第5話 ココロ

 「憩のカケラ」と文字が飾られたドアを押す。

カランコロンと涼しげな音と『イラッシャイマセ』の声が聞こえて来た時、マスターはグラスを磨いていた。

そして再び、

「いらっしゃいませ」

とマスターは上品に微笑んだ。

その時また、

『イラッシャイマセ』

と声がして、僕はようやくその声が篭の中から聞こえる事に目を丸くした。

「へぇ、喋る鳥がいるっていうのは本当だったんだ」

興味本位に、篭に一番近いカウンター席に腰掛けた。

竹籠の格子越しに、無邪気に光る眼が覗き見えた。

『オ名前ハ?』

「健太」

『ケンタ』

録音されたかのようにそっくりに真似られた。

呆気に取られているうちに、その鳥は素知らぬ顔で赤いゴム風船と遊び始めた。

つやつやとした黒い身体。頬にさっと走らせたレモン色は、野生らしさを際立たせる。それとは対照に、くちばしはトロンと熟したマンゴーのような、温かい色をしていた。先はあまり尖っておらず、オモチャみたいで軽そうだった。

南国にいるような鮮やかな配色とは対照に、端正な顔立ちはどちらかというと和鳥のような風貌がある。まじまじと眺めて見ると、不思議な出で立ちをした鳥であった。

「九官鳥のココロと言うんです。よく人の言葉の真似をするんですよ」

『ゴ注文ハイカガサレマスカ?』

仕事モードに切り替えたのだろうか。しかし間抜けな顔のまま、ココロはマスターのバリトンボイスを真似た。少し滑稽に見えて、僕はくすりと笑った。

「抹茶ラテのホットと、かぼちゃのパンケーキを」

おや、と言うようにマスターがこちらを見やった。

「どちら様から、この店のことを?」

「え?」

「初めて見るお顔ですのに、メニューも見ずに注文なさったので」

「ええ、まぁ……」

『イツモノオ願イシマス』

ハッとしてココロを見やった。

少し控えめな、恥ずかしそうな女性の声。

「あぁ、咲さんですか。確かに、ここのお得意様ですよ」

不意に顔が熱くなる。

「咲さんに、仕事で息詰まっていた時にここを教えてもらって…。抹茶ラテとパンケーキがおすすめだとも」

咲さんは、僕の仕事の先輩。学生の頃からの知り合いなので、もう長い付き合いになる。

おしとやかで、優しくて、少しおっちょこちょい。

そして何より、笑顔が素敵な人。

――僕の好きな人。

「なるほど。同じ職場の方でしたか。すると、美容院を?」

「はい。カメリアと言います」

地元の小さな個人の美容院だ。そこを紹介してくれたのも、咲さんだった。

「そういえば咲さん、最近見かけませんね」

「丁度今の時期は忙しいんですよ、咲さん。心配です。迷惑をかけまいと、いつも一人で無茶をするので」

「そうですか…。でしたらあなたが守ってあげて下さい」

「いいえ、僕には…。だって咲さんは――」

健ちゃん、健ちゃんと僕を呼んでくれた咲さんは――。

『アノネ、私ネ、』

ココロの作り物のようなくちばしから、咲さんの言葉が飛び出る。

『オ嫁サンニナルノ』

苦笑するしかなかった。

「来月だそうです。結婚」

途端に、抹茶ラテの緑やパンケーキのオレンジを並べている自分が子供のように思えてきた。

溢れる哀愁は、それよりも遥かに世界を見てきたであろうマスターの前では初々しささえ感じた。

「きっと、素敵なお嫁さんになりますよ」

途端に甘く感じるようになった抹茶ラテが、僕の舌をやたらと解す。

悪くはなかった。



「お帰りなさい」

と言いながらも、味噌の塩梅に集中する。それから急いで玄関に向かった。

「ただいま」

いつものように、誠也さんからカバンを受け取る。心配性の誠也さんの荷物はいつだって重い。もう三ヶ月もこの生活を続けているが、この重さにだけは慣れなかった。

「誠也さん……。こんな重たいものを毎日持っていたら肩が凝りますよ」

「はは。そうでなくても凝ってるさ。それに、大は小を兼ねるだろ?」

「兼ねすぎです」

カバンを引きずる私を余所に、誠也さんはさも愉快そうにリビングに向かう。今日は随分と機嫌がいいらしい。

「……おい。味噌汁、沸騰してるぞ」

「あ!すいません」

「全く、お前は相変わらずだな」

なんて、笑って許してくれるくらい。

「そういや、式場の目処がたったぞ。招待状、お前はどうする?」

ふと、お椀をテーブルに置く手がピタリと止まった。

「…親戚の人たちとか、学生時代の友達とかには送りたいかな」

「学生時代?」

やっぱり、誠也さんは食ってかかってきた。

「ずっと女子校でしたから。色々と関わりは浅く広くありましたし」

「…そうか。女のサバイバルとやらは、面倒なもんだな」

不穏な気配が引いて行くのを感じた。心の隅で、胸を撫で下ろす自分がいる。

「あと…カメリアの人たちにも。普段お世話になってるし」

私をあのお店で拾ってくれた美代子さん。カットのいろはを教えてくれた小林さん。仕事には人一倍厳しい阪倉さん。あと、いつも落ち込んでいる時に励ましてくれる健ちゃん。

健ちゃん――。

「ほぅ…」

後ろに気配を感じて我に返る。

「つまり、男にも送るのか」

しまった、と思った。

が、ここまでくるともう遅い。

「ひっ」

手首を掴まれ、思わず声が出た。

「あ……。ご、ごめんなさいっ」

「そんなに動揺するってことは、何かあるのか?」

「ち、違います!」

「そうか」

しかし言葉とは裏腹に、誠也さんが込める力はどんどん強くなっていく。

「痛っ……」

「本当に、何もないんだな?」

「……ないです」

すると、誠也さんは素直に手を引いてくれた。

が、ホッとするのも束の間、

「ゔっ……!」

後頭部に鈍い痛みを感じた。

「嘘をつくな!」

ああ、またやってしまった。

悲鳴をあげ、床を転げる自分を他人事のように、虚ろな頭で考える。

親にも誰にも言えない私の悩み。この増えていく傷のこと。

誠也さんはまだ、服で隠れるところを狙うだけの理性はある。

でももし、足や顔に傷が付いたら、手を痛めるようなことがあったら――。

もう終わりなんだろうなと思う。

いつ殺されてもおかしくなくなるだろう。

そう冷静に考えられるほど、何となく、どこかで諦めがついていた。

『そんなことないよ!』

あたふたと、一生懸命に励ましてくる健ちゃんの顔が浮かんだ。

こんな時に、何故……。

涙が頬をつたった。もうとっくに枯れたはずだと思っていたのに。

滲んだ視界を拭って直そうとは思わなかった。その先に鈍く光る指輪を、恨めしくすら思った。

こんなんじゃ、健ちゃんにまた怒られちゃうな。

健ちゃん――。



仕事場から近いこともあって、それから憩のカケラにはよく通うようになった。

この店のメニューで、何より私を唸らせたのはコーヒーだった。香りからして質が違うのだ。酸味を抑えたまろやかな甘みが、スイーツともよく合う。

「コーヒーには昔からうるさい方でしてね。だったら自分で作ってやろうと思った次第ですよ」

マスターはくしゃりと笑った。頬に浮き出た皺からは、長年の苦労が感じられた。

「どれくらい、このお店を?」

「そうですねぇ、もう二十年くらいでしょうか」

「二十年も……」

自営業の店に雇われている身だから分かる。二十年という年月も店を守り抜くには、相当のお客さんの信頼がいる。

「お金には困っていない身なのでね。売り上げなど気にせずに呑気にやっているんですよ」

「それでも凄いです」

「私はなんにも。やはり、あの子のおかげでしょうかねぇ」

マスターが目をやる先では、ココロが赤い風船で遊んでいた。くちばしと足で器用に、ゴム風船をやり込めている。

「籠が傷つくのでなかなかオモチャを入れてあげられないのですが、手頃なものを見つけましてね。随分と気に入っているようで、最近始終あんな感じです」

二人の視線に気が付いたのか、ココロが顔を上げた。

『ヤァネエ』

皮肉にも、咲さんの声だった。

「咲さんは、いつ式を挙げるのでしょうか」

「さぁ……。実は、招待状を貰っていないんです」

「おや」

それどころか、最近はカメリアにも来ていないのだ。

『オ嫁サン、オ嫁サン』

寂しい話だが、こんなところで少しでも咲さん声が聞けるのは嬉しい。そういえば、それくらい久しく会っていない。

「同じ職場の人たちくらいには、招待状は送るものだと思いますが…。それに、貴方とは昔からの仲となれば余計に」

「ご存知でしたか」

「咲さんは、そんなことを私とはお話はなさいませんよ。ただ、ココロとよく内緒話をしているようでして。その割に、ココロは口が軽いですがね」

『コノコトハ内緒ヨ』

内緒じゃないじゃないか。

「いつか私も仲間に加わりたいものですねぇ。しかし二人とも、ガードが固くて……」

反抗期の娘を見守る父のように、マスターは大らかに構えている。

「それでたまに、ココロから咲さんのことを盗み聞きしているのですが。それでもほんの少しですね。やはり、飼い主でないとココロは懐いてくれないのですかね」

「え?」

『ハッハッハ』

ココロが、男性の声で笑った。マスターとは違う、柔らかい声だった。

「亡くなった親友から引き取ったのですよ。この店と一緒に」

『ハッハッハ』

ココロは尚も笑う。

「優しくて、大らかで、何より勇気のある人でした、何でも出来る人でした。勉強もスポーツも恋愛も、私なんかよりずっと。いつも笑っていましたよ。二十年経った今でも、こうしてココロが覚えているように」

「……僕もそれだけ長い間、咲さんのことを覚えてあげられるでしょうか」

「これからも、いくらでも会える人じゃないですか」

「いいえ」

『フランス』

「……あぁ、そうだよ」

全く、この鳥は賢い。どうしてこうも上手く、話を引き出してくるのだろう。

「結婚すると同時に、海外を転々とするそうです。何せ旦那さんが、世界に通じる大手企業のお偉いさんなようでして」

詳しいことは聞いていない。

分かっているのは、僕が到底勝てる相手ではないということ。

「将来、カメリアを継ぐ咲さんにも嬉しい話でしょうよ。チェーン店を開くにあたって、強力なバックがつくわけですから」

「それは、人の気持ちとは全く関係ありませんよ」

「人間、情だけで動いていたらすぐに滅びます。……まぁ、僕が言うのもおかしな話ですかね」

「そんなことございませんよ。人は矛盾の中で生きているのです」

「矛盾、ねぇ」

心の整理はついているつもりだった。しかし、決着がついたとは言い難い。

離れてみて痛感した、咲さんとの世界の違い。

僕の視界にはいつも、追いかけてきた咲さんの背中があった。しかし咲さんには、僕は映っていないのだろう。あなたの背中で隠れて見えない、僕の知らない世界があるのだろう。

『幸セニ、ナリタイナ』

多分その幸せの中に、僕はいない。

いつかここに、お互いがパートナーを連れて来れたらいいななんて、そんな呑気なことまで考えてみる。

空を掴むような未来に、一人コーヒーで乾杯した。

間抜けた平和に。



「ちょっと出かけないか?」

そう誠也さんが持ちかけたのは、丁度招待状を送り終えた翌日のことだった。

「そうですね。今日はいいお天気ですし」

身体の彼方此方の打ち身が酷いので、本当は歩きに出たくなかった。それに、そんな時間があったらカメリアに顔を出したい。皆に会いたい。

渦巻く苦悩を押し込めて、私は努めて笑顔で応えた。

「いい喫茶店があるんだ。あそこのマスターには、昔世話になったからな。挨拶がてらお茶でも飲みに行こう」

偶然にも、道はいつも私がカメリアに行くのと同じだった。

同じなはずなのに、違う道。

行く先がカメリアじゃないから?隣に誠也さんがいるから?

それとも――。

私が変わったのかな。

変わって、いいのかな。

「おい」

「え?あ、はい」

「着いたぞ」

「え?……!」

途中で気付かなかったのは考え事をしていたから、だけじゃない。

本当にいつもと同じ道だったから、気にも留めなかったのだ。

「憩のカケラ」と書かれた扉を目の前に、私は固まった。

「この店は何よりコーヒーが美味いんだ。しかもな、売りはそれだけじゃないんだぞ?」

私が初めて来るものだと思って、誠也さんは得意げに語る。

私が成す術もないまま、誠也さんは扉を押した。

『イラッシャイマセ』

ココロだ。

「いらっしゃいませ。おや?」

マスターがこちらを不思議そうに見たが、思わず私は目をそらしてしまった。

「やぁ、どうも。お久しぶりです」

「これはこれは。お連れの方は?」

ハッとして顔をあげると、マスターは素知らぬ顔で微笑んでいた。

「あぁ、俺の婚約者です」

「そうでしたか。いやはや」

マスターは心底嬉しそうだった。

「小さい頃、俺が事故にあった時に世話になった人なんだ」

「いえいえ。私は何も」

「命の恩人が、何を言いますか」

そう言いながら、誠也さんは一番隅のカウンターに私を座らせた。私がココロに興味を持ったと思ったからだろう。

確かに私はココロに釘付けだった。しかしそれは、ただ単にココロに関心を持ったからではない。

いつもなら進んでお喋りしてくるココロが、羽を膨らまして丸まったまま、黙ってしまっているのだ。

「九官鳥なんて、今時珍しいよな」

「え、えぇ。そうね」

そんなにココロに夢中だと思ったのか、誠也さんは笑った。

「俺はいつもの。お前は?」

と、いつもは見ることもないメニューを手渡された。

「えっと……」

改めて見てみると、メニューの量の多さにびっくりする。

「コーヒーと、かぼちゃのパンケーキを」

「かしこまりました」

いつもは親切でお節介なマスターが、何も言わなかったのでホッとした。

本当は抹茶ラテがいいのだけれど。

ココロが、見慣れないオモチャで遊んでいる。赤いゴム風船だ。グニグニと、くちばしを埋めるようにして風船をやっつける。

眺めているうちに、私の中に何かが湧き上がってきた。黒い黒い風船が、どんどん膨らんでいくように。

そしてそれが、今にも割れそうなくらいまで大きくなった時、私の視界にはココロすら入っていなかった。赤い風船から目が話せなかった。歪に変形する風船は、音も上げずにされるがまま。今にも割れそうなのに、オレンジのくちばしは容赦なく風船を押さえつける。

変な感覚が、ざぁっと背中を駆け巡った。視界が暗くなった気がした。もし誠也さんの携帯が鳴らなかったら、私は悲鳴をあげていたかもしれない。

「もしもし……はい――」

そのまま誠也さんが席を立つ。その背中が扉の向こうに消えたところで、どっと汗が出た。呼吸も決して穏やかではない。

「本当ならいつもの抹茶ラテをお出ししたいのですが、あの方に気づかれてしまいますね」

「!」

マスターは苦々しく微笑んできた。

「手首の痣。そのような傷はご自身で付けることはできませんよ。何かに物をぶつけてもそうはならない。それは上からの圧でできる痣ですね」

「……」

マスターならそれくらいのことを知っていたとしても、何故だか不自然に感じなかった。

「知り合いに、優秀な弁護士がおりますが――」

「っ、違います!」

気がつけば、声を張っていた。

「これは、ドアに挟んだんです。大丈夫ですから……」

「……何にでも首を突っ込むのは私の悪い癖でしてね。申し訳ごさいません……。しかし、もう一度よくお考えになって下さい」

そう言って、マスターは作業に戻ってくれた。

途端、

『咲サン』

「!」

誰の声だか、すぐに分かった。でも、どうして?

「健ちゃん……?」

もう懐かしささえ感じるその声に、私は心が揺れそうになる。

『心配デス』

どんな些細なことでも気にかけてくれた健ちゃん。

『迷惑ヲカケマイト、イツモ一人デ無茶ヲスルノデ』

だから僕にも任せて下さいと、いつも明るく言ってくれた健ちゃん。

でも――。

『キット、素敵ナオ嫁サンニナリマスヨ』

「っ……」

もう遠い人。あんなに長く、一緒にいたのに。

『僕モソレダケ長イ間、咲サンノコトヲ覚エテアゲラレテイルデショウカ――』

「健ちゃん……っ」

堪らなくなって、私は飛びつくようにしてココロに話した。

フタリだけの内緒話を。

お願い、ココロ。

健ちゃんから私に、伝わったように、届いたように。

私から健ちゃんへ、伝わりますように、届きますように――。



「――もしもし。ああ、もう来月だ。そうすれば俺の仕事は終わったようなもんだ。

……何言ってるんだ。個人経営だからって舐めちゃいけない。あの店をモノにすれば、あとは芋づる式にウマい話がどんどん出て来るさ。

あの娘?あぁ、だからその跡取りなんだよ。大したもんだろ?

……馬鹿言うな。愛してるに決まってるだろ?アハハ――」



次に店を訪れた時、ココロの『イラッシャイマセ』は聞こえなかった。

代わりにマスターの深刻そうな顔がお出迎えしてくれた。

「お待ちしておりましたよ」

そう言って、ココロに目をやるよう促された。

ココロは籠の中を忙しなく行ったり来たりを繰り返していた。しかし、その目は僕に向いたまま少しもブレない。

『健チャン、健チャン』

間違えなく咲さんの声だった。しかし、いつものようなおっとりとした様子が感じられない。

『タスケテ、タスケテ』

「!」

「先日、旦那様と二人でお見えになりました。それからというものの、ココロはずっとこうなんですよ」

「咲さんは一体…」

「旦那様が席を離された時、少しココロとお話しておりました。しかし、いつもと違って随分切羽詰まった様子でした」

「どうして!」

「腕に、痣が見えました」

「っ!」

打ちひしがれる、とは正にこの事だった。足が途端に動かなくなった。

「本当は、このようなことを他のお客様に話すのはよろしくないのでしょうが……。看板娘があのままとなってしまえば、私にも全く関係のないことではありません」

「咲さんは、婚約者から、虐待を?」

口に出したくもなかった。それでも絞り出すようにして、無理にでも言葉を繋いだ。

ぎこちなくもカウンター席につく。

『タスケテ、タスケテ』

「左脇を庇っているような雰囲気がありました。打ち身などの外傷によるものかと」

「……」

ふつふつと湧き出る感情は、怒りよりも責任感の方が強かった。

どうしてこうなる前に、気付いてあげられなかったのだろう。咲さんは、僕にも何かしらのサインを送っていたかもしれない。

お嫁さんになるんだ、幸せになりたいな。あの言葉は咲さんが、自分に言い聞かせるようにしていたものなのかもしれない。

「どうして、僕は……」

「貴方が責められることは、何もございません」

出してくれたコーヒーに、とりあえず口をつける。

食欲が幾分か失せてしまっていたが、少し落ち着いた。

「咲さんはひたすら自分の悩みを、傷を隠していました。私でなければ、あの時気づくのは難しかったと思います」

「……ココロ」

『健チャン、健チャン』

ココロはまだ、落ち着きなく動き回っている。

「咲さんは、どうしてほしいって?」

すると、ピタリとココロの動きが止まった。そして目を伏せ、ぶぅと羽を膨らまし、顔を埋めてしまった。

本当に、人間の言葉が分かるのだろうか。

「不貞腐れられてしまいました。……行動力のない僕に、痺れを切らしたのかもしれません」

「行動、しないのですか?」

「出来ないです…。勝算が全くない」

「その割には、色々と考えているようですが」

「……」

何も出来ない自分が歯痒い。諦めの悪い自分に呆れもしていた。

しかし、これが僕なのだ。

『…健チャン』

「あぁ、分かったよ。今から行くから、待ってて」

財布を取り出そうとすると、マスターが制した。

「お代はいりません。散々私の独り言に付き合って下さった、お礼です」

独り言、か。

その割には三人ぐらいと話したような気もするが。

「ありがとうございました」

『マタキテネ』

そうだな、また来るよ。

今度は、二人で。



二人の笑顔が見えた時、私は心底ホッとしました。

咲さんも健太さんも、とても幸せそうでした。輝いて見えました。健太さんが背伸びして買ったであろう、指輪に負けないくらい。

二人はココロとお話していました。

しかし、ココロは咲さんに「ありがとう」と言われても、首を傾げるばかりでした。それでも二人は嬉しそうでした。

二人は来週、結婚するようです。招待状を頂きました。

お祝いに新作のケーキを出してあげました。

二人でシフォンケーキを頬張る姿は、とても微笑ましいものでした。

「いつか三人で来ます」なんて、これからの二人がとても楽しみですね。

閉店後。カウンターに独り、私はココロを眺めながらワイングラスを傾ける。

そんなに羨ましかったのでしょうか。昔の自分のようにはさせまいと、私からしたことだと言うのに。

あの頃の私は若かった。感情を抑える術を知らなかった。一番の親友を、何処かで劣等感を抱きながら見る時があった。

そして、そんな幾多もの悪い癖が、最悪の時に重なってしまったのです。

あの人が店を開きたいと言い出した頃、私はよく引っ張り出されて、コーヒーの試飲をさせられました。

当時、私は医者でした。大層な身分でないとは言え、決して暇な身ではありませんでした。それでも行きました。

こんなコーヒーじゃ駄目だと、変なところで意地を張ったりしました。それでも彼は、笑って素直に受け入れてくれました。隣で彼女も笑っていました。愛する、彼女も。

敵いっこないことは、分かっていました。しかし、最初から勝敗がつけられているようなのは気に食わなかった。

しかし彼女は、いくら気を引かせても、彼の隣で笑うのです。綺麗に笑うのです。

いつでも、交通事故にあった時も。

その時も二人は一緒でした。

幸せだった時に襲った、一瞬の出来事。

隣り合わせのベッドで、幸せそうに眠っていました。

私は、私は――。

「ココロ」

ココロは丸まったまま、無視を決め込んでしまっている。

苦笑するしかなかった。

そうですよね。人殺しになんて、懐くはずがないのです。

私は、医師でありながら二人を死んだことにしました。

御曹司の手術を優先させました。

直ぐに間違いだと気付くくらいなら、最初からやらなければ良かったものを。医師を辞め、こうして償う決心が出来るくらいなら。

初めて会った時、ココロはギャーギャーと悲しそうに鳴いていました。きっと私が主人を殺したと、本能で察したのかもしれません。

そんな私といつも二人では可哀想だろうと店に置いたのです。ココロは色々な人の言葉を真似するようになりました。

主人のことしか真似なかったココロは、そうして他の人の言葉で頭を埋めていきました。

それでも時々ポロリと、あの人の言葉を喋るのです。私が忘れないように。

『アイツハ舌ガ肥エテルカラナ。ソウ簡単ニ合格点ハ貰エナイ』

彼は、私を信頼していました。

『デモ、アイツニ認メテモラエタラ、モウ何デモ出来ルヨウナ気スガスルンダ』

彼を、私は裏切りました。

誰が何と言おうと、私は彼らを忘れるわけにはいきません。こうしてココロが、覚えている限り。

憩のカケラは、私を縛る戒めの場所なのです。

ですが、このような日には少しは心は楽になります。

これが今の、私の生き甲斐ですから。お節介が過ぎることもありますが。

明るい二人の未来に、フタリで乾杯。

『幸セニ、ナリタイナ』

そうですね、なりたいですね。

「私じゃ、駄目かい?」

『……』

ココロは黙ったままです。私をじっと見つめたまま。

ですが、穏やかな目をしていました。

「幸せに、なりましょう」

窓から差し込む月光にグラスをかざす。

今日と言う日に、乾杯。

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