果敢なき勝利1

クラウジックらの後発脱出部隊が本船である偽装商船に追いついたのは10時33分である。彼らが島から脱出する前に回頭を始め、オスタニア方面へ進み始めたこの船を、ボートが追いかけるのは至難の技であった。そのスピードはほぼ同じである上、ボートの方はもうエーテルがなくなりかけていたのである。このままでは海の藻屑となることを覚悟した時、突如船が停船して、彼らを受け入れたのである。


 クラウジックは喜びや感謝を表すことが出来なかった。それらの感情を怒りに換えて自分達を死の淵においやろうとした者達にたたきつけてやろうと船内を突き進んだ。もしこの時ムンタギューらや、船員が鉢合わせしたらクラウジックによって肉塊にかえられていただろう。しかし、最初に彼と出会ったのはリンドバーグ大尉だった。



 「なんだ?」


 開口一番リンドバーグはそう問うた。もちろんこの問いはクラウジックの癪に障った。彼が全てを理解したうえで聞いているのが分かったからである。


 「白々しいぞ!どうして船を出発させたんだ。まだ俺達が残ってたんだぞ。」


 「船は停船させた。お前達も結局もどってこれただろう。何が不満なんだ。」


 冷淡と、淡々と、リンドバーグは述べる。感情など一切排したようだ。その鋭い眼光と合わさり、常人ならば怯んだだろうが、しかしクラウジックは常人ではなかったし、怒りは尋常ではなかった。


 「そいつは結果論だ!お前達が一時逃げたせいで助からねぇやつもいるかもしれないんだぞ!」


 「ムンタギュー少尉らが機関室に押しよせ、勝手に船を動かせたのだ。それを私が止めさせた。」


 「…それで自分に罪はないと、むしろ恩があるとでも言う気か?」


 「そのようなつもりはない。それよりもここで議論をかわす前に負傷者の手当てをした方がいいのではないか?その方が助からぬものを増やすように俺には思えるが。」


 クラウジックは何かまだ言いかけて、やめた。このまま怒鳴り続けても、リンドバーグには柳に風だっ

たし、彼の言葉はもっともなことだったからだ。


 クラウジックは臆病や弱気といった性格からはほど遠かったが、それでも負傷者達の惨状を見て目を背けずにはいられなかった。足を傷つけ、這うように進む青年、右手を失った女性、右目を穿たれてよろよろと歩く男…怨嗟や苦痛の悲鳴が耳をつんざき、鉄の、血の臭いが鼻を刺激する。それでもクラウジックが怯んだのは一瞬で、彼はすぐに負傷者の手当てに身を乗り出した。彼には治癒魔法の類は使えず、そも重傷者の治癒は小隊唯一の衛生兵―ドク、と皆は呼ぶ―にしか出来なかったので、クラウジックに出来るのはせいぜい運搬と、包帯を巻くことぐらいだった。もちろんクラウジックのみが劣っていたわけではない。フランや一部を除いた治癒魔法をかじったことがあるものでさえ軽傷者の治療で、エリザやマルソー分隊の者達は皆クラウジックのしたこと程度しか出来なかったのである。


 そんな中、なにもしない者がいる。ウェリオン=ルーファスである。彼は茫然自失といった状態で、壁によりかかって座り込んでいる。その目は天井をみつめていたが、負傷者の惨状に目を背けているというわけではないようだったが、クラウジックにとっては何だろうと同じであった。彼は苛立ちをかみ砕きつつ、ウェリオンに苦言を呈した。


 「なにやってんだ、ルーファス。お前も少しは手伝えよ。」


 ウェリオンは、少し視線をクラウジックに移しただけで、他になにも反応をしめさなかった。クラウジックは再び吠えた。


 「テメーがそうやってぼーっとしてる間に苦しみ、死にそうになってるやつがいるんだぞ。」

 ウェリオンは、今度は何も反応しなかった。肉体と、精神の疲労がクラウジックの導火線を普段より短くしていた。クラウジックは我慢の限界に達し、ウェリオンの襟首をつかみ上げた。


 「いい加減にしろよ!まさかテメー、大して怪我してもいないのに、ビビったんじゃねぇだろうな。ふざけるなよ。お前なんかよりも傷ついてるやつはいくらでもいるんだぞ!」


 ウェリオンは、またしても何も言わなかった。うつろな目を向けただけで、ふりほどく努力すらしなかった。クラウジックは目を覚まさせようと、半ばは怒りをぶつけようと拳をふりあげた。しかし拳は振りおろされることはなかった。その前にフランが両手で必死に止めたのである。


 「やめて、クラウジック!」


 「離せ!一回なぐって渇を入れてやる。」


 「リオンも傷ついてるの。今はそっとしてあげて。落ち着いたら、手伝わせるから。」


 クラウジックの方がフランよりもはるかに力が強く、また肉体強化の魔法も得意なので、手をふりほどくことも簡単なはずだった。しかし女性を力で振り払うのはクラウジックにとっては不快なことだった。これは別に彼がフェミニストというわけではなく、ただ後味が悪いことなのだ。そして、本心では彼女の言いようにも一理あることを理解していたので、クラウジックは力を弱めた。それを手づたいに感じたフランも手を離した。続いてクラウジックはウェリオンも離して攻撃の意思を放棄したが、それでも攻撃的に舌を鳴らした。


 「ルーファス、お前がそんなに腑抜けだとは思わなかったぜ。もう勝手にしな。俺はもうしらねー。」


 フランに、咎めるような目を投げかけられて、クラウジックは怯んだ。彼はその目から逃れるように腕を組んで後ろを向いた。その時にはフランはもう視線をウェリオンに向けていて、彼の肩の手当てをしていた。


 「こんなに傷ついて…。でも、生きててよかった。」


 普段のウェリオンなら、憎まれ口の一つでも叩いて、フランの手をはねのけただろう。そう思うと今のウェリオンに対してクラウジックは情けなさというより、怒りの方が強くなるのだった。女々しいやつだ、本当に。結局こいつは口だけの奴だったのか。そう思いながらもクラウジックは口には出さなかった。代わりに別の疑念を口にした。


 「それにしても、ローベの奴は何処に行ったんだ。まさかあいつも腑抜けてるんじゃあねーだろうな。こんなに忙しいっていうのに…。」


 その時、ウェリオンの体が目に見えて反応した。目を見開いたまま、クラウジックを見つめ、異様な気を感じたクラウジックは思わず振り返った。ウェリオンは口を半分開き、一旦は閉じてから、唾を飲み込み、喉を鳴らし、意を決したように口を再び開いた。


 クラウジックとフランは、その口から友人の死を知らされた。


 進発した時、小隊の人数は48名を数えていたが、再び船へと足を踏むことが出来た隊員は一個小隊を形成しえぬ29名にまで減じていた。帰還せざる者19名のうち、半数はその死を僚友達の目で確認されたが、残る半数はその行方も、生死さえ不明のままとなった。そしてその数字の中にはトリスタン=ローベ、ユッダ、ユッダの友人であるエドワードらが名を連ねていた。


 ほとんどの生者たちは帰らぬ者達を悼む心はなかった。暇も、余裕さえもなかったのである。自分に振りかかった不幸を嘆く者、まだ生きている者を必死で助けようとする者、―そして自分も、帰らぬ者達の数字に加えられることを一秒一秒恐れる者…。


 しかし、これらの者達より、生者を悼む心を持つ者達の方が優れているとは言えないだろう。目の前に死にそうになっている者達がいるのに、放っておいて、悲しみにくれ既に死んだ者を悼むことは結局は自己満足に過ぎず、理性的ではない。第三者たる非難者達はそう唱えるだろう。しかしそれは死者を数字としてしか考えない者達の暴論でもある。その死者が自分達の友人や家族であっても同じことをいって「理性的」な行動が出来るだろうか?


 ジャッカス=クラウジックとトリスタン=ローベは友人だったが、ただの友人ではなかった。幼馴染で、親友の間柄だった。20年にも満たぬ、人生を全うした者達からすればささやかな時間だったが、彼らにとっては彼らの生涯と同じ年数をともに歩んできたのだ。一方が士官学校へ入校を決めた時も同じく。

 今、一人はその短ずぎる生涯を閉じられ、一人は失った者の大きさに戸惑い、悲しみに暮れている。部屋に閉じこもったクラウジックを、彼に責められた時と同じ理由で責めることはウェリオンには出来なかった。


 クラウジックの方が、はるかにローベの死を悼む権利がある。ウェリオンはそう考えると、先ほどとはうってかわって、負傷者達の看病を始めた。


 「リオン、大丈夫?」


 フランがそう話しかけてくる。彼女の気遣いは肉体の件もあっただろうが、大した傷ではないのはクラウジックに指摘された通りだ。これは無論、精神に関してだろう。ウェリオンは出来る限りの笑顔を見せていった。


 「もう大丈夫だ。悪いな。心配かけて。お前こそ、大丈夫か?」


 「私は…大丈夫。」


 ショックで部屋にこもったクラウジック、茫然自失となったウェリオンと比べて、フランはローベの死を聞かされても、普段と変わらず気丈に振舞えていた。ウェリオンは素直に感心した。


 「お前は強いな。」


 その言葉に毒も棘も含んだつもりはなかったが、フランの美しい顔に陰りが見えた。


 「リオン、もしかしたらあなたは私を冷たい女だって思ってるかもしれないわね。ローベが死んだって聞いても涙一つ見せないんだもの。」


 「そんなこと…ないぞ。」


 「いいわ、別に。でもね、それにはちゃんと理由があるのよ。悲しくないの、なぜか。不思議なのよ。ローベが死んだって聞いても実感がわかなくて、本当はローベはこの船の何処かにいるんじゃないかって、その内ばったり会えるんじゃないかってそう思ってて…だって今日の朝まで元気で、話して、戦って、帰った後の約束までして、脱出する時まで一緒だったのに、帰ってきたらもうローベはいないなんて信じられない。ローベだけじゃないわ。私の分隊の皆、小隊の皆も…。だから今は許して。多分これから理解していくと思うから。その時は私泣くと思う。私はそんなに強くないから。」


 フランは髪を少しかきあげた。金色の、美しい髪は誰のものか分からない赤い塗料で染まっている。価値の分かるものが見たらさぞかし嘆くであろうが、フランはその髪全てが赤に染まったとしても嘆くようなことはしないだろう。それで誰かが助かるなら受容してしまう。彼女はおせっかいであると同時にとても優しく、そして強いのだ。


 「その時は、俺が慰めてやるよ。」


 ウェリオンが言うと、フランは舌をぺろりと出して、言い返した。


 「あんたに慰められるほど、弱くはないわ。小さい頃、泣いてたあんたを何度も励ましたりなだめたりしたのは誰だっけ?」


 「よく言うぜ。お前だって近所のガキ大将に人形を壊された時には大泣きしてたくせに。あの時は大変だったんだぜ。」


 「数ではそっちの方が上よ。」


 「質ではお前の方が上だがな。」


 言葉の上では険悪だが、二人の間には穏やかな、やわらかい雰囲気が流れていた。二人は互いに頬笑みあうと、それぞれの役割を果たそうと背を向けた。しかし不意に、背中越しにフランから震える空気を感じたウェリオンはおもむろに振り向いた。彼女の丸みを帯びた滑らかな肩が小刻みに震えていた。フラン、そう彼女に呼びかける前に、フランはウェリオンの胸に飛び付いた。


 「しばらく、こうさせて。」


 「フラン…。」


 「なにも言わないで。少し、少ししたらもう大丈夫だから。いつも通りになれるから。」


 ウェリオンは、フランを優しく抱きしめた。幼いころ、彼女が彼にしたように、彼が彼女にしたように。服の上から、ウェリオンの胸を濡らす暖かなしずくを受けとめながら。

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