非行分析
忘却性水晶玉
非行分析
逃げようと思った。
自分が買った記憶のない自転車にまたがって、どこかも知らない山の中の少し舗装が剥がれてきた道を、やっぱり誰だかわからない友人のような人間2人と下った。坂道を下るのは子どもの時に抱いていたワクワクを思い起こさせる。一人でロックバンドのライブに行く時の高揚にも似たような、純粋な楽しさが湧き上がって来る感覚だ。前を走る人が誰かは知らないけれど、僕はその人に並々ならぬ親愛の情を抱いていたんだと実感する。見た目から想像するよりも坂を下るのはスピードが出るし、もしこれを一人でやっていたなら、楽しさとは別の冷めた、鬼のような衝動が僕を支配していただろう。そういうものを一切感じさせないくらいの安心感がそこにはあった。
一緒に走る人間が誰かわからないのと同じように、僕は誰から逃げているのかすらわからなかった。ただハッキリ覚えているのは、その受話器の先にいた人間が、僕の唯一の良心を修復不可能なレベルで引き裂いて行ったこと。そして、僕に同情する人間はたくさんいたものの、実際に僕を救ってくれる人間は一人もいないのだということ。この二つは、かつて僕が小学生の時にやっていた漢字練習のプリントの指定回数よりもはるかに多い数、僕の中で想起されたにちがいない。どっかの科学者はそういうものが無意識的に閉じ込められて夢に出る、なんて言っていたけれど、もうとっくに僕は夢と現実が何かさえわからなくなるほどに困惑していた。
誰かが話した気がした。
注意を音の方に向けてみれば、風切音の向こうに男の顔が見えた。見ているとなんだか少し安心する。彼が話した内容は、僕たち自身の走行音や、横切って行く数台の車の音、そして環境の音に遮られてしまったけれど、心が安らいでいくのが手に取るようにわかる気がした。今度は後ろからやや低めの女の声も聞こえた。ああ、彼女にはきっと、前を走る男の言ったことが聴こえたんだろう、などと思いながら、僕も笑って彼女の言葉に相槌を打ってみた。幸せだ。そういう時間がそこには流れていた気がした。
それまで珍しく一本道だったその下り坂が分かれ道になっていることに気づいたのは、その少し後のことだった。前を走る彼が僕らにどっちに進むかを訊いてきたような気がして、僕はすかさず左に曲がることを提案した。なぜだか、右には曲がりたくなかった。行き先がどこかさえわからない道で、どちらかといえばあまり縁起の良くないイメージが強い左に曲がろうと思った理由はわからない。僕は右利きだから、本当は右に曲がりたくなるんじゃないかとか、そういう根拠のない想像も0.3秒後には思考の外に出て、僕は彼に続いてその道を左折した。
気づけば、水の上にいた。
どこかの池のような、そんな場所の水の上に僕は立っていた。隕石でも落ちてクレーターになったんじゃないかと思うような場所だ。まあ、本物のクレーターなら、こんな断崖絶壁のような地形になるはずもない。それにここは、なんだかんだ言っても山の中だ。おそらく地形が漸次変わっていって、こういう感じになったんだろう。そう呑気に考えていた時、目の前にいた20代くらいの若者が、何かのスイッチを掲げているのが見えた。僕にはそれが巨大なエネルギーを放出するものであることが、なぜだろう、瞬間的にわかった。きりたった場所には人が5人ほど入れる小さなスペースがあった。そこには小さくて強大な光が4つほど存在した気がした。
大きな音とともに壁は崩れ、僕の立っていた場所は悉く破壊された。と言っても、僕の場所は案外すぐにその平静さを取り戻すことくらい、僕にも理解はできた。僕にとって少しだけ意外だったのは、そういうことがあっても交通に一切乱れはなく、歩く人も皆それについて何の関心も抱いていないことだった。そこまでは僕も静観することができていたが、事件の主犯格である若者がその場を立ち去ろうとして、一部始終を見ていたと思われる中年の男女の横を通り過ぎた時、僕はその男女が話していた言葉の内容を聴いて、いても立ってもいられなくなってしまった。
_ねえ、この池には、いのちが住んでいらっしゃるのよ。
僕はすかさず、全力を込めてその人間を池の中に突き落とした。
非行分析 忘却性水晶玉 @crystal_of_forgetting
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます