鬼の跫

如月 朔

第1話

僕がまだ小学生の頃、近所に気が触れた老婆がいた。


横浜駅から、小さな山を一つ越えた所にある僕の生まれた町。古い商店街と、住宅地の間を縫うようにして作られた沢山の抜け道が僕らの遊び場だった。中には二人が並んであるくことが精一杯といった狭い路地も存在した。


蜘蛛の巣のように張り巡らされた道は、鬼ごっこには最適なロケーションだった。角を曲がった瞬間に鬼と鉢合わせすることを想像しただけで、僕らの心臓は早鐘を打った。


そんなわけだから、角を曲がった瞬間に本物の鬼がいた時の恐怖と言ったらなんとも形容し難いものがある。


鬼役の友人に追いかけられて、狭い路地に逃げ込んだ瞬間、

「クソガキ! 地獄の業火に焼かれて死んじまえ!」

身も竦むような老婆の罵声が轟く。


僕の身体は一瞬硬直する。後ろを振り返ると、鬼役の友人が走って追いかけて来ている。その間も老婆はつり上がった目でこちらを睨みながら、何事かをしきりに叫び続けている。


手を伸ばせば簡単に触れられてしまうような距離、ほんの身体半分程の隙間を僕は全力疾走で駆け抜ける。僕が横を通り抜ける瞬間に老婆は足を強く踏んで、脅かすような仕草を見せた。


振り返って見ると、老婆は僕には目もくれず、今度は友人に罵声を浴びせていた。僕を追いかけていた友人の足は止まり、悔しそうに別の抜け道へ走っていった。


友人がいなくなると、老婆はゆっくりと振り返る。呆然と眺めていた僕と目が合うと、

「何見てるんだ? 煮込んで食ってやろうか!」

と声を荒げる。

僕は老婆に背を向けて走った。


公園に続く狭い階段、商店街の仲見世通り、神社の境内、自転車レースの重要コースとなっていた長い坂道。様々な所で僕は老婆と出会った。そして、老婆の方も僕らを発見すると、お定まりの罵声を浴びせた。


中学校に上がる頃には老婆の姿はすっかり見なくなった。それは僕が鬼ごっこではなくグラウンドでサッカーをするようになったためかもしれないし、必要がなければ路地に入り込むことがなくなったからかもしれない。いずれにしても、小学校を卒業する頃には僕は老婆の存在を忘れていた。


大学進学と同時に町を離れ、そのまま社会人となった僕が故郷である横浜の町に帰る機会はめっきり減った。気付けば遠い記憶は僕の脳の中の小道に迷い込んだかのように姿を消し、やがて埃を被っていった。


慣れない社会人生活に心を擦り減らす日々が二年近く経過した冬のある日、母親から田舎の祖母が亡くなったと連絡があった。何の前触れもなく、脳の血管が破裂したらしい。家族の誰にも虫の知らせなんてものはなく、急な訃報だった。


田舎へ行くために家族合流しようと横浜の実家へ向かう電車の中で、僕は祖母のことを思い出す。孫に対していつも甘かった祖父とは対照的に、祖母は厳格な人間だった。それは町ではなく、村社会で培われた慣習的な厳格さだった。


「米粒を残したら目が潰れるぞ」

食の細かった僕に祖母は言った。

「お腹いっぱいでもう食べられないよ」

「食い物を粗末にすると鬼が来るんだよ。……そんな細っこい身体じゃ、鬼も食べないか」

そう言って祖母は僕の額をそっと小突くと、茶碗を流しに持って行った。


「しゃんと歩きなさい」

駄々をこねて、祖父の手を握りながら、引きずられるように歩く僕を振り返って祖母が言う。

「だって」

服の袖でしきりに擦った目の周りを赤くしながら僕は恨みがましい言葉を地面に呟いた。

「情けない。男が泣いていいのは親の死に目だけだよ」

そう言い残すと祖母は僕たちを置いて歩いていく。


記憶の中に登場する祖母は、いつも背筋の綺麗に伸びた後ろ姿を僕に見せた。


高校三年生の時、夏休みを利用して一人で田舎の祖父母の家に帰省したことがあった。部活や受験の関係で数年振りに会った祖母はとても小さかった。目尻が垂れ下がって、背中もすっかり丸くなった。階段を上がるのに苦労すると、ポツリと弱音を漏らしていた。


田舎の景色は以前と変わらないのに、祖父母だけが急に老け込んだように思えた。あてがわれた部屋で布団に入ると、僕の目から理由のわからぬ涙が溢れる。掛け布団の中に潜り込んで僕は子供のように丸くなって眠った。


ピリリリリッ。

電車の発車を告げるベルの音に、ふと顔を上げると僕の降りるべき駅だった。慌てて立ち上がるも、電車のドアは無情にも僕の目の前で閉じた。今立っている場所と外界とを隔てる強固な金属の扉に触れながら、僕は次の駅に着くのを待った。


反対方面へ向かう電車に乗り換えようと考えていたが、電車を降りると気が変わった。


改札を抜けて町に出る。寂れた商店街はほとんどの店のシャッターが降りていた。少し遠回りして僕の通った小学校の近くにあった神社を通ると、大きな銀杏の木が昔と変わらずそこに立っていた。葉を全て落としてすっかり寂しい姿になった銀杏にそっと手を触れる。懐かしい友人と挨拶を交わすような不思議な感覚だった。


神社の正面にある長い坂道を下りながら、僕は郷愁に駆られて大きく息を吸い込んだ。話に聞くような懐かしい匂いは僕には感じとれなかったが、代わりに街路に咲く梅の花が目に入る。

「梅か、気付かなかったな」

昔からあったはずなのに、以前は意識することのなかったものが見える。


住宅地へ続く狭い路地を昔の記憶を頼りに歩いた。住宅の間に残るほんの僅かなスペースを利用して作られた公園は、どの遊具も極端に小さく見える。


公園のベンチに座っていた背中の丸まった老婆が杖を突いて立ち上がる。僕はその顔に見覚えがあった。以前はあんなに恐ろしく、大きく見えていた老婆が今は杖を突いて歩いている。


公園の前にぼんやりと立ち尽くす僕の顔を、老婆は見上げるようにして通り過ぎて行った。老婆の足を引きずって歩く音だけが僕の耳を奇妙に刺激した。


空から一雫、ポツリと雨が落ちて僕の頬を濡らした。

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鬼の跫 如月 朔 @yazukazuya

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