お・と・な・り
紅葉
第1話 初めまして、お隣さん
私の将来については物心がついたころ……父と出会ってから既に決まっていた。
それについて反抗するつもりもないし、むしろ世知辛い今の世の中を生きていかなきゃいけないのだから有難い話だと思う。
「真由、高校生になったら自立心を養うために一人暮らしをしなさい」
「はい、お父さん」
父の教育方針の下、中学卒業後、世田谷にある実家を出て、新宿のマンションでの一人暮らしを始めた。
通学にも便利なこの地での生活。最初は不安いっぱいだった。
何しろ私は生まれてこの方まともに家事をしたことがない。料理も学校でたまに実施される調理実習程度、洗濯だって掃除だってほとんどしない。
そんな私が一人暮らしなんてやっていけるのか……なんて心配はすぐに吹っ飛んでしまった。
「うーん……お父さん、自立させる気ほんとにあるのかなぁ」
日曜日の夕方。実家から運んできた大きな白いベッドに寝転びながら、部屋を見渡す。
高校に入学して一週間、ここに引っ越してきても一週間。とにかくこの部屋は広すぎる。
「真由さん、お掃除に上がりました」
「本日の夕食出来上がりました」
「ありがとう梓さん、郁美さん……っていいよ! 自分でやるよ!」
「ですが……ご主人様の言いつけですので」
「いいっていいって! 頑張るから!」
ここは新宿でもっとも高級とされる有名なタワーマンションの最上階。
フロア内にある戸数はたったの二つ。そんな贅沢なフロアの住民の一人が、まさかの女子高生だなんて聞いたら他の人は卒倒すると思う。現に担任の先生に書類を提出したとき、マンションの名前を見て気絶しそうになっていた。
「また明日来ますね」
「だから大丈夫だってば! あ、掃除と料理ありがとう!」
「いえいえ」
笑顔で手を振る二人を見送り、リビングに向かう。綺麗に掃除され整理整頓された部屋。中央にある透明なテーブルには郁美さん特製サラダにローストビーフ、スープが並んでいる。
見ているだけでよだれが出てしまうほど美味しそう。そして実際ほっぺたが落ちそうなほどに美味しい。
「いただきます」
手を合わせて元気よくそう言って早速食べ始める。
「あーやっぱり美味しい!」
昔から食べることは大好きだった。私にとってのおふくろの味といえば、まさに郁美さんが作ってくれるご飯のことを指す。栄養満点、彩り鮮やかな郁美さんの料理が私はいつも楽しみだったし、今もそれは変わらない。
実の母親を知らない私のために、郁美さんは一生懸命料理を作ってくれる。
「ごちそうさまでした!」
皿を流しに持っていき、皿洗いの準備をする。いくら家事をほとんどしないと言ってもこれくらいできる……けど。
「これでセット完了」
軽く水ですすいだ後、最新式の食器洗い乾燥機にお皿を入れてスイッチを押す。ゴゴゴという音を立てて機械が動き出し、中で勢いよく水が舞っている音が聞こえる。
お皿洗いが終わるまでに洗濯物を取り込もうとベランダに出た。ちなみに洗濯も、干すまでは日中にお手伝いさんがやってくれる。お父さんの言う自立って? と問いかけたくなるほどに、とても過保護で、悠々自適な一人暮らしだと思う。仕送りも、十分なほどもらっているし。使わない分はこっそり貯金しておこう。
本当は自立しなきゃいけないのに、ついつい郁美さんたちに頼ってしまって私ってダメだなぁと反省しながら洗濯物を取り入れていると、ふとあることに気付いた。
「お隣さんって……どういう人が住んでるんだろう?」
生活リズムが違うのか、私はまだお隣さんに会ったことがない。頑張ればこちらのベランダから少しだけお隣さんのベランダも見えるが、電気がついていたためしがない。
そして今日も電気は消えている。
「こんなところに住んでるってことは相当のお金持ちよね」
広いマンションではあるけれど、父曰く、一応ここは一人暮らし用らしい。違反していないと考えれば、お隣さんも一人のはず。
たまにエレベーターで違うフロアの住民と一緒になる(最上階ボタンを押すと高確率で不思議そうにじろじろ見られる)が、やはりみんな高そうな服やアクセサリーを身に付けていたりする。
「まぁそのうち会えるよね、たぶん」
洗濯を全て取り入れて窓を閉める。
めでたく(?)お隣さんに会えたのは、なんと次の日だった。
「あ、郁美さん? 今日は友達と食べて帰るから夕飯大丈夫だよ。うん、ファミレスで。……大丈夫だよ、お父さんとの約束どおり九時までには家に着くようにするから。また家についたら連絡するね。はーい」
高校生活二週目の月曜日。座席が近い四人組で『高校生活頑張っていこう会』なるものが開かれることになった。中学のときもそうだけど、やっぱり最初に仲良くなるのは、必然的に席が近い人、すなわち名前の順が近い人だと思う。
私がこの高校を選んだのも、自立するための一環だった。今まで通っていた私立中学校は、そのまま付属の高校に上がることも出来たけれど、それを辞めた。
掃除、食事、何でも世話を焼いてくれる、至れり尽くせりな中学校生活もそれなりに楽しかったが、大人になれば私は父の会社を継がなくちゃいけない。そうなったとき、何も出来ないようでは困ると、気付いたのだ。
どの社員よりも朝早く出社し、どの社員よりも遅くまで働く。それでいて所属しているタレント、社員、仕事で関わる他社の人々への気遣いも決して忘れない。
「常に周りに感謝しなさい。そして色んな事が出来るように日々勉強しなさい」
それが私の父である幸田雄介の口癖だ。今でこそ大きな事務所に成長したけれど、最初はたった二人しか所属していないような小さな事務所だった。
事務所の掃除も、二人のスケジュール管理も、経理関係も全部父がやっていた。郁美さんや梓さんを雇う前は、なかなか仕事が回ってこない日が続いた。そんな時、父はその二人を家に招いて、自ら手料理をふるまっていた。
つまり、父の跡を継ぐという事は、自分の力で何でもやってみせるようなたくましさが必須なのだ。
「真由ちゃん、行きましょ」
「うん」
前の席の菅野さんに声を掛けられる。今日の『いこう会』に参加する一人だ。菅野さんは中学時代からバレーボールをしているらしく、とても背が高い。座っているときはいいけれど、立って話すとなると見上げる形になる。
「やーん、真由ちゃん上目遣い可愛いー!」
「えっ? ちょっと、そんなつもりじゃ……」
「うーん、やっぱり女の子は小さいほうが可愛いわよねえ」
ぎゅうぎゅうと菅野さんに抱きしめられる。背は高いけどれっきとした女の子だし、口調も女の子らしさ満開なのだけど、ハスキーボイスのため、男子からはオネエなのでは? と言われている。面と向かってオネエと言われたら反論しているけれど、本人はそこまで気になっていないらしい。おでこの部分にちょうど菅野さんの大きな胸が当たる。貧乳の私としては菅野さんが本当に羨ましい。私も菅野さんくらい胸があったら、少しは色気があるように見えるかもしれない。
「ほら、そこレズってないで行くぞ!」
「やだもう! レズじゃなくて百合って言ってよね!」
「どう違うのか俺には分からん! オネエ、教えてくれ!」
「オネエじゃないわよ!!」
菅野さんと言い合っているのは隣の席の関谷君だ。関谷君もバレー部らしく、菅野さんと並ぶと迫力がある。自己紹介では「この天パがチャームポイントです!」と発言していた。菅野さんとは中学から一緒のようで、いつも今みたいにテンポの良い夫婦漫才みたいな掛け合いを披露している。今も絶賛掛け合い中だけど、ずっとぎゅっとされていてちょっと苦しい。
「二人とも何やってんの。まずは幸田さんを解放してあげなよ」
ぐいっと腕を引っ張られ、やっと息を吐き出す。ああ、空気って素晴らしい。
「大丈夫?」
「うん、何とか。ありがとう」
「別にお前のためじゃない」
「え!? じゃあ誰のためなの!?」
意味不明なツンデレを見せるのは菅野さんのお隣さん、沢松君。関谷君とは対照的にまっすぐのストレートヘアーが特徴。たまに窓から吹いてくる風で髪がなびいているが、すぐに元のヘアスタイルに戻る。何を考えているか分からないようなポーカーフェイスで、菅野さんいわく「黙っているとかっこいいけど、話し出すと不思議ちゃん」らしい。
確かにこの意味不明なツンデレ具合からして既に不思議。
この三人と私の四人が今日のメンバーだ。
「ええ!? 真由ちゃん一人暮らしなのー?」
「うん。この春からね」
「高校生で…ご両親は?」
「お父さんは世田谷に住んでるよ。芸能事務所経営してる」
「芸能事務所!? すげえ! どこ!? どこの事務所!?」
「プルメリアリズムっていう……」
「きゃー! 知ってるう! あれでしょ!? アイドルの空野ナギサ君のとこでしょ!?」
「あとちょっと前に休業宣言しちゃったけどモデルの西内つかさちゃんとか!」
「タコヤキッスのガリガリレオレイとチューベルトとか」
「誰その人、芸人?」
「ああ、最高におもしろい」
どうだと言わんばかりのドヤ顔を疲労する沢松君。たしかにタコヤキッスはうちの所属芸人で、しかも一番最初に事務所に入った二人だけど、このコンビを知っている高校生がいるとは。思わず感心してしまう。同時に沢松君の不思議具合がますます深まっていく。
「じゃあさ、真由ちゃん芸能人に会うことあるの?」
「時々かな。父の仕事の手伝いでテレビ局とか行ったときにちょこっと」
「いいなー! 私もナギサ君に会いたーい!」
「お、おれは女優の松木さやかとか……」
「タコヤッキスに」
「沢松君どんだけタコヤキッス好きなの!?」
いこう会は終始笑いが絶えなかった。菅野さんと関谷君の掛け合いに爆笑してみたり、沢松君の意味不明な返しに突っ込みを入れてみたり。
もっと大人になって、今日のことを思い出すとああ、青春だったなぁって思うんだろうな。
お揃いの制服を着て、ファミレスでいろんなことを話して、笑って、笑い疲れたらジュースを一気飲みしてみたり。
「あー、笑った笑った! 明日もがんばりましょ」
「だな! 菅野、明日朝練何時からだっけ?」
「七時―」
「げ、早く帰んないと!」
時刻は八時。店を出て駅に向かう。昼間は多少暖かいけれど、夜になるとまだ少し肌寒い。カーディガンを羽織っていて正解だ。
「幸田、家どこだ?」
「私は新宿で降りる」
「そうか。気を付けて帰れよ」
「ありがと、沢松君」
「別にお前のためじゃない」
「だから誰のため!?」
うーん、何か段々この感じ、菅野さんと関谷君みたいになってきた気がする。
沢松君に頭をポンポンされたけど、別に嫌だとは思わなかった。
お兄ちゃんにあやされてる感じに近い。同じ年だけど。
みんなに手を振って電車を降り、少し早歩きで改札を通って、そこからは走って家に戻る。郵便受けをチェックしながら実家に電話を掛けた
。
「もしもし」
「あ、郁美さん? 今もうマンションの前だよ。お父さんは?」
「ご主人様はまだ帰っておりません。今日も打ち合わせがあるみたいで」
「そっか。じゃあメールしてみるね」
「ええ。きっと喜ばれます」
「うん。じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい、真由さん」
電話を切り、次はメールを打つ。メールをする相手は断トツで父が多い。あまり慣れていないのか時々とんでもない誤字が混ざっていたりするけど、忙しい合間を縫ってメールをしてくれると思うと何だかうれしい。
「『今日は学校の友達とご飯食べたよ。お父さん、仕事がんばってね』……送信っと」
携帯をカバンにしまい、エレベーターに乗る。最初の二、三日は最上階に上がる最中に耳が若干痛くなっていたけれど、今はずいぶん慣れた。
静かにドアが開く。ふと前を見ると、誰かが倒れていた。
「うっ……」
「だ、大丈夫ですか!?」
苦しそうなうめき声が聞こえ、慌てて駆け寄る。黒いジャージを着た男の人だった。
もしかしてこの人がお隣さん……?
なんて言ってる場合じゃない! 助けないと!
「大丈夫ですか?! お部屋、こっちですよね!?」
わずかに頷いたのを確認し、私は男の人の右腕を自分の肩にかけた。
「お部屋の鍵ありますか?」
「ポ……ポケットの中……」
「ちょっと失礼します!」
一応断りを入れてから男の人のズボンのポケットを探る。チャリン、と小さな音が聞こえたので引っ張り出すと星形のチャームが付いた鍵だった。
「あった! 開けますよ」
「うぅ……」
鍵を差し込んで左に回す。ガチャリいう音とともに鍵が開いた。
若干引きずるような形になりながらも男の人を部屋まで運ぶ。見た感じ華奢だけど、やっぱり女の私が運ぶにはなかなか重い。
「べ、ベッドどこですか?」
「つ、突き当りの部屋……」
「分かりました! もう少しです! 頑張ってください!」
励ましながら何とか奥の部屋にたどり着き、ベッドの脇に座らせる。
するとすぐに男の人はごろんと倒れこんでしまった。よっぽどしんどいみたいだ。
「うう……」
「大丈夫ですか? お水とか持ってきましょうか?」
「だ、大丈夫……すぐ……治る……」
息も絶え絶えに男の人がそう答えた。苦しそうにごろんと壁側を向いてしまったかと思うと、やがて寝息が聞こえてきた。どうやら寝てしまったみたいだ。
「一人にして大丈夫かな……」
「うーん……」
随分と苦しそうだったので、他人とはいえ少し心配になる。
明日の準備だけしてもう一度戻ってこようか。そして看病した方がいいかも。
そう思って部屋を出ようと思ったその時だった。
「もう一度……もう一度……」
「え?」
なにやら唸っているので振り向くと、男の人がもう一度寝返りを打ったらしく、今度は仰向けになっていた。
さらりと顔にかかっていた髪の毛がどかされ、寝顔が露わになる。
その寝顔を見て、私は絶句してしまった。
「うそ……」
綺麗な黒い髪に透き通るような白い肌、長い睫にすっと通った鼻筋。すこし薄めの綺麗なピンク色の唇。どこから見ても隙がないほど整った顔立ち。
私のお隣さん――それは、数か月前までトップアイドルの座に君臨していた一之瀬輝だった。
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