87.Sな彼女とNな彼

午後七時。




残業を終える頃には


社内に残っている人も少なくなっていた。



いつもは西川さんが自分の仕事を終わらせて


私たちを手伝ってくれていたから


定時には帰っていた。




「朔くんは終われる?」




「もうすぐです。実結さんは先に帰ってください」




「ありがとう。もし最後になったら戸締まりとセキュリティの確認お願いね」




「はい」




「じゃあ、お疲れさま」





会社を出ると、すっかり夜になっていた。




三日月が浮かんでいる。




鼻唄を歌いながら


駅へ向かって歩いていた。





突然。




グイッと腕を掴まれて


暗い路地へと引っ張り込まれた。



ひっ。



悲鳴を上げる隙もなく



奥へ。




「はっ、離してっ」




振り払って逃げようとすると


犯人が振り返った。




「ごめんごめん。俺やって」




「西川さん?!」




「ちょっとビックリさせようと思っただけやねん」




「ちょっとどころじゃないですよ!変質者に襲われたかと思いましたよ」




「ごめん(笑)。ちょっと付き合って」




彼は私の手を引いて歩く。




路地を抜けると住宅街に出た。




「あの、どこに行くんですか?」




「そこ曲がると公園があるねん」





小さな児童公園には誰もいなくて


今にも消えそうな街灯に


遊具が照らされている。




暗いベンチに座ると


彼はコンビニの袋から


飲み物を取り出した。




「缶ビールですか。珍しいですね」




「たまにはね」




乾杯をすると一気に飲み干して



私の方を向いた。




「マミヤちゃん、ちょっとだけ充電させて?」




「充電?」




「ぎゅっとしていい?」




「む、無理です」




「一分だけ」と抱き寄せられると抵抗できなくて。



ぎゅっとされると胸が苦しい。





「何かあったんですか?」




「オッサンと二人で缶詰め仕事は一人よりキツかってん」




「あはは。大変でしたね」




「マミヤちゃんと会う時間にも間に合わへんかったし」




「そうですね」




優しく髪を撫でられると力が抜けて



心臓だけが強く打ちつける。




「寂しかったやろ?」




「そんなこと……」




ないです、と言おうとした私の首筋に



彼がいきなり吸い付いてきた。




「あっ! な、何するんですか?!」




「マミヤちゃんの匂いに釣られて、つい(笑)」




「ついじゃないです!ほら、もう一分経ちましたよ」




引き剥がして座り直す。




「これ以上はほんまに襲ってまうからなあ。もう一本飲んだら帰ろっか」




「はい」




今日はもう会えないと思っていたから。



明日になれば声なら聞けると思っていたから。



今この瞬間がとても嬉しい。





「あ、それからマミヤちゃん……」




「はい?」




「鼻唄の音程ズレてたで(笑)」





今それ言わないで欲しい。











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