第6話 そしてその朝も事件は起きた
*7月1日(土)晴れ*
「……さん」
ん……何? 何の声?
「……のさん」
んもう、うるさいなあ。人がせっかくいい気持ちで寝てるのに。
「……やのさん。綾乃さん」
……あれ、この声は……もしかして……?
私はうっすらと目を開く。すると思った通り、徹くんがベッドのすぐ傍に立っていた。えっ? 何で、ここに、徹くんが?!
「おはようございます、綾乃さん」
「お……おはよう……ございマス……」
「泊めてもらってありがとうございます。今日はこれから友達と試験勉強する約束があるんで、俺、帰りますね。すみませんが、俺が出た後に鍵とチェーンを閉めてもらっていいですか?」
「ああ、鍵とチェーンね……了解……」
状況を全く理解できなかったけど、畳みかけるように話す徹くんに促されて、私はのろのろとベッドから降りる。頭の中は真っ白、というかフリーズ状態。
「あ、えっと……綾乃さん……」
「うん……? どしたの……?」
「ええと、いや、何でもないです……」
何故か微妙に目をそらしたまま、「おじゃましました」と律儀にお辞儀をして徹くんは帰って行った。言われたとおりに玄関の鍵をしめてチェーンを掛け、しばし動きを止める。
徐々に頭がクリアになってくると、私はそのままずるずると膝から崩れ落ちた。
ちょっと待って、脳みそが追いつかない。
どうして、徹くんはうちにいたの?
泊めてもらってありがとうございますって言ってたよね。ということは、うちに泊ったってことで……。
え、泊ったの? 誰が? うちに?
いや、だから、徹くんが、うちに……。
混乱のあまりに思考が無限ループ。
冷静になれ、綾乃! 昨晩のことをよーく思い出すのよ!
昨日、クレーム対応に行って、危ないところを徹くんに助けてもらって……家に一人で帰るのが怖いからって、二人でファミレスに行ったんだった。それで、
それから……どうしたっけ……?
そうそう、ファミレスでホットココア飲んでたら、大学のサークルっぽい集団が現れて騒ぎ始めたから店を移動したんだよね、確か。
それで……朝までやってるバーに行って、お酒……飲んで……。
昨日は社員一人だったから結局夕食を食べ損ねてて、思ったよりも酔いが回るのが早くて、話してるうちに眠くなって……。
その時、サアーッと血の気が引いた。
断片的に記憶が甦ってくる。
帰りたくない、まだ飲む、と駄々をこねたこと。家までおんぶしろ、と強要したこと。帰っちゃやだ、と甘えたこと。
やばい、死んでもいいですか……。いっそのこと、記憶が全部飛んでれば良かったのに!
脱力した四つん這いのままリビングに戻ると、テーブルには昨日の出勤前に食べたトーストのお皿とマグカップが出しっぱなし。ベッドルームにあるデスクの椅子には一昨日の服がかけっぱなし。窓際には洗濯した下着が干しっぱなし。他にもよそ様には決して見せられない独身女の悲しい現実が満載だ。
これを、この部屋を、見られた。徹くんに。
そう言えば心なしか目をそらしてたな……きっと、「大人の女が片付けもできねーのかよ」って呆れてたに違いない……。
……マジで今日死のう、今すぐ死のう。
せめてシャワーを浴びてきれいな体になってから……と思い、洗面所に行って鏡を見ると、肩まで伸びた髪はボサボサ、化粧はドロドロ、おまけにヨダレまで付いている。「いっそのこと、目撃者を消して私も死のうか」とまで考え、鏡に映る自分の姿を見た瞬間に息が止まった。
「!!!」
そこにはキャミソールを着た自分の姿が映っていた。しかも、キャミソールの下のブラジャーが透けている。というか、ささやかな胸の谷間が丸見えだ。汚部屋を見られた、という事実に、もう一つの疑惑がプラスされる。
もしかして……私……しちゃっ……た?
慌ててスカートの下を確認する。ああ、
したの!?してないの?! どっち!?
そういう経験が全くないので、もう綾乃ちゃん全然分かりません!
でも……心なしか、下半身に鈍い痛みがある気がする……。
ああ! 神様!!
「あ~、それは完全にやっちゃってるわね~」
「や、やっぱり……? でも、スカートも下着も穿いてたよ……?」
シャワーを浴びた後、真理子に「お願い今すぐ家に行っていい? 生きるか死ぬかの瀬戸際なの!」と半泣きで電話をかけて無理やり家に上がり込んだ。旦那さんはゴルフに行っていて留守らしい。愛娘の愛華ちゃんは隣の部屋でお昼寝中だ。
「甘いわよ。スカートや下着を穿いてたって、やれることはやれるのよ!」
「ひいぃぃぃっ! 聞こえちゃうから! 愛華ちゃんに聞こえちゃうから!」
「まだ寝てるから大丈夫だって。その状況でやってない方がおかしいわよね。初体験、おめでとう」
「全然めでたくない……」
何しろ、相手は同じ店の従業員。そればかりか、十八歳なのだ。
私の頭の中には未成年とかわいせつ罪とか、今まで自分には関係ないと思っていた事件の見出しが新聞の活字そのままに次々と浮かび上がってくる。
「バレたら私、クビ、いや、捕まっちゃうかも……」
「合意なら問題ないんじゃない」
「そういう問題じゃないでしょ……」
次に会う時、どういう顔をすればいいんだろう。っていうか、会社にいられなくなったらどうしよう。そもそも、警察に捕まったら会社どころじゃなくなるんだけど。そこまで想像が広がってぞっとする。
「それにしてもいいわね、若い男と一夜の過ち! 私もしてみたいわー」
「……じゃあ、今すぐ代わってよ……」
「ねえねえ、それで? 相手はどんな青少年なのよ?」
完全に面白がられてる……。嫌な顔をしても真理子のキラキラした宝石のような瞳が期待に満ち溢れているのを見て、私は反抗するのを諦めた。
「……背は高い。百八十センチくらいかな。ちょっと色素が薄くて肌がきれい。あと、イマドキ珍しいくらいに礼儀正しい」
「そういうことじゃなくって、顔はどんなのなのって聞いてるの! 芸能人で言うと誰似、とかあるでしょ!」
「え~? 誰だろ……最近映画によく出てる男の子に似てないこともないかも。あの……何て言ったっけ、ナガタマサユキ、だっけ。ごめん、邦画には疎くて」
「それ、すごいイケメンじゃないの~」
「よく分んないけど、整ってはいるね、うん。バイトの女の子の中にその男の子のことを好きっぽい子がいるし」
「三角関係?! ますますいいわね~! ハタチやそこらの女に負けんじゃないわよ?」
「いやいや、勝てるわけないでしょ……」
盛り上がる真理子の横で、私はどんどんテンションが下がって行く。
「それでそれで?体つきはどうなの?! 細身? ガッチリ系?」
「うーん、細いけど筋肉はほどよくある感じかなあ。半袖着てる時、腕が意外と太いなって思ったから……」
「へーえ、よく見てるのねぇ~」
はっと気付くと真理子がニヤニヤしながらこっちを見ている。しまった、しゃべりすぎた。「違うって、そんなに見てないよ」と言っても、「分かってる分かってる」と笑いながら取り合ってくれない。ムッとして私は黙りこんだ。恥を忍んで相談に来たのに、その仕打ちがこれか。友達甲斐のないヤツだ。
「ごめん、ごめん~。からかいすぎたわね。ケーキ出すからご機嫌直して? 今朝お隣から頂いたんだけどね、ここのケーキ、すっごいおいしいのよ」
「……いただきます」
まだ頬を膨らませたまま、私は真理子にミルクたっぷりのコーヒーを要求した。
そして甘いケーキに舌鼓を打ちながら、誓った。
お酒…控えよう…
外はこんなに雲一つない快晴だと言うのに、私の頭と心の中には暴風雨が吹き荒れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます