放任
忘却性水晶玉
放任
思えば、わたしがこの池袋という場所に足を延ばすようになってから、七年くらいの月日が経とうとしている。
七年というとかなり長い月日のように思えるけれど、来た当初と比べて街はそんなに変わってはいない。駅前や大通りの近くはこれでもかというくらいたくさんの人でごった返していて、人の間を縫って歩くたびに、自分がいかにこの世界でちっぽけな存在であるかということを否が応でも思い知らされてしまう。
街はそんな人間達を鼓舞するような活気にあふれているけれど、時々、本当は人間を拒絶しているんじゃないかという錯覚に陥る。彼らに意思があって、もし今のこの現状に満足してくれなかったとしたら、街は巨大な怪物となって道ゆく人々を木っ端微塵に噛み砕いてしまうのではないだろうか…なんて、そういうことを考えるようになったのは、何も最近になってのことではない。街が人間に飼い慣らされているように、わたしもまた自分が持つ微熱のような感覚に飼い馴らされながら、今日も人通りが比較的少ない路を一人で歩いていた。
「お前は…いつまでたってもそこにいてくれるんだね。」
そんな独りよがりで気持ちの悪い感傷に浸っていたわたしを、いつもの扉が出迎えてくれた。そのとっても人工的な音の一つ一つは、やっぱりどこか拒絶するような感覚をわたしに与えてきたけれど、今の自分にとってはそれさえも自分を承認するのに十分な刺激だった気がする。わたしはどこかが不安定で、3段程度の階段でさえ、しっかりと踏みしめて歩かなければその場から地下の歩道まで真っ逆さまに落っこちてしまいそうだった。
「ありがとうございました~またお越しくださいませ~」
わたし自身も何千回と、名前も知らない誰かにかけてきた言葉をかけられると、同じ空間に存在していないんじゃないかという思いが湧き出てくる。けれど、それは日常の中では当たり前の光景で、だからこそわたしが七年も通ったこの街に未だによくわからない感情を抱いている理由なのかもしれない、などというフィクションを描いてみたりする。実際、池袋だろうが、新宿だろうが、対して大きな差があるわけではない。ただ、東京という街はどうもわたしがしっかりと地に足をつけるには大きすぎるような気がして、うまく歩いていけなくなりそうになる。たったそれだけのことなのだ。
飲屋街のあまりロマンチックとは言えないイルミネーションを視界の隅っこに入れながらたどり着いた場所に初めて入ったのは、池袋に通い始めてから二年ほどたった時だと記憶している。空腹を満たすという意味では別にどこでも良いのに何度も来てしまうというのは、自分にとってこの場所が平原であるかのような感覚を得られるからだろう。平原どころか洞窟並みに狭い空間だけれど、なぜかここだけは暖かく人を迎えているような気がしていた。
厨房を飛び交う男性の店独特のかけ声と店内を流れるどこかの女の子の歌声が、でたらめな対位法のように独特な空気を作り出していく。そんな音楽に包まれている客の表情は、未来に希望を馳せているように見えたり、今を楽しんでいるように見えたり、ただぼんやりと最低限の幸せを噛み締めているように見えた。わたしは彼らが見せるその表情一つ一つが本当に愛おしくて、当初の目的を忘れそうになりながら自分の”今”について答えのない思索の旅に出ざるを得なくなってしまいそうになる。そんな時に、家族のように温かいそれが運ばれて来て、わたしは心底ホッとしたような、ちょっと残念なような気持ちを胸に舌鼓を打った。まあ、そうこうしているうちに結果的にそれまでの思索を忘れてしまったわけなのだけれど。
「あなたは…一体何を迷っているの?」
「えっ?」
「…ごめんなさい、今となっては過去形の方が正しいのかな。そんな気がしただけなのだけれど」
「………」
脳裏に焼き付いて離れないような綺麗な声が、目的を果たしてぼんやりしていたわたしの脳髄に響き渡って来た。
「なんですか、いきなり。」
「そんなに警戒しないで。理由は特にあるわけじゃないの。ただ、食べ終わった後ずーっとスープを見つめてたから。」
「初対面の女の子を食いしん坊扱いしないでくださいよ…」
「ごめんなさい。でも良いじゃない。たまにはそこにニンニクとか入れて飲んでみたらどう?別に女の子でもそういう楽しみを味わっても良いと思うのよ。わたしは。」
「はあ…」
なんなんだこの人は、という気持ちが先行して少々攻撃的な態度を向けてしまったことにちょっとした自己嫌悪をしつつ、でもそれは自分が見透かされたかと思った焦りと、自分よりも成長している雰囲気を見せつけられたという敗北感に姿を変えて、ちょっと癪だなあと思いつつも、自分の行動を制御できず、一口啜ってしまう。
「…………おいしい……です」
「でしょう?…やっぱりちょっとしたスパイスっていうのは大事なのよ。ラーメンでも人生でも」
「人生にスパイスを求めるのにここの店は少し役不足ではないんですか?」
「あら、あなた結構言うのね…。でも良いのよ。これくらいがわたしにはちょうど良いの」
「そういうものですか…」
「そういうものよ。いつかあなたにもわかるわ」
”わかりたくもないです”と返そうと思いつつ言葉を飲み込んで、とりあえず目的は果たしたし店を出ようとした時
「浅桐咲」
「えっ?」
「わたしの名前。きっとまた会えるわ。それじゃあ。」
そう言い残してわたしよりも数歩早く、その人は出ていってしまった。
「なんなのもう…」
…っていうか、いつのまに食べ終わったんだ…と思いながら、わたしもいつもと違う経験をしたその席を後にした。咲さんと名乗ったその女性は本当に不思議な人だったけれど、まあよくいくお店でこういう出会いがあるのも決して悪いことではないかもしれないと少し思って
「でも、どうせならもっとイケメンで優しい男の人と出会いたかったなあ…」
と、つい胸の内を、誰かに聞こえてしまうかもしれないくらいの小声で叫んでしまった。
「こんばんは。また会ったわね」
「こんばんは…。まさかあれから毎日ここに来て待ち伏せしてたわけじゃないですよね…?」
「そんなわけないじゃない。でも、今日は来るかなって気がしたから」
「人の思考を読まないでください」
初めて咲さんと会ってから二週間ほど過ぎたその夜、誘われるように山手線を降りてあの店に来てしまったわたしは、獲物を捕まえて得意げになっているこの人の横にまた座っていた。今度は二人で食事をとって、この間よりも少し長い時間たわいもない話をしている。この人のことを少し煩わしく思いながらも、でもどこか自分とは違って見えるこの人にわたしは少し興味があるのかもしれないと思った。咲さんはわたしの3つ上で、今はこの池袋で仕事をしているらしい。3つしか歳は違わないのに、社会人であるというだけでここまで余裕があるように見えてしまうのはわたしの劣等感からくる思い違いかもしれないが、とにかく彼女には今のわたしが人に興味を持つだけの何かを持っている気がした。
「でもね、余裕なんて実は全然ないのよ。」
「余裕があったらこんな店に一人で来ない、とでも言うつもりですか?」
「あら、思考を読む役はわたしの筈なのに。…まあ、今のはさすがにわたしも見え見え過ぎたかしらね。」
「そーんな分かりやすいセリフ言われたら中学生でも意味に気づきますよ。」
「そうかしらね。でも決してあなたをバカにしてるわけではないわ。」
”遠いように見えて近いだけなんだ”と、そんなどこかのJ-popの歌詞のようなことをボヤいた彼女に誘われてそのまま近くでコーヒーを飲むことにした。ブラックが飲めるんだなどと揶揄われたけれど、涼しい風が吹く季節が目前にあると思うほどになって来た今は、冷たくて甘い飲み物よりもブラックコーヒーの方がいいんじゃないかと思っただけで、特に彼女の大人っぽさに対してムキになったわけではない。ただ、昔は実際に少し背伸びをして飲んでいたのに、今となってはそれほど苦味を感じなくなっていたことに気づいて、嬉しいような悲しいような気分になる。
「そんなにジロジロ人が飲むとこ見ないでくださいよ」
「ごめんなさい。でも面白いのよ、あなた」
「余裕がないからですか?」
「いいえ。それはわたしも同じだもの。…ただ」
「……?」
「あなた、ひょっとして少し変わってしまったことを後悔してるのかなって思って」
周りにかすかに存在した恐怖を感じながら記憶の引き出しを開けてみたものの、わたしが今まで接して来た人間で浅桐咲などという名前は聞かなかった筈だし、知り合いに浅桐という苗字もいなかった筈だった。でも、彼女は確かにわたしのことを知っているような気がして、ついそのことを聞いてしまった。
「いいえ。あなたとは正真正銘、二週間と三日前が初対面よ」
「じゃあどうして…」
「見てればわかるわ。あなた、どこかずっと遠くを見ているみたいだもの」
まるでこの世全てのことに関心がないみたいだと彼女は続けた。そんなことはない筈だった。わたしはそれなりに好きなことをしながら人生を歩んで来ていた筈だ。少なくとも、約半年前の卒業式の日まではそうやって生きて来た筈だった。友達もそれなりにいて、これからは働いてお金も得て、今までより自由に生きれることにそれなりの楽しみを感じている、そう思っていた。
「また過去形なの?」
「えっ…?」
「これはこの先も長くなりそうね」
そうやって微笑んだ彼女は、一緒に買ったチョコレート味のクッキーを齧りながら微笑んでいた。わたしはというと、ショートして使い物にならなくなった自分の一部があったことに残念ながら気がついてしまった。かといってそれを自分がどういうふうに処理していいものか全くわからずに、コーヒーをただ口に含むことにした。そのコーヒーはさっきの一口と違って、しっかりとした苦さを口腔の中に充満させていった。
「やっほーサッチー!久しぶりだね!」
「やっほー。香苗、元気だった?」
「めっちゃ元気よ!そういうサッチーは…ちょっとだけ元気なさそうだね」
言うまでもなく、サッチーというのはわたし、七海紗智のあだ名だ。藤堂香苗は大学入学来の親友で、卒業してから半年以上経つ今でもずっと連絡をとっていた。お互いに大学を出ても華がないという悲しい理由でクリスマス前にこうして集まって街を歩いているわけだが、話をしていないと世間からの視線で心まで雪景色になってしまいそうな気がする。今更ながら、どうして家でお菓子パーティーでもしなかったのかと思い始めて来たが、香苗はどちらかというとアウトドア派なのであった。
「そう?いつも通りだと思うけれど」
「なんか大学の時とちょっと違う感じ」
「そうかな?」
香苗は変わらないね。と続けると、彼女は自分の取り柄はそれしかないんだよなどと言う。これが大学を卒業してからのおきまりのパターンだった。でも、わたしは大学卒業以来、彼女はしっかりと変わっているということをわかっているような気がしていた。
「香苗はさ、子供の頃の夢を叶えて、今保育士をしてるわけじゃん。」
「何?突然どうしたの?」
「どうして、香苗は笑っていられるの?」
彼女はうーんとさも誰かの彫刻作品のようにわざとらしく頭を抱えた後
「なんで…かな。正直よくわからないんだよね。仕事すっごくキツイし、好きなことだからやってられるのかもしれないけれど…。でもね、正直、自分の原体験……っていうのかな。そういうものの力が強い気がするんだよね。」
それはいつだったかのように、わたしの脳髄を大きく揺さぶって来た気がした。
「原体験…?」
「あたしにとって、っていう話なんだけどね。…でも、あたしが見て育って来た中にはそういう綺麗な場所みたいなものがあって、そういうのを…なんていうか、あたしが肯定したかったんだよね。善人気取りで気持ち悪いって思うかもしれないんだけれど………なんか、どうしてもそういうものだけは捨てたくなくて。」
いつもだったらここで冗談を言って香苗を弄れるのだけれど、今はその言葉を聞くしかできなかった。
「正直、すっごく汚い世界だなって思うことがたくさんあるんだ。でも、あたしが小さい時、あたしに綺麗な世界を信じさせてくれた人も少なからずいて………あーもう…なんかうまく言えないなあ………。」
少しの沈黙の後、すこし髪をかきむしった彼女は最後に
「………なんていうか、そういう優しい嘘吐きでいたいんだ。あたしは」
そうポツリと言った、その彼女の言葉があまりにも衝撃的すぎて、同時に、わたしにとってその言葉は彼女が彼女を守るために言った一種の優しい嘘だったということに気がついて、ただ一言
「そっか」
そういうふうに返すことしかできなかった。
「…ふーん。そんなことがあったんだ」
「そうなんです」
結局またあの店で咲さんと会ったのは、年が明けて暫く経った雪の日の夜だった。寒い日に感じた麺とすこしこってりとしたスープの調和は、初めて会った時に食べていた味とは少し違った風味を出していた気がする。
店で咲さんと話をしたのは結局10回にも満たない回数だったけれど、すごく内容の濃い話を何年来の友達としているような感覚がいつも残っていたのが自分のことながら不思議だった。
「ねえ、咲さん。」
「なに?」
「生きるって、結局どういうことなんでしょう」
突然どうしたのとでも言いたそうな顔をした彼女に、わたしは香苗から話を聞いた後ずっと考えていたことについて全てを彼女に話してしまった。私達は皆、とてつもなく大きなコンクリートの監獄に閉じ込められて過ごしているのではないかと、そしてその監獄の中で、知らない誰かが知らないところで苦しんで、監獄の中で常に他者を憎み続けているんじゃないだろうかという一種の強迫観念に、わたし自身が囚われていたのかもしれない。とにかく、自分の中で肥大化し続ける悪い妄想を誰かに否定してほしい一心で、わたしは咲さんにかなり大雑把に疑問を投げかけてしまった。
「そうねえ…」
少し困ってしまったように見えた。でも、咲さんのことだからわたしの考えていることは全てお見通しなのかもしれない、という期待も少しあったのは事実だ。そういう困った反応をしてくれるのは少し嬉しかった。そうして、咲さんはゆっくりと言った。
「わたしにも、正直言ってわからないのよ」
「…え?」
「わからないのよ。考えれば考えるほど、わからなくなるの。昔は、わたしが願っていることはいつか叶うって信じてたわ。実際、わたしは昔思い描いていた人生に近い人生を今、送っている。そういう気がするの。」
「でも、それはまさに生きているってことじゃないんですか?」
「それがね、そうでもないのよね」
彼女は葉巻でも吸っているかのような大きな深いため息をついて、わたしに言った。
「むしろ、今のわたしはまるで死んでいるみたいよ。わたしがずっと抱いて来た思いからすれば、という話なのだけれど。」
死んでいるという言葉の意味が、わたしにはわかる気がした。
「でもね、それが、みんなが言っている”生きる”ってことかもしれないのよ」
「そんなの…ひどいです。」
「そうね。でも、わたしはそれを受け入れてしまったのよ。バカみたいな話かもしれないけれど…。だから、最初にあなたに会った時、正直羨ましかったわ。」
「どういうことですか?」
「…だってあなた、すっごく人間らしくないんだもの。生きようとしている。みんな死んでいくこの世界で、もがいて、もがいて、生きようとしているんだもの。つい揶揄いたくもなるわ。」
「やっぱり咲さん、悪趣味ですよね。」
「お互い様よ」
そう言ってお互いに小さく笑って、その店を後にした。なぜだかわからないけれど、その時わたしは、今後あの店に顔を出しても、二度と咲さんと出会うことはないんじゃないかという気がしていた。それでもその店を出て咲さんと会わなくなるそのことについては、きっとわたしにとって重要なことだったのだろうと思っていた。
2月も半ばに入ろうとしていたその日、わたしは貯めていたアルバイト代と少しの小遣いを持って、東京を出る決心をした。結局あの後一度だけあの店に顔を出したが、咲さんと会うことはなかった。できれば、咲さんも一緒に来て一緒に幸せな世界を作れたらよかったのになどと、子供のように空に文句を垂れてみたりした。
今となっては本当に昔のことのような気もするし、つい数時間前の出来事のような気もする。とにかく、そうやってわたしは世界の法則から加速度的に離れて行って、もう二度と、東京にも、あの店にも、自分が住んでいた小さなアパートにも戻ることはなかった。
放任 忘却性水晶玉 @crystal_of_forgetting
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