必ず傷つく日が来る。そんなの、見てられないよ。……俺だったら、君を幸せに出来る。俺だったら、君に幸せな未来をあげられる」
そう言って、竹島さんは私の手を引き、気付いた時には、私は彼の腕の中だった。徹くんのものじゃない、固くて広い胸。竹島さんは私の耳元で懇願するかのように囁いた。
「俺と結婚してくれ」
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