補助記憶装置
ある日の休日。昼寝をしている男はインターホンの音に起こされた。
「いい気分で眠っていたのに。こんな休日の昼に一体誰だ」
玄関のドアを開けて外に出てみると、そこにはスーツを着た営業マンが立っていた。
「俺は何も買う気はないぞ。宗教の勧誘なら無駄だからさっさと帰れ」
男は怒鳴るように早口で捲し立てた。
「まあまあ、話だけでも聞いて下さい。手短にお話ししますし、聞いて損することもないでしょう」
自分も営業担当をしている男はどうも他の企業の営業が気になり、話を聞いてみたくなった。
「俺も暇じゃねえんだ。くだらねえ話ならお宅の企業に苦情を入れてやるからな」
「勿論でございます」
ギラギラとした目で男が凄んでみても営業マンに怯む様子はない。むしろ話を聞いてもらえると喜んでいた。
「昨今の情報化社会。溢れかえる大量の情報を記憶することは難しいことと存じます。そこで本日はわが社自慢の補助記憶装置を紹介しにまいりました」
「コンピュータの類なら間に合っているぞ」
「いえいえ、そのようなものではございません」
そう言って営業マンが鞄から取り出したのは一つの白い粒だった。
「記憶装置と言って何が出てくるかと思えば。なんだ、ただの錠剤じゃないか」
「ただの錠剤ではございません。わが社の粋を結集した記憶装置でございます」
男は錠剤をよく見て不思議そうに眺める。
「これを一粒飲めば本の十冊は優に完璧に記憶することができます。その記憶力は素晴らしいもので一度覚えたことは決して忘れません」
「それが本当ならば素晴らしいものじゃないか。しかしどうにも怪しそうだ。人体への影響はどうなんだ」
「その点に関しては全く心配ないと言いたいのですが、私が言っても説得力がないでしょう。ではこうしてはどうでしょう」
営業マンは鞄からもう一つ錠剤を取り出して手のひらに乗せる。
「どうぞ、どちらかをお選び下さい。選んだ方を私が飲みましょう」
営業マンは手のひらの上には二粒並んでいる。男が右の粒を指し示すと営業マンはその粒を掴み飲み込んで見せた。
「私が安全を保証しましょう。お試し品としてこちらは差し上げます。さらに万が一の場合には全責任は私どもが負うという保証書もお付けいたします」
そう言って営業マンはもう一つの錠剤と保証書を男に手渡した。保証書を確認すると確かにそのように書いてある。保証書に書かれた会社は名の通った大企業であった。
ではまた後日お伺いします、そう言って営業マンは去っていった。
部屋へ戻ってもとても昼寝を再開する気になれず、残された錠剤と睨めっこした。
「ええい、死なばもろともだ」
男は勢いよく粒を飲み込んだ。十分、二十分と待ってみても何の異変もない。
「これは騙されたに違いない」
営業マンを追うために立ち上がると部屋の片隅に埃を被った語学本を見つけた。試しに読んでみると内容がみるみる内に頭に記憶されるではないか。一度読んだだけで即座に暗唱できてしまうのだ。
本の付属の音声データを聞いてみても、それもすぐに覚えてしまう。まるで天才にでもなった気分だ。
次の日、本当に記憶できているか試してやろうと異国の人が住む家へ営業を掛ける。昨日の本の内容のおかげかたどたどしくではあったが会話をすることができるではないか。持ち込んだ商品も買ってもらえて男は機嫌を良くした。
「これならばもっとあの薬を飲んでやってもいいな」男はそう考えるようになった。
それから数日後、男宅にまた営業マンがやって来た。
「待っていたんだ」男は手放しで出迎えた。
「まあまあ、それはありがとうございます。その後わが社の商品はどうでしたか」
「素晴らしいなんてもんじゃない。俺にもっと売ってくれ」
「勿論でございます。ですが、商品として購入なさるのでしたらお値段が張ります」
いくらか尋ねるとその値段は男の月収ほどである。
「それはいくら何でも高すぎる」
「確かに高価ですが品質は保証いたします」
あの効果を考えると値段も妥当なように思えてくる。しばし悩んだ後、男は購入を決意した。
お金を支払うと営業マンは鞄から二つの瓶を取り出した。片方の瓶には以前と同じ白い錠剤が、もう片方には赤い錠剤が入っている。
「忘れ薬としてこちらの赤い錠剤をお渡ししておきます。一粒飲めばたちどころに白い錠剤で覚えたことを全て忘れることができます」
営業マンはそう説明して瓶を手渡し去っていった。
それからの男の日常は劇的に変化した。
男はどんどん白い錠剤を飲み込み、本にかじりつき様々なことを吸収する。休日は図書館に足しげく通い開館から閉館まで居座り続けた。
その結果もあってか多彩な言語を話せるようになった男は様々な国の人に営業をかけることができた。男の業績はうなぎのぼりにぐんぐんと伸びた。
上司から信頼され、部下からは尊敬される。そのうちに足しげく通う図書館で優しい女性と出会い晴れて結婚することとなった。
営業マンがとある豪邸を尋ねると中からは以前商品を売った男が現れた。
「まあまあ、あなたでしたか。その後わが社の商品はどうでしょう」
「未だに愛用させてもらっているよ。君には感謝してもしきれない。ぜひ我が家に寄って行ってくれたまえ」男は丁寧な物腰で営業マンを誘った。
「お誘いはありがたいのですが、私はまだ仕事がありますので失礼します」
「それは残念だ。今度は休日にでも、ぜひ遊びに来てくれ」
男の家を後にした営業マンが独りごちる。
「補助記憶が本来の脳の記憶を上回ってしまったのか、まるで人格が変わったようだな」
営業マンは赤い錠剤を一つ口に含み、そっと呑み込んだ。
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