第6話 花里さんは離さない
このところ咲耶市では朝から曇りの事が多く、一日中蒸し暑い日が続いていた。
何人かが集まればきまって天気の話題になり、きまって今年は普通じゃないと言い交わすのだ。
そんなどんよりとした雲の下で、おりつは校門の脇に立ち、じきに来るであろう寧々を待ち構えていた。
その顔色は空模様と同じように優れず、空を見上げてはきょろきょろと周囲を見回している。
通りの向こうから登校してくる生徒の中に、寧々の姿を認めるとおりつの表情は幾分優れたように見えた。
おりつが寧々に向かって大きく手を振ると、彼女もすぐに気づいたようで、可愛らしく手を振り返し、小走りでこちらにやってくる。
眩しいほどの笑顔で、おはようございます。と頭を下げた寧々の頬には幾筋かの汗が伝い、そのうちの何本かはほっそりとした首筋まで達している。
「私って暑いの苦手なんですよね。とくに今日みたいに蒸していると、体が重い気がしてしまって。ほんと今年って普通じゃないですね」
寧々は取り出したハンカチで、そっと汗を拭った。
彼女の言うように、おりつもこのところの蒸し暑さは参ってしまっていた。
湿度が高いせいか、頭の上の両耳に何かが纏わりつく気がして、どうにも集中できないし、無意識に指先が耳を弄んでしまうのだ。
「早いとこ秋になって欲しいもんだなぁ」
おりつは一言ぼやいてから、寧々に本題を切り出した。
源太の部屋まで例の女がやって来た事、誰一人としてそれに気が付かなった事、源太の首筋に五本のひっかき傷が出来ていた事、全てを話し終えた時には、先ほどの笑顔が嘘のように寧々は真剣な面持ちになっていた。
唇に指先をあて、じっと何かを考えてるようだ。
「・・・これは私達が思っていた以上に深刻なのかもしれません。おりつさん、源太さんが赤い服の女を見たというのは、二日前でしたよね?」
「んーと、バーに寄った前の日だから・・・たしかそのはずだな」
おりつは指で耳の先をいじりながら答えた。
「今日で三日目、噂のように七日目で何かがあるとすれば、今日を含めればまだ五日あります」
「まさか寧々さん、あの噂話を信じてるんじゃないよな?」
「今は何とも言えませんが、ただ、何もしないでいるよりは、起きる事を想定して行動したほうが賢明ではないでしょうか」
おりつと寧々という珍しい組み合わせに、校門を抜ける生徒たちが視線を送るが、二人はそれを気にもせずに話を続ける。
「でも、あの女が幽霊・・・この世のもんじゃないなら、手の出しようがないだろ?源太の体中にありがたいお経でも書いておくか?」
「その時は耳まできちんと書いてあげてくださいね」
寧々はクスッと笑い、後を続ける。
「私は思うんです。たとえ相手があの世のものであったとしても、この世にいるうちはこの世のものなんです。それに、源太さんの首筋に痕を残したという事は、その瞬間源太さんも、相手に触っている事になりますよね。つまり、方法さえあれば私達も相手に接触できると思うんです」
「そういうものなのか?まぁやられっぱなしってもの面白くないしな」
おりつは自らに気合を入れるように、右と左の拳を打ち合わせた。
「ふふ、その意気です。まずは昨日も言ったように噂についての情報を集めましょう。それと、そのついでになんですけどね・・・」
寧々はおりつの耳元まで顔を寄せ、そっと何かを囁き、おりつは熱心に頷き聞いている。
今や、おりつの顔は雲の切れ目に覗く青く透き通った空のように明るく、希望に満ちていた。
放課後、おりつは生まれて初めて図書館に足を踏み入れていた。
その雰囲気は、おりつにとっては異様としか思えないのだ。
本に囲まれ、利用者全員が会話もせず、皆下を向き、ただひたすらに顔の下にある本をめくっているのだから。
整然と並べられたテーブルのうちの一つに寧々が座っていて、おりつと目が合うと小さく手招きをした。
近づくと寧々の横に、見慣れない顔が座っていたが、おりつはそれが前に寧々の言っていた、花里という図書委員だと察しを付けた。
如何にも図書委員というような眼鏡に、寧々とはまた違う雰囲気の物静かさ、おりつと目が合うと彼女は照れた様子で目を伏せた。
「おりつさん、こちらは花里さん。以前にも話したでしょう?ちょっとお手伝いをしてもらおうと思って」
紹介された花里は恥ずかしそうに、ぺこりと頭を下げた。
「あ、あの、図書委員の花里阿弥です。お、おりつさん、良かったら、あの、あく・・握手させてもらってもいいですか?」
「握手ぅ?まぁいいけど」
おりつが素っ気なく手を差し出すと、阿弥は緊張した面持ちで、女にしては大きめのその手を両手で包み込むように握りしめた。
「・・・・あ、ありがとうございます」
そう言ったものの、うっとりとした表情のまま阿弥は両手を離そうとはしなかった。
寧々は面白そうにその様子を眺めていたが、おりつは我慢の限界に達したようだ。
「花里さん、そろそろいいかな・・・?」
「え、ご、ごめんなさい。」
阿弥は慌てて両手を離したが、後生大事そうに手を合わせ口元へ寄せて目を閉じている。
おりつと寧々は顔を見合わせ、もう一度阿弥を見たが、目は閉じられたままで、完全に自分の世界に浸っている様子だ。
「それはそうと、おりつさん、噂を知っている方は何人かいましたか?」
「おう、おそののやつに話してみたんだけど、あいつ噂話の類が大好きだからはりきっちゃってさ、友達の友達、そのまた友達にも聞いてくれたらしいんだ。で、その結果がこいつだ。」
おりつはそう言うと、ノートを取り出し寧々の前に広げて見せた。
そこには、おそのが友人たちから聞き取った話、赤い服の女を目撃した場所等が、ミミズがのたくったような字でびっしりと書き込まれていた。
寧々は目をこらしてみたが、その字が「あ」と「お」どちらなのか分からず、それが文字かどうかも怪しい箇所すらあった。
「えっと・・・おりつさん、まずは赤い服の女の目撃場所を読み上げてもらってもいいでしょうか。もしわかるようならその日付も」
「構わないけど、そんなの聞いて何するんだ?ざっと見てみたけど、そこかしこに現れてるんじゃないか?」
よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに、寧々は手元に咲耶市とその周辺の地図を広げ、その隣にはいつの間に我に返ったのか、阿弥が色とりどりの小さな丸いシールが貼られた台紙を手にしている。
「この地図に目撃場所をシールでマッピングしていくんです。さらに日付を三日ごとで色を変えていけば、
噂の流れが掴めるでしょう?あわよくばその出所まで辿り着けるかもしれません」
「なんだか面白そうだな。よし、じゃあ早速・・・八月八日に市営球場の脇、十日には川沿いの田んぼの中、おっとこれは同じ日にパチンコ屋の駐車場だな」
そんな具合におりつは寧々には読めなかった例の字をすらすらと読み上げていった。
寧々は意外そうにしたが、字のことには触れず阿弥と協力して黙々と地図にシールを貼っていく。
「・・・で、ラストが七月下旬に詠多神社のふもとってとこだな。さて、地図はどんな具合だ?」
「幾つかは見当違いの場所でしたが、ほとんどがまとまっていますね。赤い服の女は案外几帳面なのかもしれませんよ」
満足げに頷く寧々の視線の先、その地図上には咲耶市の丁度東側の閼伽流山の麓から、西方向に位置する市街に向け、カラフルなシールの群れが扇状に広がっていた。
最も多いシールは市街やその周辺に広がる青色で、次いで緑色、東に移動するごとに数は減り、色は赤みを帯びていく。
「赤色のが日付が古いんだったよな?って事はだ、この辺りが噂の発信源ていう事になりそうだな」
おりつは最も濃い赤のシールが貼られている場所を指さしている。
「正確には、赤い服の女が目撃された場所になりますが、シールの広がり具合を見ると、その周辺に何かがあってもおかしくはないですね」
「おし、明日にでもここらへ行ってみるか?」
「いえ、現地に行く前にもう少し場所を絞っておきたいですし、それにこれからが私達の出番なんですよ?」
そう言い残し、寧々と阿弥は本棚の間へと消えていく。
おりつが弟達と山の中へ山菜や木の実を取りに行くのと同様に、彼女たちも知識の山の中に踏み入り、数ある本をかき分け、答えを見つけるのだろう。
一人残されたおりつは、暫くの間例のノート読み返したり、外を眺めていたが、いつしか静けさに負け、こっくりこっくりと船をこぎ始めている。
おりつの口元から涎が滴りそうになった頃、
「あ、ありました!」
阿弥の声が図書館中に響き、ビクッとしておりつも目を覚ます。
慌てて口元を拭うと、おりつは周囲の様子を伺ったが、館内の注意は声の元へ注がれていたため、涎を垂らしていた所を見ていた者はいないようだ。
おりつが胸元や、膝に垂れた後がないかチェックをしていると、興奮した様子の二人が小脇に本を抱えこちらへとやってくるのが見えた。
阿弥のあの一声がなければ、今頃間抜けな寝顔を二人に見られていたと思うと、おりつは内心で彼女に感謝をせずにはいられなかった。
「阿弥さんが見つけてくれたんですよ」
二人が知識のが山より持ち帰ったのは、色褪せ、汚れが目立つ一冊の郷土史だった。
「こ、ここです。ここ」
阿弥がページを開き、おりつへ差し出す。
そこには簡潔ではあるが、観音寺家という名家に伝わる赤い白無垢の話が書かれていた。
数十年前に起きた例の悲惨な事件にも触れていて、公にはされていないが、関係性は高いだろうと作者は言っている。
「赤い白無垢・・・」
「その本は三十年前に書かれているんですが、どうやらそこに出てくる観音寺家は今も現存するようですね」
「で、その家はどこにあるんだ?」
おりつはその答えを予想はしていたが、聞かずにはいられなかった。
「それは勿論――」
笑みを浮かべた寧々は地図に目を落とし、指先をそっと移動させる。
その動きは、閼伽流山の麓であり、赤いシールが点在する場所でピタリと止まる。
「ここですね」
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