第4話 仕事モードなお隣さん

「ふぅ……」

 夕食も終え、お風呂にも入った後に待ち受けていたのは、そう、テスト勉強。机の上に教科書とノート、問題集を広げること二時間。時刻はもう十時半を回っている。

 ちなみに、今回のテスト実施については一日目が古典と英語と数学、二日目が国語と生物と日本史、三日目が化学と世界史というスケジュールになっている。そして今勉強しているのは古典。出題範囲は源氏物語から。主人公の光源氏を見ているとどうも輝君が頭をちらついて仕方ない。同じ『ひかる』だし。女性にモテるし。

「どうも活用形がよく分からないのよね」

 ぶつぶつと独り言を言いながらも何とか現代訳しようとする。辞書と教科書の注釈を見ながらなら何とか……と言ったところだ。

「ふむふむ、光源氏はお母さんの面影をねぇ……」

 いつの間にか話にのめりこんでいった。とりあえず光源氏は結構なマザコンで、お母さんに雰囲気が似ている人を好きになったり、かと思えば幼女を誘拐(完全なるロリコン)して自分好みに育てたりとなかなかの破天荒である。

「もうこんな時間かあ。輝君ほんとにいるのかな?」

 ふと時計を見やり、先ほどもらった紙をもう一度見る。父との約束では九時には家へということだけど、輝君が示したここなら文句はないだろう。

 なぜなら、このマンションの地下にあるスタジオなのだから。

「ら・り・り・る・れ・れ。ラ変!」

 エレベーターの中。誰もないことをいいことに、単語帳に載ってるそのままを口に出す。声に出したほうが、頭に入るような気がする。

そう言えば女優さんの舞台だったり、アイドルや歌手のライブだったり、どうやってあの膨大なセリフや歌詞を頭に叩き込むんだろう? 暗記のハウツー本を出せば売れると思う。

 地下に着き、エレベーターを降りる。このマンションの地下には、入居者専用のジムやスタジオ、果てはプールやラウンジがある。もちろん、今日までここに足を運んだことは一度もない。運動はあまり得意ではないし、ラウンジを使うような用事が高校生の私にあるはずもない。

「お、来たね。テスト勉強はどう? 進んでる?」

「まぁぼちぼちですけど……」

 紙に書かれている番号と同じスタジオに行くと、ちゃんと輝君がそこにいて安心した。

「こんなところで何やってるんですか?」

「え? 仕事だけど?」

「仕事?」

 見る限りスタッフさんもいなければ、大がかりな機材もない。あるのは輝君のものだと思われるパソコン、それに繋がれたスピーカー、そして飲みかけのペットボトルの水だけ。

「レッスンも仕事のうちだよ、真由ちゃん」

 汗を拭きながら輝君はそういった。

 輝君曰く、仕事のない日は積極的にスタジオを借りて自主練しているらしい。初めて私の部屋に来た時にケーキを食べてすぐに出ていったのも、スタジオを予約していたからだそうだ。

「真由ちゃんも、テストのために勉強するでしょ? それと一緒だよ」

「そうですかね? ん?」

 そう言えば、輝君は私と一つしか違わない。ということは学年で言えば高校二年生のはず。

「輝君は……学校は? そろそろどこもテスト期間じゃ……」

「行ってないよ。俺、中学の時に芸能界に入ったから勉強もほとんどやってないし、一生芸能界でやっていきたいって思ってるから行かなくてもいいかなって」

 浮き沈みの激しい芸能界で売れ続けるのはたった一握り。最近では学業を両立するアイドルも珍しくない。じゃあ輝君の場合はどうなんだろう。一生芸能界でやっていきたいからっていうのは、すなわち一生芸能界でやっていけると思ったから学業を捨てて仕事に専念しようと思ったのか、それとも芸能界でやっていく覚悟を決めるために学業を捨てて逃げ道を作らないようにしたのか。

「でもまぁ、真由ちゃんを見てると高校生活もなかなか悪くなさそうだよね」

「どういう意味ですか?」

「そのまんまの意味。テスト勉強したりとか、友達と食べに行ったりとか、楽しそうじゃん」

 水を飲みながら輝君はそう言って、笑った。

 高校生活が始まって一か月とちょっとしか経っていないけど、確かに楽しい。菅野さんと関谷君の掛け合いを見たり、沢松君の不思議発言にお腹を抱えたりする毎日はとても充実していると思う。

 勉強だって苦じゃない。そりゃあ理系科目は苦手だけど、嫌いじゃない。父のようになるには、学ぶ姿勢が重要だと思う。

「ところで、その手に持ってるのは?」

「あ、古典の単語帳です」

「へぇ、懐かしいな。見せて見せて」

 ぐいっと輝君が顔を近づけてくる。さっきまでダンス練習をしていたのか、髪の毛は少々乱れているけれど、やっぱり顔はきれいだ。

「ラ変って何?」

「ラ行変格活用です。文法みたいなもんでしょうか」

「なるほど。古典ってことは何か物語がテストに出るの?」

「はい。今回は源氏物語です」

「いいね! この間、源氏物語の舞台のオーディション受けたよ」

「え!? 輝君レベルでもまだオーディションあるんですか!?」

「そりゃあ、ね。ほら、俺は今人気急落中だから」

 自嘲気味に言う輝君を見て、少し胸が痛んだ。

「でも別に諦めたわけじゃないよ」

「え?」

「必ず、もう一度成功させてみせる」

 急に真剣な顔をしてじっと見つめられ、鼓動が早くなる。

 初めて会った日、苦しそうに寝返りを打った輝君は間違いなく『もう一度』と呟いていた。その意味が、今ならわかる。

「そうだ、ちょっとダンス見ててよ」

「え!?」

「明日、ライブやるんだ。どうしても自分の納得いく仕上がりにならない曲が一曲あってね」

「どの歌ですか?」

週刊誌が出て以降、輝君はまだ新曲を出していない。それが偶々なのか必然なのかは分からないけれど、売れている時に出した歌なら私も全部知っている。シングルを買ったわけでも、アルバムを持っているわけでもなかったけれど、テレビでも街中でも何度も流れていたから。

 タオルと水を置いてパソコンを操作する。キーボードをタッチする細くて白い指。頭の先からつま先まで、一之瀬輝という男は隙がない。女である私よりも美容に気を遣ってるとでもいうのだろうか。いや、私も特別気を遣ってるわけでもないけど。

「そこに座ってて」

 輝君の言葉通り、鏡の前に体育座りする。

 音楽が流れ出した途端、空気が変わった。確かこの曲は、輝君の一番新しい曲。つい数ヶ月前までどこへ行っても流れていて、毎日のようにテレビで輝君が披露していた曲だ。

 ここはマンションの地下にあるスタジオで、ライブ会場じゃない。輝君が着ているのは衣装じゃなくて、いつぞやに見た黒のジャージだし、カラフルな照明もない。

 なのに。

 何だろう、この迫力は。輝君が踊って歌いだすと、たちまちライブ会場に早変わりしたような雰囲気になる。心が弾むような、わくわくするような、そんな気分になる。

 すごい! すごいよ輝君!

「真由ちゃん、大丈夫?」

「……はっ!」

 輝君に圧倒されてしばらく固まっていたようで、話しかけられてやっと我に返る。

「ごめんなさい私……すごすぎて拍手も出来ませんでした……」

「ほんとに? まだまだ改善の余地はあると思うんだけどな」

 本当に、どこをどう改善するんだろう。

 しばらく談笑して私は部屋に戻った。

「輝君、本当にあんな事件起こしたのかな」

 輝君と関われば関わるほど、事件について疑問が浮かび上がる。あんな努力家な人が、自らの首を絞めるような事件、起こすのかな。優しい人が、人を傷つけたりするのかな。

 考えれば考えるほど分からなくなる。輝君を信じること、それは父とつかさちゃんを疑うことになる。けれど……。

「悩んだって仕方ないね! 今日はもう寝よう!」

 単語帳を机に置き、ベッドに寝転がる。

 その日、私は夢を見た。

 勉強のし過ぎなのか、はたまた輝君と話していたかはわからない。夢の中の私は舞台を見に来ていた。源氏物語だ。光源氏の役はもちろん輝君だった。平安時代の貴族の格好をしている輝君も、やっぱりカッコいい。

「さ、紫の上こちらへ」

「え!? 私!?」

 舞台を見ていたはずが、いつの間にか舞台の上にいた。紫の上って確か光源氏が誘拐(失礼だが、事実である)して、自分好みに育てて正妻にしたっていう……いわば光源氏が最も愛した女性、てことになるのかな? それが私?

「私は、光源氏の生まれ変わりです。昔は様々な女性と恋に落ちました。しかし今は、あなたしか……真由ちゃんしか見えないよ」

「うわあああああああっっっ!」

 自分の叫び声で起きるという経験を初めてしたと思う。あまりにも現実離れした夢を見てしまった。生まれ変わりとかおかしいから! そもそも光源氏、実在してないからね! モデルの人はいるって説はあるけど!

「これはもう完全に毒されてる……」

 何とも言えない気持ちのままを引きずったまま、学校へ行く。

 この日以降、源氏物語を勉強しようとするとどうしても光源氏が輝君に脳内変換されてしまうようになってしまった。テスト中も『ここでの光源氏の気持ちを答えよ』という問いに答えようとすると、自分が考えた解答を、頭の中で輝君扮する光源氏が再現してくれるという具合だった。

 古典が一日目で本当に良かったと思う。最終日だったら他の科目なんて手がつかないところだった。

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