第32話 英雄のイベント

「…………く……うう……」


 百合は暗闇の中浮いていた。水の中を漂うように力なくその身を任せている。


 意識はある。記憶もある。ただ、決定的に疲弊しきっており身体を思うように動かす事ができない。


 何処か幽霊にでもなったような気分だった。


 もう“外”に出られる身体は無く外部と接触する事はできない。


 災厄獣により機能のほとんどを破壊され“自我として残っている”自分自身と、手に握られている花の形をした“記憶”だけしかない状態だ。


 ともなれば、この幽霊という言い方は的を得ていた。今の百合はブレイブヴァインにも災厄獣に対しても何もできず消えるのを待つばかりの身となっていた。


 「……まだ……私……は……」


 だが、百合はこのまま消え行くワケにはいかなかった。


 「…………ぐうう……ううっ……」


 災厄獣に消失(デリート)されるしかない百合だったが、まだ生きる事を諦めてはいない。身体に走る激痛に耐えながら何とか身体を起こす。


 そして“ここに広がっているエルポノルユーリ”を暗闇へと変えたモノと対峙した。


 「はあっ……はあっ…………コイ……ツが……」


 百合の前に、突如カイザー級災厄獣である一つ目の巨大な球体が空中に浮いて現れた。


 好奇に溢れる“見下げた”視線を百合に向けて、その目をギョロリと動かしている。

 その目から稲妻のような光線が放たれた。


 「くッ……」


 百合はその光線を懸命に避ける。


 この空間、エルポノルユーリ内を破壊し暗闇にしていった攻撃と判断したからだ。


 きっと、この光線に触れれば百合そのものも消失(デリート)してしまう事だろう。

 だが、今の百合は消耗しきっており、限界などとっくに通り過ぎている。


 そのため、全ての光線を完全に避け切る事ができなかった。


 「あああっ!」


 何とか逃げようとする百合だったがその右足に光線が命中した。瞬間、右足に酷いノイズが走りバランスを崩して倒れてしまう。


 「ぐ……う……」


 右足はそのまま暗闇に溶けるように消え失せていく。同時に感覚もなくなり、百合の右足は完全に消失(デリート)されてしまった。


 「……うぐ……うう……う……」


 だが、百合は自分の右足の事など全く気にかけていなかった。倒れた時に手から離してしまった記憶データ、その“一輪の花”を何とか拾おうと身体を引きずっていた。


 「これだけは……絶対に……絶対…………に……」


 百合はその花を懸命に守り続ける。


 災厄獣に他全てを破壊されてもコレだけは守り通さなければならない。


 百合にとって、これは絶対に無くしてはいけないものだからだ。


 その記憶が“たった一輪の花程度”しかないのだとしても。


 「なくさ……ない……なくしたく……ない……」


 百合の記憶などたかが知れている。


 ロンバルディ社のみんなと、唯やシグの事や、漫画を読んでいるくらいの内容しか無く、司とはつい先日知り合ったばかりだ。紅夏や順英は少し喋ったくらいで、全部合わせて、たったこの程度の記憶しかない。


 きっと、無くしても問題無い“量”の記憶だ。


 生きている人間達のような溢れるくらいの記憶の種類も密度もなく、百合にあるのは本当に“ありふれた記憶”だけだった。


 「ぐ……うう……う……」


 だが、この記憶は百合にとってかけがえのない“思い出”だ。


 例え僅かしかなくても、自分を自分にしてくれている思い出をなくしてしまうのは嫌だった。


 (この花が消えたら…………私はみんなの事を忘れる……例えそれが死ぬ寸前だけなのだとしても……)


 百合はボロボロの身体を引きずりながら花を守り続ける。


 (私は死ぬ…………でも私は最後まで…………この私でいたい)


 もう何度目かわからない災厄獣の光線が放たれ、百合の周辺に爆発を巻き起こす。その衝撃で百合の体は吹き飛び、ボールのように転がった。


 「う……うう……」


 仰向けになった百合に災厄獣が近寄ってくる。


 百合が何を懸命に守っているのか興味が出たのだろう。光線の射程内なのにわざわざ距離を縮め、百合の手にしっかりと握られている花をジッと凝視する。


 「や……めて……」


 災厄獣は花を百合の右腕に光線を撃った。


 「うあッ!」


 百合の右腕が消失(デリート)する。花がその衝撃で僅かに飛んでいき、パサリと暗闇の地面の上に落ちた。


 災厄獣がその花に近づいていく。


 「やめ……て……や……めて……」


 だが、百合が懇願しようと災厄獣に躊躇いはなかった。


 「やめてぇッ!」


 懸命の声が災厄獣に届く事は無い。


 その花は災厄獣の光線により暗闇の中で消失(デリート)され――――――――――――――――るはずだった。


 起動がズレたのだ。


 花から数メートル離れた地面に光線は着弾し爆発し、その部分の暗闇が僅かに揺れる。


 「……な……んで?」


 その理由は簡単だった。


 災厄獣が思い切り“殴り飛ばされた”からだ。


 「どうして…………ここに?」


 災厄獣は“何十メートルも吹き飛び”地面に激突し、それでも衝撃は収まらず盛大に滑走する。


 「……え? 何このパンチ? なんだよ、シグのヤツオレが死ぬかもしれないなんて大嘘じゃんか」


 司は自分の身体能力が凄まじくなってる事を実感し、僅かに顔を引きつらせた。


 「司……さん……?」


 司の登場に百合は安堵よりも疑問の二文字が出ていた。


 ブレイブヴァインに“心”をシステム内へ進入させる方法があるのは知っている。


 きっとシグは、ワクチンの効かない災厄獣ウィルスに対し可能性があるのは心しかないと思ったのだろう。心という未知数を進入させる事で分の悪い賭けをしたのだ。


 シグはかなり悩んだはずだ。それが何であろうとカイザー級災厄獣の相手を人間にさせるなど簡単に出していい結論ではない。何の援護もなく司を送り込む事は死ねと命令するのと同じなのだから。


 「それに何故こんなに…………」


 だが、司は死ぬ所か圧倒的な強さを災厄獣に見せつけた。


 分が悪いなど完全な予想外れだ。そうでなければ“災厄獣をぶっ飛ばす”なんて真似はできない。


 心配など皆無であり、颯爽と登場して状況を一変させた司はまさに英雄と呼ぶに相応しかった。


 「司さん凄すぎます……」


 それは十二年前と似ていた。あの時助けに来たブレイブヴァインと同じように、司は絶体絶命の百合を救った。


 「もう心配無いからな。災厄獣なんかオレがぶっ倒してやるから」


 落ちている花を百合に渡して自身満々に司は言う。


 驕りやうぬぼれでは無い。災厄獣に負けないというたしかな確信が司の言葉にはあった。

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