第6話
胸騒ぎがした。
言い知れない漠然とした、けれども確かな悪い予感に、ジャノメは自然と足を早めていた。
以前にも何度か覚えのあるその感覚が、杞憂に終わったことは一度もない。
そして今、もしもそれが当たっているならば……可能性はごく限られたものになる。
数時間前に出た家のドアノブに手をかける。室内に人の気配はない。
けれどノブを回して開けた瞬間に流れてきた室内の微かな臭気は、ジャノメが悪い予感を的中させたことを悟るには十分な説得力だった。
玄関の向こう、明かりの消えたリビングの床にダリアが横たわっていた。
人の気配はない。生きている、人間の気配は。
ジャノメは靴を履いたまま玄関を通過し、室内灯のスイッチを押した。
明るくなった室内には荒らされた形跡は一切見当たらない。
ただ、その中央では一糸纏わぬ姿のダリアが事切れていた。
傷口は胸元に一箇所、それもほとんど出血はない。
躊躇なく心臓をひと突きにしながら、派手な返り血を残すこともなく慎重に刃を引き抜いたであろうその致命傷は、同業者、それもかなりの手練れによるものだとジャノメは結論づけた。
歩み寄り、彼女の見開かれたままになっていた大きな瞳をそっと伏せる。
手のひらに触れた、数時間前にはほのかに上気していたはずの頬は既に冷たくなっていた。
そして、ジャノメはダリアの白い腹部に置かれている、黒い封筒を手に取った。
そこから中身である一枚の便箋を抜き取り、開いて目を通す。
時間と場所だけが書かれた簡素な内容の置き手紙だが、便箋の端に描かれた青紫の花には見覚えがあった。
「リンドウ、か……」
ジャノメは低く呟き、手の中の便箋を握り潰す。
動く時には必ず自分の名前の花をあしらったものを現場に残していく、悪趣味な男の顔が脳裏をかすめる。
彼自体は殺し屋ではない。代わりに、いつも癖のありそうな護衛を何人も引き連れている。
彼がジャノメに接触するとしたら仕事の依頼以外の目的は考えられなかったが、今日に限って運悪くこの家にはジャノメではない人間がいた。
それだけならばダリアの口を封じる必要はない。ただ、その依頼が誰にも知られてはならない秘密裏なものだったならば……話は別だ。
数時間前、ダリアと交わりながらフラッシュバックした、初めて肌を合わせた女の顔。
その瞬間から、気付くべきだった。すぐにこの家から追い出し、無理矢理にでも帰らせるべきだった。
そうすれば今頃、彼女は何処かの富豪のベッドの上で日々の仕事をこなしていたのかもしれない。
甘ったるい声で鳴き、白い脚を淫らに開いて、明日も、その先も。
「くっそ……」
ギリ、とジャノメはきつく奥歯を噛み締めた。
情に流されないことと、感情を捨て去ることとは違う。そしてジャノメは、前者を徹底することで後者を避け続けてきた。
他人に心を許すことは、殺し屋にとっては破滅を呼ぶ。
そして殺し屋に無闇に近付く者には、不条理な死の足音が忍び寄る。
知っていたことだ。もうずっと、ずっと前から。
だから、遠ざけようと決めたのに。
関わらないことで守る、その道を選んだはずだったのに。
冷たくなったダリアの両手を胸元で組ませて傷口を隠すと、ジャノメはその亡骸の上にシーツをかぶせた。
首から上だけならば、眠っているようにしか見えない穏やかな死に顔だった。
玄関に置いたままだったトランクを手に、ジャノメは再び家を後にする。
その顔からは、一切の感情が排除されていた……ただひとつ、嵐の前の海に似た、底知れない冷たさを宿した瞳を除いて。
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