第2話 ごはんだよ、お隣さん

 その日は驚きのあまりしばらく石化した後、転がるようにして一之瀬輝の家を飛び出した。あまりの衝撃に自分の家の鍵を回すときも手の震えが止まらなかった。

 お風呂に入るときも、明日の用意をするときも綺麗な寝顔を思い出してはドキドキし、はっと我に返って『落ち着け、自分』と言い聞かせることを繰り返した。

 洗濯を取り込むときは意識的に一之瀬輝の部屋のほうを見ないようにした。

 そんなこんなで看病できずに放ってきてしまった罪悪感とドキドキがせめぎ合い、結局朝までほとんど寝られないまま、学校に向かうことになった。

「おはよー真由ちゃん。あら、どうしたの?クマできてるわよ?」

「おはよう菅野さん。ちょっと寝れなくて……」

「ホームシック? それとも何か困りごと?」

「いや、ちょっと……多分、ホームシックかな?」

「やーん! 可愛い! 寂しかったらいつでも呼んでくれていいのよ?」

「あ、ありがとう」

 ……言えない。お隣さんが廊下で倒れていたから部屋まで運んだら、それがアイドルの一之瀬輝だった、なんて言えるわけがない。そもそもあんな高級マンションに住んでいることだって非常に言いにくいというのに。

「幸田さんおはよー。あ! 菅野! お前今日の朝練、よくも違う時間教えてくれたな!」

「やあねえ。ちゃんと聞かないほうが悪いのよ。それに遅刻じゃなくて良かったじゃない?」

「そう言えばそうだな……って! 俺、三十分も待ちぼうけだったんだぞ!?」

「練習してれば良いじゃないの」

「あっ、そうか!」

 ポンッと手を打つ関谷君。二人の掛け合いを見て少しHPが回復した。

 それにしても、間近で見る一之瀬輝はやっぱりかっこよかったなぁ。

 ……じゃない! どうしてよりによって一之瀬輝なの? ナギサ君なら良かったのに。

「幸田さん。呼ばれてるよ」

「え?」

 斜め前から沢松君に声を掛けられ、はっと現実に戻ってきた。

 どうやら出席をとっている途中らしい。

 だめだ、また私は一之瀬輝について考え込んでたのか。

「幸田さん、ほんと大丈夫?」

「うん。ちょっとボーっとしてた」

「これ食べて元気出して」

 小さなチョコレートを机の上に置かれる。沢松君本当に優しい。

「そういえばさ……一之瀬輝って」

「うわあああああああああ!!!!」

「え!? 何!? どうしたの!?」

 なんてタイムリーな、そしてドストライクな単語を。椅子を倒す勢いで立ち上がって叫んでしまった。目を見開いて口を限界まで空けている今の私の顔のほうが、よっぽど驚かれるような顔をしていると自分でも思う。先生は住所を見たときと同じようにひっくり帰りそうな勢いだった。ごめんなさい、先生。

「ごめん、取り乱した。一之瀬輝がどうしたの?」

「いや、最近見ないなーって思って」

「そりゃあんな記事出たら、干されるだろうな」

「不祥事? 何だ?」

「やだ、変な芸人は知ってるのにゴシップには疎いのね沢松君」

「俺は基本的にお笑い番組しか見ないんだ!」

「威張って言うことじゃねえ!!」


 一之瀬輝―――容姿端麗、運動神経抜群、歌もダンスも完璧。まさに絵に描いたようなスーパーアイドル、だった人。彼の出すシングルは飛ぶように売れ、ライブのチケットは、席によってはオークションで数十万に跳ね上がることもあった。

 そんな人気絶頂のアイドルだったにも関わらず、数ヶ月前に出たゴシップ記事で人気は急落。レギュラー番組、CMを次々と降板。今はテレビで見ることはほとんどなく、小さな会場で静かに活動しているらしい。

「くっそー一之瀬のやつ、つかさちゃんを休業に追いやりやがって……」

「あんたファンだったの?」

「だって可愛いじゃん! つかさちゃん超可愛いじゃん!」

「そうよねー、ほんと可愛くて食べちゃいたいくらいだったわぁ」

「出た! レズの本気!」

「おだまり焼きそばヘッド!」

「ひでえ!」

「焼きそばコントの始まりか」

「さ、沢松君。心の声が出てるよ」

 ゴシップについては私も十分知っている。それにうち所属のつかさちゃんが関わっていたことも、彼女本人から聞いたので事実だ。

 トップアイドル一之瀬輝。その正体は裏で女性アイドルや女優、歌手、モデルに次々と手を出しては、すぐにとっかえひっかえする最低男。つかさちゃんの休業の原因は彼に捨てられたことによるショックからの精神崩壊。そんな記事だった。

 現につかさちゃんは芸能生活を続けていくことが困難なほど情緒不安定に陥っていた。何度か事務所の手伝いでつかさちゃんに会ったことがある。頑張ってテレビや雑誌の撮影では笑顔を見せるものの、楽屋での彼女は終始暗かった。

 そんな彼女を見るに耐えかね、父は彼女を引退させることを決定した。最初は大丈夫ですから、頑張りますからと言っていた彼女だったけど、日に日に疲弊していくのを見て、引退が嫌なら休業という形で収めた。

 今、彼女は心療内科にかかって復帰を目指している。彼女の口から出る言葉は「輝君に申し訳ない」と言った言葉ばかり。完全に一之瀬輝にマインドコントロールされているような状態だ。

 だから私はお隣さんが一之瀬輝だと知って激しく動揺したし、かっこいいなどと悠長なことを思ってしまった自分を思いっきり殴りたくなった。

 私までマインドコントロールされたらどうしよう。一般人だしないとは思うけど。


「どうか会いません様に、どうか会いません様に、どうか……」

 夕方。マンションに帰ってきた私は、エレベーターの中で何度も何度もそうつぶやいた。一緒に乗っている人に、いつもとは違う意味で不思議そうな目で見られたが気にしている場合ではない。

 会いたくないのだ、彼に。絶対に、もう二度と。

 幸いこの一週間を見ていると、生活リズムが違うので会う確率は低いはず。昨日は本当にたまたまだったんだと思う。たまたま時間が合って、たまたま倒れてた。そんなとこだろうと思うことにする。

「よし、いないな」

 すばやくエレベーターを降りて回りを確認する。大丈夫、今日はぶっ倒れていない。

 もう片方のエレベーターも、ここまで上がってくる気配はない。

 忍者のようにすばやく自分の部屋の前に移動し、すばやく鍵を開ける。開けた途端、ふんわりといい匂いがした。どうやら今日の晩御飯は郁美さん特製のカレーらしい。

「ただいまー! 郁美さん今日はカレーなんだね!…ってうえええええええ!?」

 久々のカレーだ! わーい! なんて子どものように上機嫌でスキップしながらリビング来てしまった自分を殴りたい。そして玄関からもう一回やり直したい。

「おかえりなさい、真由さん」

「おかえりー」

 テーブルにおける私の定位置のちょうど向かい側。

 郁美さんのおかえりに続いてごく自然に、当たり前のように、いつもやってるでしょ?

とでも言うように、私の『ただいま』に『おかえり』と返してきた男。

 敵(一之瀬輝)は、すでに郁美さんを篭絡し、中に侵入していた。

 くそ、やられた!

「あ、あの……郁美さん? これはどういう?」

「真由さん! この人かっこよくないですか!? さっき昨日のお礼にと手作りのケーキを……」

「じゃなくて! 何で家にあげちゃったの!?」

「いけませんでしたか? 優しそうだったのでつい」

「いけませんも何も……この男は……はっ!」

 不思議そうにしている郁美さんを見てやっと気付いた。そうだ、郁美さんは初対面の人に対しても全く警戒心がないほど人を信じやすくて、その上テレビを全く見ない人なんだった。だから郁美さんはこの男が悪名高いトップアイドル(元だけど)だって知らないんだ。ナギサ君のことだって、父が頻繁にしゃべるから最近になってやっと知ったぐらいだったっけ。まぁそんなミーハーじゃなくて天然な郁美さんだからこそ、父は安心して雇ったのだけど。

どうしよう、正直に教えてあげるべきか? でも本人の前で最低な男だとか言って暴れられても怖いしなぁ。

「郁美さんのカレーすごく美味しいですね。今度作り方教えて下さい」

「ええ、いいですよ。真由さんも一緒にどうですか?」

「わーい教えてほしい!……ってちがーう!」

「へえ、ノリツッコミできるんだ? すごいね!」

「すごくなあああああい!」

 ダメだ。郁美さんは完全にこいつのペースに巻き込まれている。恐るべし一之瀬輝。これが、数々の女性を弄んできたアイドルの実力か。しかしちゃんと郁美さんに敬語を使っているのは意外かも。とにかく、今は静かに様子を見よう。

「い、いただきます」

「はい、どうぞ。では私はそろそろ」

「やーだー! 郁美さん一緒にいてよおおおお! 一緒にご飯食べるうう!!」

「あらあら、真由さん今日は甘えん坊さんですね」

「そうなの! 甘えたいっ! 甘えたい年頃なの!」

「一人で食べるより、誰かと食べたほうが美味しいよね」

「あなたは黙っててください! 郁美さん行っちゃやあだあ!」

 もはや恥を捨ててでも必死で郁美さんを引きとめる。静かに様子を見ようと思っていた私はどこへ行ったのか。

こいつと二人っきりなんて冗談じゃない。私は絶対にマインドコントロールされないようにしなきゃ。そのためならたとえ高校生であっても、郁美さんの腕を掴んで駄々っ子のようにジタバタだってしてみせる……!

「案外子どもっぽいんだね、真由ちゃんは」

「勝手に名前で呼ばないで下さい!」

 キッと一之瀬輝を睨む、誰のせいだ、誰の。何で名前を知ってるんだ。まぁ郁美さんが教えたんだろうけれど。

くすくす笑う一之瀬輝はやっぱり整った顔をしている。どんな表情でも綺麗に見えるのは計算なのか、はたまた天性のものなのか。

 いやいや絶対前者だ。アイドルなんだからこれくらい朝飯前のはず。今夕飯だけど、朝飯前。あ、なんか今……沢松君の生霊が憑依したような……。

 ひたすらカレーを食べることに集中し、目の前の一之瀬輝は極力視界に入れないようにする。昨日の洗濯物を取り込んだときと同じように。

「持ってきてくださったケーキ、切り分けましたのでどうぞ」

「ええええええ!?」

 本当に今日は何回驚いて叫んでいるんだろう。出てきたケーキはまるで、デパ地下で売っているような見事なものだった。ご丁寧にクリームで花柄のレースのような模様まであしらわれている。

 もしかしてアイドルは副業で、本業はパティシエなのかもと思ってしまうほど、素敵なケーキだった。

「昨日はありがとう、あやうく脱水症状で死ぬところだったよ」

「何で脱水症状なんかに」

「ちょっとはしゃぎすぎちゃって」

 アハハと笑う一之瀬輝を見て思わず『遊びまくってるからですか?』『暇なんですか?』と嫌味を言いそうになってしまったけど、流石にそれはひどいなと思いとどまる。

 ちなみに今日の一之瀬輝の格好は昨日着ていたジャージの青色バージョンだった。色違いで何枚か持っているんだろうか。ちょっと気になる。

 毒が入っているのではというありもしない妄想に一瞬取り付かれつつも、目の前の美味しそうな誘惑には勝てず、ケーキを一口食べる。ふわふわのスポンジ、ちょうどいい柔らかさの甘いクリーム、てっぺんにのっているイチゴの酸っぱさと、中に入っている様々なフルーツが合わさって絶妙な味だった。 

「お、美味しい……!うそ、何でこんな……美味しい!」

「気に入ってもらえて良かった」

 私が食べる様を終始ニコニコしながら観察する一之瀬輝。何気なく前を向くと目が合ってしまった。笑顔を崩さず、目線もそらさない一之瀬輝に、一方的にドキドキする自分が本当に情けない。罠だ、罠だこれは。しっかりしろ、幸田真由。

 しばらく見つめ合う形になってしまったけれど、はっと我に返って慌てて目をそらした。

「じゃあ俺、そろそろ行くわ。また一緒にご飯食べようね」

「勘弁してください……」 

 多分心臓が持たない。あとこの何か悪い事してるかもという不安も消えないから。

 そんな私の心の中をよそに、一之瀬輝はゆっくりと立ち上がって玄関に向かった。

「あ、ケーキありがとうございました」

「またいつでも作ってあげるよ」

 昨日、沢松君が私にしたように、一之瀬輝も私の頭をぽんぽんと撫でた。沢松君のときはなぜか安心感を覚えたのに、今日の一之瀬輝のそれは、安心感なんてなった。

 むしろ今まで一番心臓がドキドキしてしまった。

 だめだって言ってるのに、心臓はなかなか言うことを聞いてくれない。

 かっこいいアイドルなんて見慣れているはずなのに、どうして一之瀬輝にはこんなに緊張してしまうのか、自分でも分からない。

「お隣さん、優しい方でよかったですね、真由さん」

「え!? あ、うん」

 この後、郁美さんにはしつこいくらいに一之瀬輝がお隣さんだったということを父には言わないでほしいとお願いしてから見送った。

 父がこのことを知ったら絶対顔を真っ赤にして怒るだろう。大事な所属モデルを傷つけられたのだから。記事が出てからしばらくの間、父は思い出したかのように一之瀬輝への怒りを爆発させ、そして同時につかさちゃんのことを必死で支えていた。

 いつも温厚な父があれほどまでに怒っているのは後にも先にもあの時だけだったと思う。

 そんな父を横目で見ているのに、つかさちゃんが泣いていたのを何度も目撃しているのに。どうして一之瀬輝なんかと仲良くご飯を食べてるんだろう。頭を撫でられて、バカみたいにドキドキしてしまっているんだろう。

『一人で食べるより、誰かと食べたほうが楽しいよね』

 ふと、郁美さんを引き止めるために駄々っ子攻撃をしてるときに、一之瀬輝が言った事が頭によぎった。

 昨日、クラスのみんなとご飯を食べたとき。

そして今日郁美さんのご飯を、一之瀬輝と郁美さんの三人で食べたとき。

 とても楽しくて幸せだと思った。もちろん一人でご飯を食べることなんて平気な人もいるだろう。私も先週はそうだった。一人でも平気だった。

 でも、やっぱり本当は、誰かと一緒に食べるほうが何倍も幸せだと思う。

「まさか一之瀬輝でそのことに気付いちゃうなんて悔しいな」

 お隣のアイドルが私と同じことを考えてるなんて、ちょっぴり嬉しい。いや嬉しいとか思っちゃダメなんだよ、本当に。一之瀬輝、なかなか強敵だ。

 テーブルに置かれたケーキはまだまだ残っている。見れば見るほど素晴らしい出来だと思う。明日のおやつにでもしよう。

 普通倒れているのを部屋に運んで水を持って行ってくれただけの相手のために、ここまでするだろうか。このケーキを作るには結構時間がかかりそうなことは、普段料理をしない私でも見て分かる。

 一之瀬輝は、案外いい人なのかもしれない。

「だからだめだって! 罠よ! 真由、しっかりしなさい!」

 が、すぐに頭を振ってその甘い考えを打ち消す。

 実は一之瀬輝は私が芸能事務所の社長の娘だと知っていて、それでこっちの事務所の動きを探るためのスパイなんだ。そうだ、これだこれでいこう。もう絶対にドキドキなんてしない。スパイに心を許すなんてありえない。

 なんて素晴らしい妄想力で決意を新たにしたにも関わらず、この日から週に一回ペースで一之瀬輝が夕飯メンバーに加わることになった。

「真由ちゃん、今日も一緒に食べようよ」

 そして名前で呼ばれることも、早々に許してしまっている自分がいる。

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