第5話 そしてその夜に事件は起きた

*6月30日(金)曇り*


 今日は遅番。遅番は十七時から閉店までの勤務だ。女だから、という理由であまり遅番はシフトに組まれていないけど、全く無いわけじゃない。今日はもう一人遅番の社員がいたんだけど、知り合いにご不幸があったとのことで休んだため、社員一人で仕事をこなさなきゃならない。

 でも、明日の土曜日は休みなので、私は浮かれていた。サービス業なので土日が休みというのはけっこう珍しい。久々にショッピングにでも行ってみようかな? それとも家でゆっくりしようかなあ、とウキウキしながら仕事を片付る。


「綾乃さーん、レジ閉め終わりました~」


 閉店を知らせる『蛍の光』の店内放送がまだ鳴りやまない内に、遅番の佐藤くんが事務所に飛び込んできた。お客さんが早々にいなくなったのをいいことに、さっさとレジの清算をしていたようだ。今日はこれから友達と約束しているらしく、仕事中も何度も壁掛け時計を見上げてはそわそわしっぱなしだったっけ。


「ありがとう、佐藤くん! じゃあ、お金を金庫に入れたら帰っていいよ~。後は私がしておくから。お疲れさま」

「マ~ジっすかっ! 綾乃さん超イイ人! 大好き!!」

「あはは、私も」


 佐藤君は金庫に今日の売り上げを入金すると、素早く身支度を整え、ご主人さまを見つけた犬のように一目散に店を飛び出していった。

 友達って言ってたけど、きっと彼女だろうな~あの素早さは。青春だねぇ……と佐藤くんを見送り、PCに向き直った。

すると、私の後ろから細長い影がさし、視界が暗くなる。振り返ると同じく遅番だった徹くんが所在無げに立っていた。


「綾乃サン、レンタルの方のレジも清算終わりました」

「あ、ほんと。じゃあ金庫に入金したら徹くんも帰っていいよ。お疲れさま」


 最初は慣れなかった名前を呼ぶという行為も、今では大分慣れてきたと思う。たまにうっかり坂木くんと呼んでしまうこともあるけど。節度を保つためにも、店長や他の社員がいる時や仕事をしている時は必ず名字で呼んでいるせいだ。だけど今は二人きりだから、名前を呼んでも許されるだろう。


「分かりました」


 徹くんがしゃがんで金庫にお金を入れていると、お店の電話が静けさを破るように店内に鳴り響く。音響の電源を切った店内では思いのほか電話の音が大きく聞こえる。

やばい、留守電モードに切り替えるのを忘れてた! どうしよう。って、出るしかないよね。鳴りやまない電話を前に、一つため息を出し、私は受話器を上げて耳に当てた。


「お電話ありがとうござ……」

「ちょっと、どういうつもり?」


 こちらが名乗る前に受話器から中年の男性の怒声が響く。


「……どうかなさいましたでしょうか?」

「どうもこうもないよ。今日おたくの店で借りたDVDが途中で止まったんだよ!」


 画像不良だ。DVDは案外繊細なので、ちょっとした傷やゆがみですぐに画像が止まったり乱れたりする。傷が全く無くても見られないことも多々あるし、お客様自身の扱い方が原因の場合もある。だけど原因が分からない以上、お客様のせいにすることは絶対にできないので、慎重に対応しなくてはならないのだ。


「それは大変申し訳ございません。後日同じものを無料で交換させていただきたいのですが。在庫をお調べしますのでタイトルを伺ってもよろしいでしょうか」

「後日!? こっちは今見たいんだよ! 今すぐ持って来いよ!」

「申し訳ございません。あいにく本日は営業時間が終了しておりますし、夜分お客様のご自宅にお伺いするのも失礼にあたりますので……」

「こっちがいいって言ってるんだから、つべこべ言わずに今すぐ来い!」


 うわ~。これは面倒なことになった。大人はよく『最近の若い子は……』と口にするけど、そういう大人にも困った人が多い。お客様で多いのがこのタイプで、店員を召使のように捉えていて、我が物顔で上から物を言う。尽くしてもらって当たり前、少しでも粗相があろうものなら代金を無料にしろと言ったり、交通費を求めてきたり、土下座を強要してくる人までいる。

 これは、今からご自宅に商品を届けないことには解決しそうにないな……。時間を見ると0時20分。私は覚悟を決めて受話器を左手に持ち替え、メモを手繰り寄せる。


「かしこまりました。では今からお伺いいたしますので、お客様の住所とお名前、電話番号、借りられたDVDのタイトルをお願いいたします」


 中年の男性――中田と名乗った――の言葉をメモに取る。

幸い、レンタルしたタイトルは有名作なので交換分があるはずだ。急いで画像チェック機チェッカーに通して持って行こう。


「では、今から商品をご用意して中田様のご自宅へ伺いますのでよろしくお願いいたします」

「……ところで、お前の他に社員はいないのか」

「……? はい、本日はわたくしだけですが……」

「いや、何でもない。じゃ、なるべく早く来い」


 そういうと中田さんはこっちの返事を聞く前にガチャンと乱暴に通話を切った。

 はあ、ついてない。ため息をついて交換用のDVDを探しにフロアへ行こうと振り返ると、すぐそばに徹くんが立っていた。とっくに帰ったと思っていたので、心臓が止まるかと思うくらい驚いた。


「わあ、ビックリした! まだ帰ってなかったの?」

「はい、電話から怒鳴り声が聞こえたんで。これですよね? 画像チェックしておきました」


 徹くんの手には同じタイトルのDVDがある。通話中に私が読み上げたタイトルを聞き、売り場まで取りに行ってくれたようだ。


「ありがとう! じゃあ、消灯して鍵を閉めて行くから、先に店を出て。お疲れさまでした」


帰宅を促したものの、徹くんは動く気配を見せず、眉を寄せた。


「これから行くなんて、危なくないですか?」

「大丈夫だよ。社用車があるし、明るい道を通って行くし。DVD渡して謝罪したらすぐに帰るから」

「……でも、やっぱり心配なんで、ついて行ってもいいですか?」


 事務所でしばらく行く行かないの押し問答が続き、早く来いと言われたことを思い出した私は、とりあえず徹くんの同行を許可した。交換用のDVDとお詫びに渡す無料レンタルチケットを携え、店の消灯をして鍵をかける。そして駐車場の端に停めてある社用車に二人で乗り込んだ。夜になり多少は気温が下がったとはいえ、むっとする空気が肌にまとわりつく。


 ペーパードライバーな私は、違う汗をかきつつ何とか中田さんの家を発見し、近くにあるパーキングに駐車した。もちろん、一発で駐車出来る訳もなく、徹くんに左を確認してもらい、二度やり直したことは他の人には内緒にしておこう。

 「ここで待ってて」と彼に言い聞かせ、中田さんの家のチャイムを押す。こじんまりとして歴史がありそうな…つまりものすごく古い一軒家だった。街灯に照らされた庭も、一切手を入れられた気配がないほど荒れている。

しばらくするとよれよれの部屋着を着た中田さんが玄関から顔を覗かせる。電話では怒り心頭という様子だったのに、実際は神経質そうな小太りのおじさんだった。上目づかいでこちらの様子を伺っている。なめまわすように全身をくまなく見られ、寒気と悪寒が全身を駆け巡った。お願いだから、不快感は顔に出すなよ、私……!


「夜分失礼いたします。中田様ですね、大変お待たせいたしました。こちら交換分のDVDと無料のレンタルチケットでございます。次回ぜひご利用ください。このたびはご迷惑をおかけして大変申し訳ございませんでした」


 私は深くお辞儀をして謝罪する。

 すると、中田様が奇妙なことを言い出した。


「……お前、俺が嘘ついてると思ってるだろ?」

「……はい?」

「俺が嘘ついてお詫びの品を要求してきたと思ってるだろうって言ってんだっ!」

「い、いえ、そんなことは思っていません。私どもの店の商品のせいでお客様にご迷惑をお掛けして大変申し訳なく思っておりま――」

「本当だぞ? 本当に途中で止まったんだからな! 嘘だと思うなら自分の目で確かめてみろ!」


 中田はこっちの話を全く聞かずに捲し立てると、私の手首をぐいと掴んで部屋の中に連れ込もうとした。


 何これ、怖い! 怖い! 怖い…!!


 「中田様を疑ったりなんてしてないですから」と言いながら必死で抵抗しようとするけれど、力が強くて手を振りほどけない。暗い廊下の先にある明かりの付いた部屋に布団が敷かれているのを見て、目の前が真っ暗になった、その時―――


「お客様、確認なら私がいたします」


 声がすると同時に両肩をぐいっと後ろに引かれ、抱きとめられた。相手の力がひるんだ一瞬の隙を狙って彼――徹くんの後ろに逃げ込む。


「な、何だよ、一人じゃなかったのかよぅ……」

「彼女一人じゃないと何か不都合なことでも?」

「い、いや、そんなことは……」


 途端に弱気になり、しどろもどろになった相手は、「もういいから帰れ!」と怒鳴りながら徹くんをぐいぐいと玄関の外に追い出し、足もとに落ちていたDVDとチケットを乱暴に拾い上げて玄関の戸をバタンっと勢いよく閉めてしまった。すぐに鍵をかける音が聞こえる。


 怖かった。まだ体が震えている。あのまま部屋に連れ込まれていたら……。徹くんはそんな私の手を引き、そこから駐車場まで二人は無言で歩いた。助手席のドアを開け、私を押しこむと、自分は運転席に座りこむ。ドアが閉まった瞬間――


「さっき、綾乃さん、何て言いました? 一人で大丈夫って言ってましたよね」

「……」

「夜中に一人で男の家に行くってことがどれだけ危険か、分かりましたか?」

「……」

「返事」

「は、はいっ」


 知らなかった。怒鳴られるよりも、静かに怒られた方が何倍も怖い。徹くんは、静かに、でもめちゃくちゃ怒っている。


「ったく、帰りが遅いから見に行ってみれば……綾乃さん、隙が多すぎです」

「……ごめんなさい……」


 返す言葉もなく項垂うなだれると、そっと左手を私の両こぶしに乗せてきた。知らず知らずのうちに膝の上で握りしめていたらしく、手のひらに爪が食い込んでいた。


「すみません、怒ってしまって。……怖かったですよね。もう大丈夫ですから」

「うん……ありがとう……」


 徹くんは私の震えが止まるまで手を握ってくれて、その後店まで車を運転してくれた。高校の卒業前に免許を取っていたそうだ。若葉マークだというのに、私よりも断然上手だった。

店に車を戻した徹くんは家まで送ります、と言ってくれたけれど、その申し出を私は頭を振って断る。


「ちょっと……家で一人になるのが怖いから、どこかファミレスで明るくなるまで時間をつぶしてから帰る」

「そうですか。じゃあ、俺も行きます」

「ううん、一人で大丈夫。これ以上迷惑は掛けられないよ。お礼は今度必ずするから」

「……じゃあ、お礼は今からください。コーヒーでいいです」


 かたくなな態度を崩さない徹くんに私はまたも折れて、二人でファミレスに向かった。

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