第4話

プールサイドに座っていると、身体から染み出た水分が、アスファルトに伝わって、染みが徐々に広がっていく。

 肩を並べ体育座りをしているシオネに、目を向けるとある一点を見つめていた。その視線の先にあったのは、水面に映る満月。そこに飛び込んだら、ウサギが餅をつく幻想的な、月面世界にいけるんじゃないか、地球人はお月見をしながらお餅を食べるけど、月のウサギは地球を眺めながら、何をするんだろう。やっぱり私達みたいに、お餅を食べるのだろか、だって一生懸命お餅をこしらえているんだから、そんな空想を描きたてるほど、水面が反射する月光は金色に輝き美しい。

「ねえ、チリ。本当は泳げるんじゃない?」

「え!?そんな訳無いじゃん!本当に怖くて」

 シオネは立ち上がりプールに背を向ける。

「あの日、誰がチリを引っ張ったのか覚えていないのね」

 シオネは身を倒し、背中から夜と同化した水の中に、消えていった。

「シオネ!?」 

 彼女の名前を呼ぶが返事はない。シオネの意図は私にはわからないが、その内顔を出すだろう。プールサイドに座り様子を伺う事にした。

 一分待ったがシオネは現れない。

 シオネは泳ぎが上手だ。少し不安になるがきっとドッキリみたいなものだろう。更に一分待つ、また更に一分、それでもシオネは漆黒の水中に身を隠したままで、ただ不安が膨らんでいく………さらに一分、流石におかしいんじゃないか、もしかしてプールの底に頭をぶつけて気絶しているとか、シオネに限ってそんな事は………でも、意を決してプールの中に入る。

「シオネ、どこ?」

 夜と同化した水の中で、シオネの姿を捉えるのは難しかった。思い切って頭を沈め目を見開くがぼやけて何が何だか判別つかず、人間の目は水には適さないんだと初めて知る。

 すぐに呼吸が続かなくなってきた。水から顔を出し、出来る限り沢山空気を肺に取り込みもう一度潜った時、突如何者かに足を引っ張られ驚き、折角吸った酸素を殆ど吐き出してしまう。

 あの日と同じだった。

 そこに潜んでいたのか、それとも獲物を求めて巡回していたのかわからないが、私が溺れて水を必死にかき混ぜる音に反応してやってくる。

 魔物だ。そいつは気配を消して近づき鮮やかに私を闇の奥へと引っ張っていく。

 なんで雨の日に池に行ったのか、なんでヌートリアを見つけたのか………でもあの日、私は本当に一人で池に行ったのだろうか。池の水は仄暗くて生ぬるい、そして幼い命を、容赦なく奪う冷たさも持ち合わせていた。から体力と命を奪っていく、状況があの日と酷似していたから事故を思い出す。 それは水中で吐き出し、口から出た泡の数を数えられるくらい鮮明で強烈で、曖昧と忘却のベールで覆われていた記憶がまざまざと目の前に蘇った。

 確かに私は何者かに引っ張られた。それは恐怖による幻とかそういう物ではなく、確かに私は引っ張られた。

 記憶の奥底で六等星のように輝きは目には止まらない輝きだけど、それでもそこには確かに存在していた事実。

 そうあの日、私を引っ張ったのはシオネだった。

 足を掴む手を振り払い水から顔を出すと、同時にシオネも水中から現れた。私は呼吸が激しく乱れているのに、シオネは全然息が上がっておらず、初めてシオネの事を不気味だと思った。

「水なんて大した事ないでしょう」

 呼吸が整わず肩で息をしているので返答が出来ない。

「思い出した?」

 何とか首を立てに振って肯定する。

「はあ、はあ、はあ、シオネが、はあ、はあ、助けてくれた!」 

 溺れた上、水に酸素を奪われていく中、私はシオネが助けるため上に引っ張ってくれたのに、パニックになり冷静な思考を失っていた為、魔物が池の底に連れて行こうとされたと記憶が改ざんされていた。本当は身体を張って、私を助けてくれた恩人の存在を、何年も忘れてしまって申し訳ない気持ちが湧き上がってくる。

「シオネ、ごめんね。本当に………忘れてしまってて」

「いいのよ。それよりチリ、泣かないで」

「泣いてないよ」

 嘘だった。震えた心は涙腺を刺激し瞳から涙を溢れさせる。

「チリ、トラウマなんて思い込みでしょう。過ぎた事とか、苦い思いとか、そういうのを出来ない言い訳にしたらいけないと思う」

「うん」

 水から出てプールサイドに肩を並べて座りながら、足を水面に着けてみるけど、さっきみたいに鳥肌がたったりとかはせず、それほど恐怖の対象とは思えなかった。尤も泳ぐ事はまだ出来ないけど。

「でもなんで私、シオネに助けられたのに忘れてたんだろう。何かに襲われたと勘違いしてたし」

「………」

 シオネは返事はせずじっと水面に写る月を見つめている。

「ありがとう、シオネ」

 静かに立ち上がるシオネ。風が吹きはじめた、夏の風にしては二人の間を抜ける風は、異様に冷たくて濡れた身体から効率よく体温を奪っていく。今の季節を疑いたくなるほど温度が低いが、昼夜とわず鳴り響く蝉の命を懸けた合唱が、正確な暦を訴えている。

 シオネの目は潤んでいた。長時間、水に潜っていたからじゃないことは、長い付き合いの私にはわかる。シオネは思った事はあまり積極的に口にはしないが、表情は比較的、素直な反応を示す。そう、シオネは瞳に悲しみを宿しているのだ。

「もう行かないと」

「そうだね、帰ろうか」

 私も立ち上がる。

「違う………私だけ行くの」

「えっ!?」

「ごめんね、チリ。トラウマとか偉そうな事言ったけど、本当は単なる私の我が我が儘だったの。でも、チリに忘れられるのだけは………本当に嫌だった」

「ちょっとどうしたの?シオネらしくないよ。いつもみたいにクールにさ。あ!もしかしてシオネ流の冗談とか?」

「冗談じゃない、本気よ!」

 シオネは突然、ぎゅっと私を抱きしめた。シオネの体温と競泳水着により強調された身体の凹凸と突起が直に伝わってくる。驚いたが不思議と不快ではなかった。

 耳元にあるシオネの口から、こんなにも近くなのにか細い嗚咽が漏れているのがわかる。

「シオネ、泣いてる?」

 シオネは答えなかった。けれど今はこうしてシオネの抱擁に委ねたほうが良い、そんな気がしてならない。

「チリもしかして気付いてる?」

「何が?」

「惚けてるの?」

「???」

「本当に鈍いんだから」

「酷いな、大らかって言ってよ」

「ただの脳筋じゃない」

「えへへ」

「私、ずっとチリの側にいちゃいけない。じゃないとチリが前に進めないから」

「どういう意味かな?」

「私はもう死んでるのよ」

「え!?」

「あの時にね」

 その言葉の意味を理解する前にシオネの身体は私から離れた。

「よくわかってないようだけど、それならそれでいい。じゃあねチリ。先にあっちに行って美味しい食べ物屋さんでも探しておくから。私の分も精一杯生きてね」

「待って!」

 離れて行くシオネに手を伸ばしとめようとしたが、既にシオネの姿はどこにもなかった。最初からいなかったかのように………否、八年前のあの日から自分しかいなかったんだと、私はようやく理解した。


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