第5話 ひたり、ひたり。
おりつの家で最も騒がしいのは夕飯時だろう。
肘をついて食べるんじゃない!と父が弟を叱り、野菜を残しちゃダメでしょう!と母が妹を叱ると、
弟は父ちゃんだって肘ついてるじゃん!と口答えをし、妹は母ちゃんもシイタケよけてるでしょう!と口答えをする。
おりつは初めのうちは静かに食べているのだが、一回でも流れ弾が飛んで来ようものなら、黙っていられるはずもなく、ついつい口を出してしまうのだ。
結局、口喧嘩はちゃぶ台の上が綺麗になるまで続き、後片付けが終わった後には、テレビのチャンネル争いと共に第二回戦が幕を開ける。
学校の友人の中には、家族の皆それぞれが好きな時間に食べ、自分の部屋で自分のしたい事をするという者もいて、おりつは少なからず羨ましいと思った事もあったが、今のこの生活が嫌いというわけではなかった。
とは言え、やっぱり自分だけの部屋は欲しいし、弟達にも好きなものを腹いっぱい食べさせてやりたい気もしないでもない。
とくに、いつも憎たらしいほど元気のある源太が落ち込んでいるのを見ると尚更だ。
驚いた拍子に、しょんべんを漏らしたのだから落ち込むのも無理もないわけだが、家族の誰もそれをバカにしたり、咎めたりする事はしなかった。
近所のおじさんに抱えられて帰ってきた源太を見た両親は、そのまま病院へ駈け込もうとした程だから、特にケガが無かった事に一安心して、黄色く濡れたパンツの事なんて頭になかったのだろう。
おりつはいつかは、しょんべん野郎とバカにしてやろうと思ってはいたが、それよりも、弟をこんな目に合わせた赤いやつの正体がなんであろうと、一発ぶん殴ってやりたくてしょうがないのだ。
今日の話だと、大昔の出来事が関係しているらしいが、そんな事は関係ない。どうにかして落とし前はつける。おりつにとってはそれが全てだった。
その為にはまずは情報を集め、噂の元にたどり着く。それが美濃部のバーからの帰り道で寧々と決めた事だった。
源太からも、その時の話を詳しく聞きたいと思っていたが、母の前では何かとやりづらいため、おりつは一計を案じる。
「源太さ、今晩親父のやつ無尽で帰るの遅いだろ。良かったら姉ちゃんと一緒に寝るか?」
昨日の晩、源太が一人で寝るのは嫌だと言っていたのは母親も知っているし、これなら話も聞け、眠ってるとは言え、源太を一人にすることにはならない。が、
「姉ちゃん何言ってんだ?姉ちゃんと寝るなんてまっぴらごめんだね!」
「あ?人が一緒に寝てやるって言ってんのに、またしょんべん漏らしてもしらねぇぞ!」
「う・・・姉ちゃんの馬鹿野郎!!」
痛い所を突かれた源太は、涙目になって台所にいる母の元へと駆けていく。その数秒後、
「おりつ!全くあんたは・・・」
母のこれが始まると少なくとも30分は覚悟しなければならず、襖の陰でニヤニヤと様子を伺う源太を見つけたおりつは、その憎たらしい顔を睨みつけてやる。
「ちょっと!どこ見てんだい!」
お説教は延々と続き、騒がしいままに、おりつの家の夜は更けていくのであった。
先ほどまで喧騒が嘘のように、家の中は静まり返っている。
一回寝てしまえば朝まで起きる事のない源太だが、この日はどういうわけか夜中に目が覚めてしまったのだ。
まんじりともせず、寝返りを打っているうちに源太の耳はピクリと反応する。
ひたり、また少し間を置き、ひたりと、素足で探るように歩く音が微かだが不思議とはっきりと聞こえてくる。
上体を起こした源太は、どこから聞こえてくるのだろうと耳をすます。
ひたり、ひたり、ひたり。
どうやらそれは階下からのようで、何かを探すように歩き回っているらしい。
酔っぱらった父が帰り、飲み物でも探し回っているのだろうか?
だが父なら、こそこそとせずに母親を大声で呼び、その場で喧嘩になるはずだ。
母か姉だろうかとも考えたが、二人とも足音など忍ばせずに、もっと騒がしくどたどたと音がするだろう。
妹は決して一人では階段を下りず、夜中に起きたとしても姉を連れていくに違いない。
それなら誰が、と思いを巡らせた時、源太は思い出したくない、忘れ去りたい一つの記憶に行きついた。
赤い服の女。昨日のあの時の記憶が、まさにあの赤のように鮮やかに蘇る。
ひたり。
源太は想像する。赤い服の女が自分を探し、この部屋まで続く階段を見上げている姿を。
ひたり、ひたり、ひたり、ひたり。
一段、また一段と、確実に音は近づいてくる。
源太は頭からかぶり、目を力いっぱい閉じたが、耳はその音の方へと向いてしまい、短い尻尾は震え、毛は恐怖で逆立っている。
ひたり、ひたり。
源太の部屋は階段を上った左側にあって、去年までは兄と一緒に使っていたが、その兄は外へ出てしまい、今は源太一人だけの部屋になっている。
今の今まで一人で寝るという事が、こんなにも心細い事はなかった。
隣の部屋に寝ている姉の元へ駆けこもうか、とも考えたが、もう既に部屋の前まであの女が来ているかもしれない。
戸を開けた瞬間にあの女と鉢合わせになるかもしれない。
ひたり、ひたり、ひたり。
足音が止まる。源太は姉が起きてくれる事に、父が帰っていつもの大声を上げてくれる事をひたすらに祈った。
だが、その祈りとは裏腹に、引き戸がすっと開かれる。恐らくそれは丁度中を伺えるくらいの隙間だろう。
すっ、すすっ
徐々に戸は開かれていく。
いつもなら建付けが悪く、ガタガタと音を立てるはずなのに。
すっ、すっ
音がやむ。
ひたり、ひたり、ひたり、ひたり。
耳元で足音は止まる。
源太は震えすらせず、じっと、ただじっと目を閉じ、頭の上の布団の裾をぎゅっと握りしめている。
その握りしめている裾を、誰かが掴み、布団を引き剥がそうとしているのが源太にははっきりと分かった。
あの女であるはずがない、朝が来て母が起こしに来てるだけだと、源太は思いたかった。
もしくは悪い夢を見ているだけだと。
だが、その願いとは裏腹に布団は無慈悲にぐいぐいと引っ張られ、源太は必至で抵抗するしかなかった。
突然その力が止み源太は安心したが、次の瞬間、ふわりと外の空気が布団の中に流れ込み、源太の頬を冷やりと撫でた。
源太が抑えてたのは頭の上だけで、その他の部分は簡単に引き上げる事ができるのだ。
源太の顔の真横に空いた空間。
もちろんそこは暗いはずだが、その暗さよりももっと濃いものが段々と視界に広がっていく。
髪をだらりと垂らした女が、布団の中を覗き込もうとしているのだ。
顔を背ける事も出来ず、目を閉じる事もできない。
長い髪が蛇がとぐろを巻くように、そこに盛り上がっていくのが分かる。
そして、あの女の顔が、もうすぐ──
その時だった。
がらがらっと遠慮なしに戸を開ける音が階下から聞こえたのだ。
源太にはその音がひどく懐かしく聞こえ、瞬時に父が帰って来たと悟った。
家の明かりが灯り、普段は腹の立つはずの、今帰ったぞ!という父のお決まりの台詞も、今何時だと思ってるの!という母のお決まりの受け答えも、この時ばかりは源太には嬉しく、萎え切っていた勇気さえ湧いて来るように思えた。
ふと気づけば布団を覆わんばかりに垂れていた、あのおぞましい黒い髪は視界から消えている。
今しかない、源太は意を決し、ありったけの力で布団を跳ね飛ばした。
あとはもうなりふり構わず、決して振り向かず、部屋から飛び出すだけだった。
転げるように階段を下り、酒臭い父の元に飛び込むと、源太は鼻を垂らし、涙を流し、おいおいと泣いた。
父と母は戸惑い、二階からは姉と妹が寝ぼけ眼で顔をのぞかせる。
わけも分からないままに父は源太の頭を撫で、母は背中をさすってやっている。
その母の手が、はたと止まった。
「あら、源太、その首どうしたんだい?」
母の気づいた先、源太の首から右肩にかけて、いつついたのであろう五本のひっかき痕が、赤くミミズ腫れとなってくっきり残っていた。
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