第3話
押しに弱い私は結局シオネと共に夜、学校のフェンスを乗り越えてプールに侵入した。自分が通っている学校とはいえ、夜に忍び込む行為はやはり不法侵入になるのかならないのか、一介の女子高生の私が、法律に通じてる筈もなく、何とも判別つかないのだけど、ばれたら両親と教師に大目玉を食らう事は、間違いないと思っている。
泥棒みたいな真似をして、プールサイドから静かな風に揺らされた、水面を眺める。周囲に人工的な照明はなくプールに満々と張られた水は宵闇と同化し、真っ黒に染まっていて、鏡のように夜空の満月を映し出した水面は、そのもう1つの月を弄ぶように揺らめかせていた。
「なんだか雰囲気あるねシオネ」
「なにが?」
「幽霊が出そう」
「肝試しに来たんじゃない!」
シオネは語調を強くして言うと、着ていた服を脱ぎ捨てる。下着の代わりに競泳水着を身に着けていた。
身体にぴったりとフィットする競泳水着では、厚手の衣類とは違い、運動不足や不摂生による贅肉を誤魔化しきれない。
シオネの身体に、はみ出た脂肪もないし腕と脚部はしまっているし、背骨は凜として伸びている。
女子陸上部の私が見ても、綺麗で運動部に所属していないのを疑うくらい無駄がない。思わず見とれていたら、シオネは何も言わず、身体を波紋さえも起こさせないくらいに、静かに水へと委ね、プールの真ん中へ泳いでいく。
「まずはここまで来てみようか」
「えー………」
「あからさまに嫌な顔をしないで!」
渋々、私も服を脱ぎ、下に着ていた競泳水着を空気に晒してから、ツインテールに結った二本の髪を、わざとゆっくり団子状にまとめる。
その最中、シオネは私にチクチクと針でさすような、鋭い視線を送っているように感じたが極力、目を合わせないように努めた。尤もいつまでもそんな牛歩戦術が、何時までも通用する筈もなく、二本のおさげをまとめたところで、入水する時が来る。
水面に爪先を着けたところから、脳天まで一気に鳥肌が走る。
真っ黒なプール。底は消失し地獄の底まで、続いているんじゃないか。暗い水中には腹を空かしたピラニアやワニが潜んでいるんじゃないか。様々な猜疑心が脳裏を過ぎる。しかしプールの真ん中で堂々と立ち、私をじっと見つめるシオネの存在が、私の空想を徹底的に否定する。
それでも水中が闇に閉ざされている分、余計に怖い。なんとか膝まで沈めたがそれ以上進めない。何度もトラックでスタートダッシュを決めてきた私の脚が、何の役にもたたなく感じる。私の脚は木偶の棒なんかじゃないのに、水に触れただけで弱々しくなってしまう。
「チリ」
名前を呼ばれていつの間にか閉じていた、目を開けると、シオネがすぐ前にいた。
「ごめん、シオネ。折角私のために時間を作ってくれたのに臆病で」
シオネは首を横に振り「自分の臆病さを素直に、認める事の出来る人間を、私は信用する」と言った。
「ふえ?」なんて私は間の抜けた事を言うとシオネは私の手を優しく握る。
「私と一緒なら水に入れる?」
「う、うん」
曖昧な返答で自信はなかったけど、不思議さと表現すべきか、なんとも形容するのが難しい、シオネの魔力は私の恐怖心と猜疑心を、奪っていく。
シオネは私を水中へと誘い、エスコートするように手を握ったままプールの隅にそって歩いた。
「水嫌いはあの日から?」
「………………………うん」
あの日とは、私とシオネがまだ小学生の頃、私が池に落ちて溺れた事件だ。それ以来、プール等の大量の水に対して強い恐れを抱くようになってしまった。
八年前のあの日、高校生になった今でも鮮明に思い出せる。 梅雨で雨が降っていた。学校からの帰り道、途中にある溜池で通り過ぎた時、水面で何かボロキレのような物が動いていて、近くに寄ってそれを観察するとヌートリアが泳いでいたが、当時の私はヌートリアという大きなネズミの存在を知らず、以前、両親に連れて行ってもらった水族館で見た、ビーバーが近所で住んでいたんだと思い、喜んで池の傍まで行って、水面を滑るように移動するヌートリアを池に沿って追いかけていたら、雨で濡れた草に足を滑らして池に落ちてしまった。
池の中は深くて足が着かず、もがいても悪戯に体力を消耗するだけで、もう、溺れる力さえも徐々に失いつつあった時、何者かに引っ張られた。
全身から血の気が引いていき、何故か思考は氷のように硬直して“ああ、私はこれから死ぬんだ”と冷静に考えていていたら。その意識さえもなくなり、気付いたら病院のベッドの上に寝かされていた。どうやって助かったのかは、全く覚えていない。
「あの時は運よく助かったけど」
「運よく!?」
シオネは語気を荒げていったので驚いてしまう。
「え、どうしたのシオネ?」
「少し休憩しましょう」
シオネと共にプールから上がった。
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