第3話 復讐パンケーキ

「お待たせしました、ホイップクリームとチョコソースのスフレパンケーキです」

 ケバブの上半分をドンっと置いたようなシルエットが、手元に影を落とした。シュウさんは、「わあ!」と音のしない拍手で迎える。

 そこまでの元気はまだ無いけれど、そんな私でも「お、」と顔を上げさせるくらいの力がそいつにはあった。

 原宿、代官山、渋谷、新宿――。うねる茶髪を肩で揺らす女の人が花柄のプリントされた服をデニム生地で包み、手が滑りそうなA4のポーチと大きめの腕時計がセットの、「買い物して荷物が出た瞬間、そのコーデ崩れない?」と言いたくなる格好で男の人たちがうろつくところ。その一角で、家で作れる気がするパンケーキを挟むようにして、私はシュウさんと息を呑んでいた。

「凄いですね。この意味の分からない量の生クリーム……」

 分厚いパンケーキの上に、その何倍の高さにもなる生クリームが聳え立っていた。この界隈では、「オニ盛り」と言らしい。

「食べる面に関しては、意味は特にないかもね。多分、こう『わあ!』って言わせるためだけにあるんじゃない?」

 対して先輩はもうナイフとフォークを手に取っている。

「それだけ?随分と高くつくクリームですね」

「だから勿体なくて、皆写真に撮ってどっかに載せたりするんだよ」

 ほう、と納得してる間に、シュウさんはパンケーキの一部分を切り取ると、その量に見合ったクリームと一緒に自分の小皿に乗せた。

「ほら、実ちゃんも食べなよ」

「あ、はい」

 もしこの場にいるのが和葉だったら、パンケーキを生クリームの断面すら見えるようにパッキリ半分に切る。そして私と自分の皿に同じように盛ってから、各々に頬張ったと思う。

 付かず離れず、でも仲良く。そんなバランスの取れた間柄だった。ただ、バランスが取れすぎていたのが問題だったのかもしれない。

「さあ、やっつけちゃうぞ!」

「やっつけちゃうんですか」

「そうだよ!もうこの大きさ、怪獣みたいじゃん。やっつけちゃうよ!」

 確かに「オニ盛り」と称するだけのことはある。この大きさは正に怪獣級だろう。私も自分のフォークをパンケーキに突き刺した。滑らかな輪郭に割れ目を入れるように切り取り、皿に乗せた。残ったパンケーキはまだ大きい。

「でも、どうしてここまで?」

 大きな一口を、少し無茶しつつもバクリとやる。弾力のあるパンケーキは、口の中で解けてほふほふと膨れ上がる。その隙間から溢れるバターの香りの上を、ぬっさぬっさと生クリームが押し寄せ、チョコソースと共にお馴染みの優しい甘さが口いっぱいに広がった。

「ん?何が?」

 同じ大きさを容易く口の中に収めながら、シュウさんはきょとんと私を見やる。

「どうして私のためだけに、ここまでしてくれるんです?泣きじゃくってる私を拾って、飽きるまで洋服着せて、オシャレなカフェで葉っぱの多いサンド食べて、公園歩くだけ歩いて、こんな行列の長いお店にだって、一緒に並んでくれた。どうして?」

「散歩のお伴が欲しかったんだ」

「バイトの面接、ふいにしてまで?」

「……」

 シュウさんの手が止まる。私もつられて手を止めた。が、すぐにシュウさんはフォークに刺さったパンケーキにクリームを塗りながら小さく笑った。

「声をかけたのは、あんなに泣けるのが羨ましかったから」

「そう、ですか……?」

 つい五、六時間前のことなのに、思い返してみるとすぐに顔周りの血行が良くなった。

 昨日、私は和葉にフラれた。

 携帯の画面の時計の奥、メールフォルダの一番上。一翔の最後の言葉を私は今手元に持っている。

『もうお互い、良い時期なんじゃない?』

 大学受験が終わって、行く先がもう一緒じゃなくなった。逆に言ってしまえばそれだけのことだ。なのに一翔は勝手に「お互い」なんてずるい言葉を使ってきた。

「高校生活ほぼ丸々三年間、ずっと一緒だったんです。だから卒業しても、自動的に続くものだと思ってました」

 だから何となく、昨日の夜にメールを眺めながらも支度をし、セットしたアラーム通りの時間に起き、いつもは履かないスカートに戸惑い、髪を整えて結い、踵の浮く靴を履いて、その前から約束していた待ち合わせ場所に来てしまった。そうしていれば、何となく会えるような気がしてしまって。

でも、彼は来なかった。

「馬鹿ですよね。来ないって、行く前から分かってたのに」

 自嘲交じりにこぼす私を、シュンさんは気配を消すようにして眺めていた。しかし、手は動いたままだ。だがそれがむしろ有難かった。真正面から真剣に聞かれたら、また泣いてしまう。

「その上、来てみたら今度は戻れなくなっちゃって……受け入れることを後回しにしてたら、余計踏ん切りがつかなくなって、動けなくなっちゃったんです」

 待つだけ待ってみよう、がいけなかった。もう来ないと完全に頭が理解しても、離れることが出来なくなってしまった。ここから去るために一歩踏み出した瞬間、私と和葉の三年間は終わる。帰って、携帯の中から色々なものを捨てて、おやすみと送ることのないSNSに触れずに、一人で寝るのだ。そう思ったら、途端にその場から動けなくなってしまった。

 結局、その場に二時間も突っ立ってしまい、もう訳も分からず後半は延々と声を上げて泣きじゃくっていた。

「凄かったよ。でも、こんな都会のど真ん中で声上げて泣けるって、僕にはもう出来ないことだから。興味本位でね、話しかけちゃった」

 悪戯っぽく笑うと、シュンさんはまたパンケーキを頬張った。

「ご機嫌いかが?」なんて、普通の男子大学生は使わない。だがその柔らかすぎる物腰に思わず「最悪です」と返してしまった。そしたら「僕、シュウ!大学二年!」といきなり言うので、「実です!充実の、実!高校三年!」と負けじと勢いよく返した。気が付けば、涙はピタリと止まっていた。それが、シュウさんとの出会いだ。

「それに、この街に復讐するだなんて、面白いじゃん」

「気に入っていただけて、良かったです」

 シュンさんは、根掘り葉掘りは訳を聞かなかった。その代わり、「どうしたの?」と聞かれて「彼氏にフラれたんです」と答えたら、「じゃあどうしたいの?」とまずは来る慰めの言葉を抜いてまた聞いてきた。

 だから私は迷わず答えた。

「彼と二人で復讐したかったんです。この街に」

 受験期間、私はこの街の予備校に毎日通っていた。イベントを満喫する人たちの間をすり抜け、お洒落な喫茶店で時間を潰す大学生を尻目に、ひたすら紙の上のインクのシミと戦った。

 楽しそうな皆の中に、いつか和葉と二人で紛れる日を夢見て。

 散々憧れて苦しめられてきた、キラキラしたちょっと大人の過ごし方を思い切りしてやるんだ。そう思って頑張ってきた。

 なのに今日、肝心の和葉はいない。

 悔しいやら、悲しいやら、淋しいやら。だがその話にシュンさんは乗ってくれた。

「いいじゃん、楽しそう!僕で良ければ、とことん付き合うよ!」

 結果、呆れる量の試着にも、食べ方の分からないサンドにも、遊具の無い公園にも、そしてオニ盛りクリームのパンケーキにも一緒に「復讐」してくれた。

「ん!終わり!」

 シュウさんが、フォークとナイフを皿の端に揃えて置く。カツン!という乾いた音が、試合終了のベルのように響いた。

 私たちは、怪獣オニ盛りというラスボスをやっつけたのだ。

「やりましたね!」

「うん。おめでとう」

 私のやりたかったことはこれで全部だ。復讐は、完了した。

 ふうと一息ついて、背もたれに身を預ける。シュウさんに至っては、椅子ごとそっくり返りそうなくらいグデンとしていた。

「実ちゃん、楽しかった?」

「ええ、とても」

 一緒にいるのは、和葉ではない。確かに完全に満足のいく形ではないが、でも不満は一切無かった。

「それは良かった」

 さて、と区切りを付けるように、シュウさんは携帯を開く。そして、お、という短い感想と共に形態を耳に当て、音声を流し込んだ。

「バイトの面接、これからの時間帯に組んでくれるって」

 そうⅤサインをこちらにくれた。

「余程人手が足りないんですかね」

「そうだね。でも、わざわざ留守電に入れてくれるあたり、いいところだと思う」

 予定をすっぽかしてまで私に付き合ってくれていたことを知ったのは、通路の広い公園で着信音を聞いた時だ。

「いいのいいの。どうせこれからのことだったんだから、まだ無かったことに出来るし」

 平謝りにあやまる私をさらっと宥められるシュンさんは、確かにきっとどこでもやっていけるだろう。それでも、やはり話が続いていたことは嬉しいらしく、軽く鼻歌を添えながら身支度をし出した。

「じゃあもう行かなきゃ。僕も今日は楽しかった!ありがとう」

「私こそ。……あの」

 連絡先を下さい、その一言をシュンさんは手で遮った。

「今日会った僕らは、復讐だけを目的に手を組んだ仲間のようなものだよ。それが果たされた今、僕らはまたお互いを知らない世界に溶けていく。それが綺麗な物語の終わり方で、素敵な一期一会が完成すると思うんだ」

「……?」

「ちょっと難しいね」

 でもいいよ、とシュンさんは苦笑する。

「ま、今日のことは今日のことだけで終わりにするのがいいと思うんだ。でも、また別の物語で関わることになって、もしもフルネームやメールアドレスが必要になるような設定だったら、」

 おもむろに私の目の前に差し出された手は、

「今の話、最後まで聞いてあげる」

 握ると、パンケーキよりもずっと暖かくて、柔らかかった。

「また会おうね!」

「はい、また」

 バイバイやさよならじゃないことが、嬉しかった。

 何なら和葉にも「またね」と返信してやってもいいかもしれない。

 ぱっと出ただけの思い付きが結構名案なような気がして来て、私はすぐにカバンの中を漁った。

 伝票を奪われたことに気が付いたのは、その数分後のことだった。



「早くしてくださいよ、先輩」

「待ってって!」

 あれからもう三ヵ月が経った。大学生という響きにやっと慣れ始めて、友達も少し出来たばかり。そんな中途半端な時期に文化祭だなんて変な話だが、私は今狭い教室で小さな冊子を売っている。

「実ちゃんはやることが早いね。新入生なのに」

「先輩、もう始まってるんですよ、一般公開」

 店番のための席で俗に言うジト目を返してやると、先輩――シュウさんはそれを避けるように回り込みながら隣に座った。

「張り切ってくれてて嬉しいよ」

「別にそんなんじゃないです」

 入学してすぐサークルの勧誘に揉まれ、途方に暮れていた私を「あれからいかがお過ごしで?」とひょいと拾ってくれたのは、紛れもないシュウさんだった。

 無論文芸サークルに押し込まれ、早速原稿を書かされたのは言うまでもないが、何だかんだで楽しいので文句は特にない。

「先輩」

「ん?」

「本当は、また会えるの知ってました?」

「いいや、全然」

 フルネームどころか、先輩と言うだけで済むような設定の話で出会ってしまった。だが、それが偶然だとはどうしても思えなかった。

「本当に、偶然だよ。だからまた別の物語で出会えたなんて、より素敵だと思うけど?」

「そうですか」

 でも、今はまだ追及出来ない。それでいいとも思う。

 少なくともあと三年。この物語にFinと書かれることはない。なら、残りのページをかけてじっくり煮詰めていけばいい。

 私は小さい欠伸を噛み砕くと、シュウさん――先輩に向き合った。

「先輩、冊子売れるといいですね」

「売るよ!色んな意味で傑作ぞろいなんだから!」

 ちなみに、先輩はこの作品をまだ読んでいない。

                           つづく 

         

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