十一 蟻の穴

 オメガが引き上げて二時間後、詠人はパソコンを起動した。

 その十分後にトラブルは発生する。

 古文書の意味不明な箇所をネットで調べているのだが、検索結果から相応しそうな見出しをクリックしても、そのページが表示されない。

 マウスポインタがリング状のまま、回り続けている。

 ブラウザは応答待ちの状態だ。


 考えられる原因の一つはアクセス先のサーバーにある。

 例えば、サーバーの負荷が高くなって、リクエストを迅速に裁ききれなくなったとか。

 詠人はブラウザを再起動して、再度、ネット検索することにした。

 キーワードを入力するのだが、タイピングした文字の表示に時間がかかるようになった。

 この現象の原因はパソコン側にある可能性が高い。

 パソコンのタスクリストを表示しようとするのだが、反応がない。

 タスク一覧を待っているうちにパソコンがシャットダウンした。


 再度の起動を試みるが、電源が入るだけで、その先の起動プロセスに進まない。

 何度も起動を試みたがダメなので、緊急起動用のメモリスティックを差し込んで起動させた。

 拓斗に聞くまでもなく、状況は判明した。

 パソコンのファイルが完全に消去されたのだ。OSも含めて。


 夜遅く、拓斗が一通り調べた。

「兄貴、まずすべきことは部屋の鍵を替えることだ。

 これはネット経由のハッキングじゃない。

 誰かが部屋に入ってきたんだ。

 他には何も盗まれてないことから、パソコンを狙ったんだ」

 拓斗が天井を指さすと、三箇所、天井と同色のテープが貼ってある。

 そのうちの一枚は拓斗が剥がしたのだが、剥がした跡には穴が空いている。

「兄貴の留守中、ここに誰かが入ってきたんだ。

 カメラを仕込んで、兄貴を監視していた。

 盗むでもなく、壊すでもなく、……マンションに忍び込んで、パソコンにトラップを仕掛ける。

 暴力団じゃなさそうだけど、かなりヤバいよ」

「もう大丈夫か?」

「さぁ、ひょっとして隠しマイクやカメラがまだあるかも知れないし」


 翌朝、マンションのコンシェルジュに、合い鍵で侵入されたと伝えると、早速、警察に通報してくれ、管理会社を経由してセキュリティ会社にも連絡してくれた。


 まず、制服の警察官が到着した。

 刑事ものドラマのような物々しい現場検証というものはなく、この制服警官が詠人から聞き取りを始めた。

 聞き取りの最中、セキュリティ会社の担当者も現状把握に来た。

「入退室履歴では、四番の鍵で入館されています」

 入館、入室の鍵は、ブラックボックス化された電子ロック方式を採用している。

 鍵の金属部分は複製できても、絵の部分に仕込まれた暗号発生器は合鍵屋では手に負えない。

 詠人は口にしなかったが、四番の鍵は、瞳が持っている。

 セキュリティ会社の担当者は、携帯型のモニター装置で四番の鍵を使っているとされる人物を探し出した。

「多分、この二人だと思います」

 再生映像を見ながら、詠人は瞳を心配して電話した。

 生憎、彼女のスマートフォンはマナーモードに設定されており、留守番電話に代わった。

 簡潔にメッセージを残し、ショートメールも打った。

 一人目の男はメガネにハンチングキャップで、意識して顔を隠していない。

 二人目はメガネをかけていない。

 入館してエレベーターを降りるまでの二人の動画がオートループされた。


 瞳からショートメールの返信が来た。

 瞳はいつも通り大学にいるようで、詠人の部屋の鍵も持っている。

 複製の鍵か。

 複製したのは誰だ?

 瞳が念のために複製した?

 それを盗まれた?

「住居侵入罪に該当すると思いますが、被害届を出されるのでしたら、所轄署で手続きをお願いします」

 瞳と鍵のことを考えている詠人には、警察官の声が事務的に聞こえた。

「それにパソコンのデータが消されて使えない状態ということでしたら器物損壊罪に該当する可能性があります。

 あのユデタコウイルス事件と似ていますので」

 その事件とは、通称、ユデタコウイルスと呼ばれるウイルスを使って被害者のパソコンのハードディスクを使用不能にしたことで、器物損壊罪で執行猶予のつかない懲役刑の実刑判決となった事件だ。


 昨夜、詠人と拓斗は今後起こりうる可能性を検討した。

 弟が一番心配しているのは、身体に危害が及ぶリスクだ。

「そう思わせることが、最大の心理的効果だろうけど。

 悔しいかな、主導権は相手に握られてる」

「それが誰か?

 それすら、分からない」

「兄貴は恨みをばらまいてきたからなぁ。

 でも、これだけのことができる奴は限られる。

 一般人じゃ無理だ。

 少なくとも兄貴を恨んでいるほとんどの奴は除外していい。

 気になるのは組織、カルトみたいな奴だ」

「例えば、オメガか?」

「オメガなら十分可能性がある。

 今、一番やっつけている相手だし。

 『霊・暴き』と『暴き・緑』が消滅して喜ぶのも奴らだし。

 だとしたら、僕も危ないね」


 被害届をお願いしますよ、と念押しされて我に返った。

 ネットではオメガに対して賛否両論があり、両者が至るところで火花を散らし、炎上することもある。

 日本最大の匿名投稿サイトでは、かつて、オメガのスレッドが毎晩新しく立つ。

 誰かが昼から夕方にかけてスレッドを立てて、夜に盛り上がり、日付が変わる頃に炎上する。

 一旦炎上すると、三日間続く。

 だから、翌日に新しいスレッドが立つのだ。

 炎上させているのはオメガの関係者であることは明らかだ。

 オメガを正当化し、ややもすると称える内容が延々と続くからだ。

 それを論破しようと数千文字の書き込みもあれば、恫喝、脅迫まがいの書き込みが何十倍にもなって返ってくる。

 最近は軽い炎上であることが多い。

 スレッドを放棄するほどでなく、この一触即発の緊張感を楽しんでいる投稿者もいる。

 最近の傾向は、公安ネタと暴力団ネタだ。

 公安がオメガをつぶしにかかっている、オメガと暴食団が闇で抗争している、といった投稿だ。

 詠人は風説と断じている。

 いるのだ。

 オメガのように悪評でも話題になる者(団体)を嫉む者の、公安当局や暴力団に潰されろ、という願望がそのまま投稿になるのだ。


 サイバーポリス山本班はネットの異常に気づいていた。

 『霊・暴き』と『暴き・緑』が消滅したのだ。

「加藤巡査、ブラックウォール・ブレーカーを使わずに『霊・暴き』と『暴き・緑』をサービス不能にする方法ってある?」

「山本警部補でなければ、サービス運営者のコンピューターを操作するしか考えにくいですね」

「そうだよね」

 山本は自らが戦線とよぶサイバーミッションルールから控え室に移り、ガラスケースから公用スマートフォンを取り出した。


 詠人のスマートフォンで通話の着信音が鳴った。

 やや警告音っぽいメロディーは連絡先に未登録であることを示す。

 ひょっとして、犯人からの脅しか?

 詠人が覚悟を決めて通話に出ると、あの山本だった。

「榊君、大変なことになったねぇ」

「今しがた警察の方が帰られたところですけど、もう報告が上がっているのですか?」

「いや、ネットで事情を把握して電話したんだ」

「今忙しいんです。鍵は替えなきゃならないし、パソコンは壊されたし」

「そのパソコンを分析させて欲しいんだけど」

「全て消えてますよ」

「大丈夫。今から行っていいかい。スクープされた豪邸を見てみたいし」

「そっち(パソコンよりも部屋)ですか?はい、はい」


 山本は加藤を伴って詠人の部屋を訪れた。

「合い鍵作って、部屋に入って、とは、用意周到だね。

 ハードディスクを分析すれば犯人の見当はつくよ」

「あのぉ、次は僕らをぼこぼこにしに来るんでしょうか?

 いわゆるお礼参りに」

「昨日のことが『お礼参り』でしょ?

 暴力を振るうなら、君が帰ってくるまで待っていたはずだ。

 彼らだって二度手間かけないだろうから」

「あと、弟のことも気がかりですが」

「彼らが目の敵にしていたブログはアクセスできなくなったし、君への警告もしたし、君がおとなしくしているなら、これ以上のことはしないはずだ。

 今のところオメガだといいう証拠はない」

「(事情を)ご存知なのですか?」

「法の制約を受けるから君ほどに派手に動けないけど、君以上に執念を持って追っているんだよ。

 サイバー空間の法の番人として」

「意外と熱いんですね」

「情熱がなければ、サイバーポリスは務まらないよ。

 それはそうと、弟さん、警察官になってくれないかなぁ?

 僕のチームで働くなら、弟さんにとって警察官僚になるよりずっと面白いはずだ」

「それ、今言うことですか?

 まぁ、伝えておきます。

 弟は山本さんに憧れてますから」


 一週間後、山本の元に詠人のハードディスクの分析結果が届いた。

「中井巡査、内部ネットワークから自爆型ウイルスAB11、通常イレーザー・イプシロンを使うといえば」

「国内で確認されているのはオメガだけです」

 長沢地裁事件と大塚地検事件。

 同一の二人組が合い鍵や偽装IDで建物内に侵入し、自爆型ウイルスAB11を使って、サーバーと、そこからネットワークで繋がっているパソコンのハードディスクを使用不能にした未解決事件がある。

 監視カメラに記録されている二人は現在も逃亡中だ。

 出国記録はないが、密出国した可能性もある。

 地図では二百キロ離れた事件だが、共通する関係者から、実行可能性でスクリーニングして残ったのが唯一、オメガだ。

 オメガが実行に関わった証拠はない。

 逃亡中の二人がオメガの関係者である証拠も現時点ではない。

 ただ、状況がオメガの関与を示唆していた。

 今回もそうだ。


 珍しく、益見さんと飯山さん、中根君が田丸編集長の机の前に揃っている。

 三人が揃って編集長の前にいる光景は一年に一度あるかないかだ。

「ふみちゃん、こっち」

 田丸編集長が私を呼んだ。

「棚上げしていたレイコの件、また復活だよ」

 田丸がそう切り出して中根が話を継いだ。

「史奈さん、ギブアップ宣言の理由は『霊・暴き』と『暴き・緑』でしょ」

「中根君、私、ギブアップしてなくてよ」


 『霊・暴き』と『暴き・緑』の投稿内容はレイコの噂と符合すると断定し、二つのサイトの投稿をフォローしていた。

 ところが最近は新しい投稿がなくなり、つい先日、両ブログにアクセスできなくなった。

 レイコの取材は行き詰まったままだ。

 編集長も状況は把握しており、レイコについてほとんど口にしなくなっていた。

 それよりも目先のニュースで精一杯だ。

 今は総選挙のフォロー記事だ。

 私が担当したのは喜多川珠代の顛末だ。

 結局、僅差を制したのは谷川麻紗で、喜多川珠代は負けた。


 選挙区で当選すれば副大臣の下馬評もあった彼女だが、比例代表で当選したので同じ衆議院議員のバッチをつけても、評価は銀バッチ。副大臣どころか政務官すら難しい。

 喜多川珠代の選挙区落選は地元だけでなく、中央政界でも話題だ。

 長老議員が落選した以上のニュースバリューがある。

 血筋の疑惑、私設秘書の恋人発覚、どちらもタブロイド誌の次元のニュースだが、選挙直前となるとボディーブローのように効いてきた。


 ダンテらしくないが、これらを交えた選挙の総括記事の一つを私が担当し、校了したところだ。

 私設秘書の恋人発覚はニュースバリューの次元が低くて相手にしてないが、血筋については私の直感がレイコを連想した。

 出所は不明なのだが、喜多川珠代が科田丸家の血が入ってないという系譜図が出回った。

 出所不明なだけに系譜図の信憑性は疑わしい。

 家の存続を大事とする公家や武家では、血縁のない養子を迎えることもある。

 仮に珠代が、その系譜図によれば六代前の当主、と血縁がなくても正真正銘、科田丸家の末裔なのだ。

 科田丸家直系との触れ込みは初出馬の選挙でも地元で使われたフレーズで、その時は否定する噂は出なかった。

 なぜ今回の選挙で系譜図が出たのか?


 珠代はモードを輸出できる首相候補と週刊誌が揶揄するほどのファッションリーダーだ。

 珠代が最初にクローズアップされたのは、彼女のファッションによる。

 そして、初当選当初から一貫して財政健全派だ。

 国債発行高を減らす前提として予算縮小を訴え続けている。

 各方面の予算カットは敵を生みやすく、珠代には政敵が多い。

 今回の噂の黒幕は、そんな政敵という不確実な情報を得た。

 珠代が予算カットに配慮しているのが、防衛と教育、科学技術といった将来の日本の国力に関する分野で、逆に手厳しいのが医療福祉、特に社会保障、そして公共工事だ。

 厚労族、国交族辺りから足を引っ張られているという憶測もある。

 だとしたら、同じ与党内で族議員間の政争ということになる。

 族議員でなくても、政治団体の息のかかった筋の動きかもしれない。

 私は国交省の周辺が怪しいと睨んでいる。

 リベラルを標榜する雑誌なら、わずかな証言から憶測を広げ、妄想にまで展開してもいいのだが、ダンテにそれは許されない。

 全ては私の胸の内に封印した。


 レイコが噂になったのは一年ほど前からだ。

 レイコが誰と関わりあるのかも分からない。

 私の疑問に中根が答えた。

「先月発覚した大規模な海外投資詐欺だけど、黒幕がオメガという可能性が出てきて、それで僕は最近、オメガを追っていたんだ」

「『霊・暴き』と『暴き・緑』が執拗に叩いていた、あのオメガ?」

 中根もこれらのブログの内容に詳しい。

「『霊・暴き』と『暴き・緑』を通じて、史奈さんと僕は共同取材する必要が出てきたのです」

「私に何をしろって?」

「もう一度、喜多川珠代を追って欲しいんです。

 特に私設秘書の加納美帆を」

 加納美帆の名前は、私の脳裏には、あの写真誌と結びついている。

 私は経済記者だ。

「私にタブロイド誌の記者になれって?」

「編集長、お願いします」

 私を怒らせたことに怖じ気づいたのか、中根は編集長に助けを求めた。

「加納美帆の身辺を洗ってもらいたいんだ。

 タブロイド誌記者風を装って」


「なぜ、私なのです?」

「レイコに繋がるかも知れないからだよ。

 こう言えば、食指が動くだろ?」

「あら、レイコの件は、ここにいる益見さんと飯山さん、中根君が投げ出したから私に廻ってきただけで、中根君が興味あるなら譲るわよ。

 そもそも益見さんと飯山さんがなぜこの場にいるのですか?」


「編集長、ここから俺が」

 益見が小声で言った。

「オメガが政府の地雷を踏んだ」

「ひょっとしてあの詐欺事件が、ですか?」

「そう睨んでいる」

 飯山が口を挟んできた。

「写真誌のカメラマンの話だが、榊詠人のマンションに制服警官が入っていった」

 まだ加納美帆と榊詠人を追っている、閑を持てあます輩がいるようだ。

 自称、フリーライターとかルポライターとかの類か?

 いや、飯山さんの知り合いだから、プロのカメラマンだろうか?

「警察が榊詠人と接触した?」

「そこまでは言わないよ。

 ただ警官がマンションに入ったのは、『霊・暴き』と『暴き・緑』が削除された翌日。

 警官と前後して警備会社も来た」

 そのカメラマンは警察官が入っていったことに、事件のスクープを期待したらしいが、警官は手ぶらで帰っていった。


「警備会社と警察とくれば、空き巣とかですか?

 傷害や殺人なら番記者が掴むはずですから」

「所轄署にはまったく動きがなかった。

 だからあったとしても軽犯罪ってことだろうが、符合を感じないか?」


 警察が来たのだから、通報があったのだろう。

 何らかの被害があったと考えるのが妥当だ。

 マンションのエントランスの鍵が破られた程度か、住居人の誰かが被害に遭ったか。

 マンションの管理人かも知れない。

「飯山さん、それ、すごく乱暴な憶測ですね。

 それだけで警察と榊詠人を結びつけるなんて」

 私は敢えて飯山の仮説を否定した。


 中根が口を挟んできた。

「でもね、それだとすごく話がまとまるんですよ」

「榊詠人が『霊・暴き』と『暴き・緑』を消したってこと?」

「その逆!」

「分からないわ」

「榊詠人が、(『霊・暴き』と『暴き・緑』の)管理人ってことですよ」

「警察官が来たのは、(『霊・暴き』と『暴き・緑』が削除された)翌日でしょ。

 警告にしては間の抜けた話ね」

「被害の実況見分かと」

「何の?」

「多分、『霊・暴き』と『暴き・緑』のIDとパスワードが盗まれたんだと思います。

 それで(ファイルが)消された。

 つまり犯人は榊詠人の部屋に侵入して、彼のパソコンを使って『霊・暴き』と『暴き・緑』を削除したんです。

 これ、筋が通っているでしょ」

「なぜ、そんな危険を冒すの?

 ハッカーなら空き巣の真似事をしなくても、ネットで抹消できるんじゃないの?」

「皆が皆、ドラマに出てくるような天才ハッカーじゃない。

 そこまでのスキルがなかったと思う」


 憶測の域を出ないが、榊詠人と『霊・暴き』や『暴き・緑』が繋がった。

 ぼんぼん医学生がそんなことをしていたのは驚きだ。

 『霊・暴き』や『暴き・緑』とレイコは関係がありそうだ。

 少々強引な論法だが、榊詠人とレイコは繋がりがある。

 だったら、榊の恋人である加納美帆とレイコも繋がりがあると考えるのは突拍子もないことではない。

「ありがとう。

 加納美帆をマークすればレイコに辿り着けるという訳ね」

「おっと、ふみちゃん。

 俺たち三人が雁首揃えて美人を待っていた理由が分かるかい」

「益見さんが、私に会うためのきっかけづくり?」

 茶化したが、益見はまじめだった。

「オメガがそこまでして潰したかったコンテンツの出所を知りたいんだよ」

「あら、だってあの動画を見れば分かるじゃない。

 多分、榊詠人だと思うけど、体を張って降霊会を潰していたでしょ?」

「降霊会に恨みがあるのか知らないけど、危険すぎないか?

 何でそれをする?」

「若者の鬱積したパワーの発散先が、彼には降霊会ということかしら?

 もちろん恨みとか個人的な思いはあったのでしょうけど」


 私は、かつての学生運動、最近のボランティア、そんな若者特有の使命感と枯れることのないエネルギーだと思っている。

「それだけかなぁ」

「益見さんにもあったんじゃありません?

 発散の場所。風俗とは言いませんけど」

「ふみちゃんのそれがなけや、俺好みの完璧な美女なんだけどなぁ」

「先輩、そういうのセクハラっていうんですよ」

 中根が珍しく私を擁護したが、益見には効き目がない。

「セクハラかどうかは、ふみちゃんがどう思うか次第だろ」

 加納美帆を追うだけでは、そこまで掴めるとは思えない。

「つまりは、榊詠人とも接触しろと」

「是非、頼みたい」

 益見さんは真顔だった。


 『霊・暴き』と『暴き・緑』を見事に抹消した千葉亮介は、それでもオメガの幹部から非難された。

 リスクの大きい詠人宅に侵入という手段を使ったからだ。

 監視カメラに写っただろう実行部隊の二人を逃亡させなければならない。

 これで何度目だ?

 逃亡先は国内のアジトだ。

 潜伏中は人目を憚らなければならない彼らを監視するのも実行部隊で、対外工作の人材が割かれることに不満を抱いている。

 千葉は繰り返し説いてきた。

 榊詠人が運営する『霊・暴き』と『暴き・緑』は、ブラックウォールを経由している。

 ブラックウォールを使うほどの手練れは、ネット上にどのようなトラップを仕掛けているか予想できず、トラップによっては不正アクセスの証拠を掴まれるばかりか、カウンター攻撃を受ける危険すらあると。

 何度訴えても幹部はリスクを理解できない。

 だからその先にあるバッドシナリオを想像しようともしない。


 千葉は清流輪教の顛末を分析して、警察当局が監視しているカルト教団のネット上の活動を更に強化しているとの確信を得た。

 根拠はブラックウォール・ブレーカー盗難事件だ。

 海外のハッカー集団からの無差別サーバー攻撃に紛れて、警察当局が秘密裏にカルト教団に攻撃を仕掛けている。

 そんな噂を聞くようになったのもあの事件以後だ。

 喩えるなら、我々教団関係者が道を歩けば、警察官が横に並んで行動を監視するようなものだ。

 ネット上だから、横に並ばれたと自覚しないが、彼らの一連の攻撃とはそういうものだ。

 そして、証拠を掴み次第、家宅捜索の名の下に教団内を土足で闊歩する。

 不意打ちで尻尾を握れない!と、幹部は豪語するが、バッドシナリオを想像できない愚説だ。

 幹部こそ危機感が弛緩している。

 皮肉なことに、その傾向を一層加速させたのが『霊・暴き』と『暴き・緑』の抹消である。

 ネット攻撃の方がより安全で低コストだったはずだ、と後でほざく。

 本末転倒の愚論だ。

 幹部は新たな事業に浮き足立っている。

 ここで引き締めないといけない。

 今は警察当局の監視が厳しく、蟻の穴のような隙でもオメガは崩壊する。

 既に穴は大きい。

 瓦解する前に僕が抹消される。

 誰を頼るべきか?


 やはりナンバー2の鳥海総長とりかいそうちょうしかいない。千葉は鳥海に接近した。

「総長、この状況をどう思われます?」

「状況?」

「幹部に危機感がなさ過ぎます。

 隙だらけで、国家当局に捕まえて下さいと両手を差し出しているようなものです」

「それは言葉が過ぎるな。

 だが、君の懸念を理解できる」

「総長はロシア問題も抱えていらっしゃってご心労が絶えないでしょう」


 鳥海も幹部の緊張感の弛みに苛立ちを覚えていた。

 これは鳥海が置かれた状況も影響する。

 教団の一番の資金源はロシア経由のドラッグだ。

 良質のドラッグは官能的な激しいエクスタシーをもたらすが、常習性以外の副作用はほとんどない。

 この点がアジアから密輸される危険ドラッグとの相違点だ。

 販売ルートもまったく違う。

 危険ドラッグは暴力団の資金源とするために街角で販売されるが、教団のドラッグの購入者は信者だけだ。

 それも出家信者。在家信者は入手できない。

 暴力団も一般市民も関わってないので警察当局も厚労省も国税当局も把握すらしてない。


 なぜなら密輸ルートが前田商事を経由しているからだ。

 前田商事の幹部も一般社員も知らない密輸システムが前田商事の中にある。

 前田商事の民事再生は、この密輸システムの命脈が絶たれる大事件だ。

 ロシア側と共同で前田商事を買い取る計画を進めていたが、キャナリー・ファンドに出し抜かれた。

 米国ファンドの支配下では、密輸ルートが暴かれる危険がある。

 オメガの全ての拠点に当局の一斉捜索が行われ、段ボールを持った捜査官が列をなして建物に入る様子が全国放送される。

 鳥海はそんな悪夢を毎晩見た。

 ホワイトナイト武田加寿美の登場によって、前田商事は現状のまま再建されることになった。

 ホワイトナイトの噂は二転三転したが、鳥海がひとまずの安堵を覚えたのは、武田加寿美が登場しての記者会見である。


「とりあえずだが、落ち着いたがね」

 とりあえず、に鳥海の危機感が解かれてないことを、千葉は感じた。

 オメガの幹部は前田商事事件はこれで解決、経営は安泰と思い込んでいる節があるが、民事再生のようなことがまた起きることもあるのだ。

「だが、ベトナムの件は痛手だな」

 前田商事にからむ、あのロシアのファンドに地元ベトナムの資本を絡ませた投資詐欺だ。

 頓挫したリゾート開発事業を買い叩き、日本人向けの医療サービス付高齢者リゾート住宅として再開発する事業に作り直す。

 この事業はロシアのファンドと地元事業者の合弁事業が再開発し、投資目的の出資者と入居者を登記簿上は日系の投資会社、実体はオメガのダミー会社アジアン・ケア・インベストメントが日本国内で募集する。

 この事業に日本の中間層から富裕層にかけての出資を得るというものだ。

 これが成功すればアジア各地で出資金詐欺を展開する目論見だったが、ベトナムでの詐欺発覚が早かった。

 辛うじて、現地人と投資銀行支店長の共謀、これは事実、という事件の真相で決着したが、逃げ遅れたらオメガにまで当局の手が及んでいただろう。

「ベトナムも元幹部の不始末が原因と聞きますが」

「信じられん!

 カモの女との色恋に溺れるなんて」

 こともあろうか、カモの女性に出資を見合わせるよう、それとなく助言したのだ。

 投資話に不信感を抱いたその女性は第三者に相談。

 犯罪が発覚した。

 今後のアジア各地の案件を勘案すれば、百億円の収入をフイにしたことになる。

 その元幹部は発覚前にオメガから姿を消した。勿論、警察当局にも捕まっていない。

 未だに死体は見つかっていない。


「今は当局につけ込まれる隙を作らないことだ。

 期待しているよ、千葉君」

 危機感。

 この点で思いを同じくする千葉と鳥海だった。

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