第6話 四畳半宇宙付きにつき
ワンルーム6畳、駅から徒歩5分。学生が寝泊りするだけなら充分の部屋だ。ましてや家賃が3万円となれば、余計文句は言えない。
――とは言っても、ねえ?
道理で家賃がこの部屋だけ破格の値段だと思った。家主さん曰く「事故物件ってわけじゃあないんだけど、どうも住む人が長続きしない」と曖昧なことを言っていたが、こんなものが部屋にあるんじゃあすぐに出て行ってしまうだろう。
押し入れを開けた手は、漆もどきに塗られた黒い化粧縁にくっ付いて離れなかった。逆に、ぽかんと間抜けに開いた口は、閉じるという動作を忘れたまま神経に意識が戻ってこない。
必然的に、目の前に踊り狂う光景を、私は目を逸らすことなく静かに受け入れるしかなかった。
この部屋に一つしかない収納スペース。襖2枚分しかない、しかし部屋が奇麗になるほどいろんなごちゃごちゃを押し詰められて既に魔窟を築いていた空間に――
――宇宙が広がっていた。
光の当たり方にムラのある、深い紺が視界を覆い尽くす。ムラの原因である星屑たちに手を伸ばしても、無論掴めない。実際星が近くにあるのか遠くにあるのか、よく分からない位置でふわふわ浮いているようで、掴みそうで掴めない3D映像を観せられているようだった。
恐る恐るつま先を宇宙に差し出してみる。しかし紺は私の足という異物が入ろうとも何も反応せず、静かに星を漂わせるばかりだった。癪だったのでもう一歩。しかし宇宙は知らんぷりだ。それならえいともう一歩。気づけば襖にかけていた手も宇宙に入り込んでいた。
特に地に足を付けている感覚は無い。ただ、プカプカ浮いているという感じもしない。足を前に滑らせればツーツーと奥に進んで行くし、座ろうと思えばヒョイと両膝を胸元まで上げて体育座りが作れる。地面もなければ無重力の有無すらよく分からない。今までに味わったことのない感覚で、だからこそ「何とも言えない」感覚としか言いようがなかった。
ふと、体育座りのままクルリと180度右旋回する。今まで来た道のりが跡となって残るわけでもなく、開けっ放しにしておいた襖から、光が長方形に型取られて差し込んでいる。
空間を漕ぐ必要はないらしい、ただ行きたい方向を見つめるだけで、体育座りのままの自分がスススと動いた。長方形の光は次第に大きくなり、視界いっぱいになった瞬間私はズトン、と真下に落ちた。
「ったぁ〜……!」
元の部屋に戻った瞬間、これまでにない程キレイな尻もちをついた。どうやら随分高い位置で体育座りをしたまま戻って来てしまったらしい。
尻をさすりながら更に振り向く。宇宙は依然として他人事だ。しかし、やはりちゃんとそこにある。
――本当に、あるんだ。
未だに信じられないことが多いが、尻の痛みがうるさくそれを主張する。でも、
「うん、ごめんなさい」
誰に対してでもないが少し申し訳なく思いながら、私は襖をぴしゃりと閉めた。
「……さて、片付けるかな」
自分に言い聞かせるような独り言で号令をかけ、私は襖から回れ右をした。
今日は夕方から、長谷部がウチに来る。まずはそれからだ。
思えば私が宇宙を見つけたのは、長谷部のせいかもしれない。
「そういえば、今度の舞台。僕が本書くことになったんだ」
「そう。早くも大抜擢じゃない」
「まあね。演劇サークルって上下関係厳しいから、余計に」
今日の朝の星座占いは11位だった。最下位だったら、救済アイテムも教えてくれるからまだいい。しかし11位だとあまり大きく取り上げられることなく救済処置もなく、ただただ順位が低いだけ。だから私は占いの中で11位の時が一番付いていないと思っている。
なのにそんな日に限って長谷部が来る。少し慌ててしまったのだ。運気の流れを変えるつもりで、いつもは右から開ける襖を左から開けてみたのだ。それがいけなかった。
結果、吸引力の変わらないただ一つの収納スペースは本物のブラックホールがありそうな宇宙を孕んでしまい、行き場を失った段ボールは部屋の隅で新たな城を築くこととなった。
「君の手料理、久しぶりだって思うことがまず不思議だよね」
「はいはい」
「で、今日のメニューは?」
「勿論、長谷部のリクエストですよー」
「僕、何も言ってない」
「でも、これでしょ?」
小さな卓袱台の上に湯気の立つ皿を置くと、長谷部は満足げに頷いた。
もう大学生だというのに、長谷部の夕飯のリクエストはいつだってハンバーグだ。変わることしかないこの環境下で、そんな変わらない長谷部は一つの枷のようなものだったりするのだけど。
「引っ越し、取り敢えずお疲れさま」
「ありがとう。そっちも大分落ち着いた?」
「うん」
「そう、お疲れさま」
それが「いただきます」の合図となって、二人で早速箸を持った。
高校のクラスメイトが、家に上がってハンバーグを食べていくようになったのは、今から丁度3年前だ。たまたまクラスが一緒になって、そしたらたまたま同じアパートだと分かり、たまたま長谷部が一人暮らしで、それを見た私の母がよく夕飯に呼ぶようになった。毎週金曜、部活帰り。その日だけは私が夕飯を作る当番で、長谷部にリクエストを聞けば大抵「ハンバーグがいいな!」だった。
だが今日、日曜日だというのに私たちはハンバーグを食べている。二人だけで。
何だかいけないことをしているみたいで、でもこういうこそばい気持ちが「自立」なんて言うのかな、とか思いながらハンバーグに箸を突っ込む。
「それにしても、わざわざ僕の近所の集合住宅に引っ越してこなくても良かったんじゃない?」
「いいの。たまたま、大学も同じなんだしさ」
特に何か打ち合わせたわけではないのだが、毎朝同じ学校に出向く日々は高校を卒業しても続くこととなってしまった。
「なら僕と同じ寮に入れば良かったのに」
「それじゃあこうして遊びに来れないじゃない」
「まあ、男女きっちり分けられてるところだからね。でもさ、なんでこの時期?」
長谷部は近くの寮に先月から既に住んでいる。というよりもそれが移転のタイミングとしてはごく一般で、私が一足どころか三足くらい遅いのだ。
「引っ越さなくてもいいと思ってたの。でもやっぱり、面倒くさくなってきちゃってさ」
入学してからもう二ヶ月。友達の枠も大分固まって来て、サークルで居場所を作り出し、授業の時間割も空で言えるようになってきた頃。そのようやく落ち着いてきた環境を根源からとり壊すように、私は長谷部の近くで空いていた、このオンボロアパートの一室に雪崩れ込んで来た。
「片道一時間半!授業をサボる口実としては充分すぎたの。丁度先生の顔も覚え始めてきて、やりたくて取り込んだことに好き嫌いが付き始めて来てさー。これじゃあいけないと思って」
麦茶をカッと飲み干す。コップの底に沈んでいた僅かなこげ茶の粉末が、喉に障ってせき込んだ。イガイガを無理に唾と一緒に飲み込む。長谷部は心配する素振りすら見せず、その一部始終を眺めていた。
「んま、そんなわけで来ちゃった」
「うん」
長谷部はこちらに目をやったまま、器用にハンバーグを箸で切り分ける。
「君らしいね」
そして、いつもその一言でまとめてしまうのだ。
無論、押し入れの中の宇宙のことは話せなかった。
長谷部が帰ってから、分かったことが2つある。
1つは、押入れをいつものように右から開けば、宇宙は現れずにちゃんと収納スペースとして機能するということ。肝心の来客があった後に判明するあたり、星座占い11位は強ち間違っていない。
もう1つ。宇宙は毎度、押し入れを開ける度に表情が違う。
先ほど初めて宇宙を見た時は、私が宇宙と聞いてイメージするものをそのまま具現化したような色合いと星の散らばり方だった。しかし今、寝る前にもう一度と改めて押入れを開けてみると、真正面に大きな天の川が架かっていた。
――ミルキーウェイって、カッコいいのかな。それともダサいのかな。
いつだか、長谷部とそんな話をしたことがある。あれは確か、高1の臨海学校の夜だった気がする。
『使わない言葉って、だけじゃない?』
一歩後ろから答えたら、長谷部が即座に振り向いた。あんなに驚いた彼の顔を見たのは、最初にも最後にもあの時しかない。
――独り言だったんだけどなあ。
ゆるゆる笑う長谷部は、こちらに罪悪感を決して持たせない優しさがあった。
……あれから長谷部と仲良くなったのは、確かに事実だ。
「……粋な演出、するもんだね」
目の前の天の川に投げかけると、星が少し川に沿って流れた気がした。それを得意げな応答と受け取ると、私は気の済むまで宇宙の中に突っ立って、天の川を眺めていた。
案外悪くはなかった。この空間を一目見ただけで去って行ったであろう先住人たちを、勿体ないでしょと軽く叱った。
宇宙は、私の中の変化を反映させるらしい。
『君はサークルとか入らないの?』
長谷部に言われて演劇サークルの勧誘を断った日は、私はさそり座の近くを泳いでいた。
銀河鉄道の窓から見えた、あの景色を直に見た。真っ赤な炎はその尾をもつれにもつれさせて、行き場のないまま更に燃え続けていた。私はそれを尻目に、すっと遠くまで漂って行ってしまった。
逃げるように何となく今更旅行系のサークルに入って、遅いながら軽く飲み会を開いてくれた日は、本当にブラックホールを遠巻きに見た。
『俺、結構好きかもな。君』
隣にいた先輩に零された言葉が、ブラックホールの渦とともにぐわぐわと唸った。私はそれを真正面から凝視して過ごした。
一緒に授業を受けていた友達を最近見かけないと気づいた日は、星が爆発した。
ゆらゆらと燃える炎は穏やかで、様々な色を孕んでいた。奇麗だな、という安直な感想だけで、その場に座ってしばらく眺めていた。
長谷部が脚本を手掛けたという校内公演を観に行ったときは、何だか色んなガラクタが宙を舞っていた。適度に掻き分けながら宇宙を見ようにも、どうしてもプラスチック片や鉄棒が視界を横切って来る。結局その日は諦めて早々に押入れを引き上げた。
宇宙観光から現実世界に戻るときは、半開きにしておいてある押入れの光を目指して抜け出す。たまにここから漏れてくる光が邪魔をして、宇宙を眺めていても気が散る時があるが仕方がない。この光が、私を部屋へと帰す唯一の目印なのだから。
流星群から太陽まで、色んな宇宙現象や惑星がぽっと現れては次の日消えた。過ごす毎日は同じようで少しずつ違って、いつしか私はそれを確認するために毎日寝る前宇宙に入り浸り、宇宙を通して私は今日一日一体どう過ごしていたのかじっと眺めるようになっていた。
「僕ね、気になる人が出来たんだ」
その日、長谷部は唐突にそう話しを切り出した。
「へえ」
私はいつものトーンで返事をした……はずだ。しかし弁当をつつく箸が止まってしまったのは事実だ。長谷部もさりげなく私の手元を一瞥した。
「急だね」
「うん。急なんだ」
同じ物が詰まった弁当から小さなハンバーグを見つけると、長谷部は迷うことなくひょいと一口で放り込んだ。
リクエストされたハンバーグの材料は、全て長谷部が買ってきてから家に来る。そのまま家で夕飯を食べ、残った材料は明日の弁当の中身になり、ついでに長谷部のものも作って持っていく。これも高校の時からの週一回の習慣だ。
「誰?サークルの子?」
長谷部は首を横に振った。
「演劇って、皆で作っていくものだからさ。作られる人間関係も案外極められ過ぎちゃって……神聖?とはちょっと違うんだけど、色恋沙汰が一切無くなるんだ」
「へえ」
言いたいことは、何となく分かる。目的を持った団結力から生まれる友情は異様に固く、そして融通が利かない。
「じゃあ、誰?講義は一緒?」
「ううん。全然」
「何?通りすがりの人とかなの?一目ぼれ?」
長谷部は育ちの良い女の子のようにコロコロと笑った。
「君は、僕が誰を好きになったのかが気になるんだ」
「え?そりゃ当然」
刹那、長谷部の表情がふっと落ち着いた。自分よりも何年も多く生きてきた大人がたまに見せる、余裕を存分に含んだ微笑み。長谷部はほんの一瞬、そんな表情を私に注いだ。
「どうしてこの話を君にするのかとか、いつから好きになったのかとか、そういうことは聞かなくていいの?」
しかしすぐに長谷部は、いつもの無邪気な笑い声を私に浴びせた。
「え?ああ、いや……」
話の内容よりも、そんな長谷部の変化に戸惑った。だから私は次にぶっ込まれた長谷部の台詞を、上手く追うことが出来なかった。
「好きなんだ、――」
私の中で、何かがぎゅるっと捩じ上げられた。出来た渦は、そのまま中心から何かに吞み込まれ、後に残ったのは平らな心だった。
思わず、まだ中身の残っている弁当に蓋をした。そのままリュックの中にぶち込み、そのリュックを更に背負い、くるりと長谷部に背を向けると、全速力でその場を離れた。
え?何?何だって?
聞き取れなかった、というより聞こえなかった、というより――聞きたくなかった。
確かにあの後、長谷部の口元は……
――私の名前を呼んでいた。
何で?なんで?ナンデ?
走る足を止めることなく、駐輪場に突っ込み、自転車を駆り出し、躊躇なく校門を抜ける。
いつも通っている道だ。迷うことなんてない。何なら毎日……長谷部と一緒に通っている道だ。
当然のように家に着き、階段を駆け上がり、部屋に滑り込む。もつれる足をそれでも止めることなく、ダンッ!とついた手は勿論襖にかかっていた。
吸って、吐いて、また吸って。三回繰り返してから思いっきり襖を開け、中に飛び込んだ。
――何も無かった。
いや、宇宙はあった。だが、月も土星も隕石も、これと言って目立つものは何も無かった。天の川を織りなすような小さな一粒一粒が、弱く弱く瞬いているだけだ。
――これじゃあ、何も分からない。
ふと、後ろを振り向いた。襖が大きく開いていて、そこから光が容赦なく入り込んでいる。私は襖に近づくと、その光を小さくした。襖の裏に触れているという感覚はない。ただ、動かした手の意思に沿って、光がだんだん、だんだんと細くなっていく。四角がスリムな長方形になり、棒状になり、線になり……そして消えた。
完全な宇宙の中で、私はそっと体育座りをすると、360度ぐるりと仰いで星の一つ一つを穴が開きそうなほど眺めた。
ため息ひとつ。ふと足元に目を落とした。そして私はあっと声を上げそうになった。
つま先が、宇宙に溶けている。気が付けば指も、深い紺を纏って星が見えそうだった。このまま足も、肩も、頭も心も、溶けて行ってしまうのかもしれない。
まあ、いいや。
全てがどうでもよくなって、私は宇宙に全身を預けた。きっと、この部屋に住んでいた何人もがこうしたはずだ。
そう思うと、この部屋の家賃がやけに安かったのにも納得がいった。
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